【うさぎの手紙】バックナンバー 2005年  秀岡尚子(ひでおか なおこ)   

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うさぎの手紙

秀岡尚子(2005.1.3更新)

あけましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願いいたします。みなさまにとって、素敵な年でありますように。

 私の今年の目標は、さまざまな小さな目標をひとつずつクリアしていくことです。漠然としているように聞こえると思いますが、自分としてはかなりはっきりしています。

 さて、そのさまざまな目標のなかのひとつが、着物です。早い話が"着付け"ですが、それだけではなく、和装のセンスを多少なりとも身につけたい。あるいは身につけるスタート地点に立ちたい、というあたりでしょうか。

 話せば長くなりますが、去年の十月から着付けを習いはじめました。実のところ、私は着付けを習おうなんて思ったことはいままで一度もなかったんです。妹は着物が大好きで、もちろん自分で着ることができます。はたちそこそこで妹が"自分のお金で"着物を買ったときにはものすごくびっくりしたし、その後も着物や帯を自分で手に入れているのを見てはひたすら感心していました。でもそれはあくまでも他人事。本当は私も自分の着物というのをちゃんといくつももっているんですよね、自覚のないまま(こんなこと言ったら怒られちゃうけど)。着付けを習ってみなさいとか、習わなくてもいいから機会を見つけて着るようにと、いままでさんざん勧められましたが、着物が嫌いなわけでなく、いざ着るときの前準備や後始末を考えただけで面倒だし(半襟とかね)、人に着付けを頼めばお金もかかる、私はいいや、と思ってきたのです。今回も特に一大決心をしたわけではないのよね。着物がとても似合いそうな友達が、着物なんて一枚も持っていないし着たこともないなんて言うものだから、つい熱心に――でも軽い気持で――勧めちゃったんですよね。そうしたら、一緒に始めてくれるなら着付けを習ってみる、自分で着られるようになったら着物を買う、と言われ、行きがかり上、やらないわけにいかなくなっちゃったのです。ラッキーなことに、近所に住んでいる妹の友達のお母様が着付けの先生。仕事が忙しい友達のために時間の融通をきかせ、しかも格安で教えてくださることになりました。

 本当はお稽古を始める前に、いろいろ買いそろえたりしなければならないところを、妹が全部そろえて貸してくれて、そのうえ先生も、伺うたびにあれこれ着物や帯をだしてきてくださるという、とても甘やかされた環境でお稽古をしています。最初は着る順番を覚えるだけで精一杯(笑わないでください)。いまは、そうか、本当に難しいのは着る順番ではないんだと気づいて、ほかのさまざまな難しさと格闘しています。

 ネックはイメトレができないところなんですよね。はっきりしたイメージがないので、できるわけがない。目指すものがイメージできないと、なんとなく不安で、やっていることもうまく理解できないじゃないですか。こんなふうに着たい、そのイメージがほしい。妹には、演歌歌手とかでイメージつくっちゃダメだよ、と厳しく言われました。粋に着ている人や優雅に着ている人、素敵な人もたくさんいるけど、ああいうのを私なんかが真似したら実に滑稽(あくまで舞台衣装なんだし)。たしかにね。私はあわててそういうイメージを頭から追いだし、じゃあどうしよう、と考えてしまいました。妹曰く、銀座系はもちろんダメだし時代劇もダメ(そりゃそうだ)、ドラマや芝居での女優の着こなしもいくら素敵でも一般的にはダメ。……となると、どこから自分のモデルを引っぱってくればいいのか……? そう考えると、一般人(?)でごく自然に着物を着て普通に外を歩いている人って、本当に少ないですよね。

 悲しいことに、やっぱり私の頭のなかには、着物というか、和姿の枠組みがないんです。色やかたち、そして素材その他、どんな組み合わせが合っていて、どんな組み合わせがちぐはぐなのかを知らない。自分の好みもまだ全然わからない。好きなようにすればいい、と言われるとものすごく困ります。好きなようにするだけの自由をまだ手に入れていない気がします。それを手に入れるには、その世界に関わるための枠組みが自分のなかに必要だと思う。着物……和装に関して、いまの私にはそれがまだ全然ない。最終的には、ああそうか、ということになって、それが美しいと感じれば美しいし、かっこよく見えればかっこいい、きちんとして見えればきちんとしているし、くつろいだ雰囲気を感じるならそれもその通り、最初からすべてそれでよかったんだ、感じるままでOKだったんだ、と納得することになるのかもしれないけれど、いまはどうもそうは思えず、まず常識を身につけたい。こんな着物にはこんな帯、こんな場合にはこんな着物でこんな結び方、やっぱり自分なりの着こなしができるようになるのは基本が身につき、勘が働くようになってから、という気がします。それを目標にするのって、道のりは長いけどとても楽しそう。

 ――とはいえ、私たちにはまだまだもっとず〜っと基本的な修行が必要なんですけど。まずは半襟をつけること(お裁縫が大嫌いなんだもん)。着物関係の用語もまだあやふやだし、知らない言葉もたくさんある。それからもっと切実なのは草履――草履で歩くこと。だって先生のお宅から私の家まで、三分(もかからないかな)の道のりさえ、信じられないくらいたいへんだったんだもん。一度、きれいに着られたからこのまま帰ってみんなに見せなさい、と先生に言われ、草履をお借りして二人で家まで帰ってきたことがあったのですが――まるで地獄でした。……草履が合わなかったせいだと思いたいけど。

 う〜ん……先は実に長いですねえ。来年のいまごろ、ここに、お正月は自分で選んで自分で着た着物で迎えます、なんて書けるようになっているかしら。

(ひでおか なおこ)






うさぎの手紙

秀岡尚子(2005.3.1更新)

他人の会話

みなさんは、電車のなかとか映画館とかで他人の会話に耳を傾けてしまうことってあります? 自慢じゃないけど、私はよくあるんです。たまにとても面白い話を聞けることもあるし、話そのものはたいしたことないんだけど、会話の様子がちょっと面白いなんてこともある。

おしゃべりしている人たち全員が、どうしても誰かの名前を思い出せないで大騒ぎをしているパターンってけっこうあります。私自身もよく経験することですが、たとえば俳優だったら、出演した映画やドラマ、共演者の名前などはどんどんでてくるのに、その本人の名前だけがどうしてもでてこないのよね。そばで聞いている私のほうが先にわかってしまって、教えてあげたくなっちゃうこともあります(声をかける勇気はないけど)。

テスト帰りの中学生や高校生のグループが、終わったばかりのテストについて、半ば真剣に半ばふざけつつ大声で議論しているのを聞くのもなんとなく面白い。時代が変わってもやってることはおんなじね、という気もして。一人だけ答がちがって落ちこんでいる子がいたりね(そして、どう考えてもその答こそ正解だろうと思うこともある)。

別に人の話を盗み聞きしているわけじゃないんですよ、念のため。周囲に聞こえるほどの声で話しているその話にちょっと耳を傾けてしまうだけ――でもやっぱり悪趣味なのかなぁ……。

全くの他人、しかも、絶対に二度と会うはずのない人たちなのだけど、妙に気になってしばらく頭から追い出せないことはよくあります。まず話をしている二人の関係、あるいは話題にしている人物とその二人との関係が気になる場合。頭のなかで勝手に想像して、当たっていなくても、こんな感じだろうと自分で納得できればそれで充分なんですが、たまにどうもうまく組み立てられないことがあると気になっちゃう。

それから会話の内容が気になる場合。たとえば話の結末。電車のなかだったら、もう降りなきゃいけないけど次の駅まで一緒に乗っていこうか、と思ってしまうことさえあります(さすがに実行したことはない)。あるいは、これから試験を受けに行くとか試合だとかいう話をしている人がいると、どうしたかな、受かったかな、勝てたかな、なんてちょっと気になったりする。

……実は、もう2週間ほどたつのにいまだにとっても気になっている会話があるんです。渋谷のパルコ劇場でたまたま隣に座った二人の女性の会話。私は目が悪くて暗いところではほとんど何も見えません。なので彼女たちのルックスは全然わからないのですが、たぶん私より少し年下だと思います。かなり久しぶりに会ったらしくて、話の種は尽きない様子。二人の話がなかなか面白くて、例によってつい聞き耳を立てていたんです。芝居が始まるまで20分以上も他人の話に耳を傾けていたことになります(悪趣味かなぁ、やっぱり)。これから観る芝居にからんだ話(この日の二人のお目当ては私と同じ人だったようです)からはじまって、他の芝居やバレエの話、さまざまな役者やダンサーの話へと進み、そして最近の映画やテレビドラマの話、そして本の話へと、会話はとりとめなく流れていきました。

……さて、話を聞きながら、私はこの二人となんとなく趣味が合うなぁ、と思っていたんです。観た芝居や映画も重なるものが多かったし、話にでてくる俳優やダンサーも馴染のある人たちばかり。声をかけてもらえたら(ありえないけど)、ごく自然におしゃべりの仲間入りができるだろうと思える感じでした。実際、話を聞きながら密かに賛成したり軽く反論したり、知らない話題がでてきて興味をひかれれば心のなかにメモしたりしていたんです。

でね、一人がふと、こんなことを口にしたの。「10年くらい前に買って、読みはじめたけど、どうものれなくてほってあった本があったのね。それをなんとなくこの前読みはじめてみたら面白くてさ……、一気に読んじゃった。ほんとに久々に面白い本だった」

……で? 私は待ちました。その本はいったい何? 作者は誰? ところがなぜか、この話、ここで終わっちゃったんです。話はあっというまに他の方向に流れていってしまいました――嘘みたい。私とけっこう趣味のあう(と思われる)この人が、10年ぶりに手にとって、一気に読み終えた本当に面白い本って、いったいなんだったんだろう。気になる。すごく気になる。この先、もう絶対に知る機会はないと思うと、よけいに気になっちゃう。息のあった(?)二人の会話のなかで、よりによってこの話題だけが尻切れトンボだったなんて。なんで? だって、ここまで言ったらふつう、誰が書いたなんという本か、言うはずですよね。あるいは、ふつうの流れとしては、相手の人がが訊くよね。

……まあねぇ……文句を言う筋合いは全くないんですけど。でも本当に、気になるなぁ……いっそ、その場で声をかけて訊いてしまえばよかったかしら(まさかね)。

ちなみに休憩時間も二人は席を立たずにおしゃべりをしていました。こんどの話題はがらっと変わってお仕事の話。これがまた、かなり興味深い(微妙に怖い)内容でした。どうやら二人は薬剤師さんだったようです。たぶん大学時代の友人で、いまはちがう病院に勤めているらしい。舌を噛みそうなカタカナの薬品名がすらすらとでてくるんですよね(細かい数字とともに)。当たり前といえば当たり前なんだろうけど、ちょっと感心してしまいました。たとえばこんな感じ。「え〜、そんな症状で■×△※を○○mgもだしちゃうの?」「ね、信じられないでしょ? うちの先生、もともと救急系だから薬の使い方が荒っぽいんだよね」[?そういうもんなのか?]あるいはこんな感じ。「★○※×と△■※☆って、一緒に処方していいと思う?」「それはちょっとまずいんじゃない?」「だよね。私もそう思うんだけど、まさか言えないじゃない?」そしてこんな感じ。「だいたいさ、ただの風邪で病院きゃだめだよね」「ねぇ、家で寝てれば治るのにね。体力落ちてるときに病院にきたら絶対に病気うつっちゃうよね」

もちろん、★○※×や△■※☆にはカタカナの薬品名が入ります。わざわざ伏せたわけではなく、単に私が覚えられなかっただけ――言うまでもありませんが。

(ひでおか なおこ)





うさぎの手紙

秀岡尚子(2005.5.1更新)

ナマものが好き!(いったい何回目なのだろう)

 『黒蜥蜴』を観てきました。言わずと知れた、江戸川乱歩原作、三島由紀夫脚本、美輪明宏主演の舞台です。現在は、演出、美術、衣裳もすべて美輪さん。一度は観てみたいとずっと思っていたお芝居でした。
当日は雨模様。でも、ジーンズにスニーカーなんていうお手軽な恰好で行ったら怒られちゃいそう……誰に?(美輪さんに……と言って妹に笑われてしまった)。実は私、美輪さんのコンサートに行ったことがあるのですが、これが大変だったのよね。シャンソンを聴きたくて行ったんですけど、二部構成になっていて、第一部であれやこれやとお小言を拝聴しないと、第二部のすばらしいシャンソンの世界に連れて行ってもらえないんですよ(もろちん、一部にも歌はある)。別に私が叱られているわけじゃないし、不愉快なものでもなかったけれど、かなりエネルギーが必要でした……。

  さて『黒蜥蜴』。ここでは別に、このお芝居そのものについて書こうと思っているわけではないんです。あまりにも有名な舞台だし。チラシの文句をそのままひいてくればそのとおりなわけです。曰く「まさに究極の退廃的嘆美世界・美的恐怖恋愛劇」。ストーリーは――どうでもいいとは言いませんが――意外性とかは全くない。え〜緑川夫人が黒蜥蜴だったのぉ??なんて驚く観客はいるわけがないし、わぁ生きてたんだ明智小五郎!なんてびっくりする人もいるはずないし。つまりストーリーそのものでわくわくしたりドキドキしたりするタイプのお芝居じゃないんです。奇をてらった仕掛けがあるわけでもない。もちろん面白かったのも面白かったんですけど、それよりもとにかく、貴重な体験をしてしまった……という感じでした。全く隙のない完成された舞台。すべてをプロデュースしている美輪さんの気迫が生々しく伝わってきました。特にすばらしかったのは、一言もおろそかにされることのない、美しい(そして美しく発音される)豊かな日本語でした。
 このお芝居を観て、改めて強烈に感じたこと――それはやっぱり「ナマものが好き!」ってことでした。というよりも、ライブパフォーマンスというものの抗うことのできない魅力です。

 美輪(当時は丸山)明宏さんが初めて女賊黒蜥蜴を演じたのは1968年。いまから30年以上前のことです。美輪さんはたぶん三十歳をわずかに越え、圧倒的に麗しかったころ(たぶん。写真しか観たことないですけど)。
 ふと思ったんです。30年前の舞台は、私が観たものとはかなりちがうものだったのだろうと。これはどちらがいいとか悪いとか、そういう話ではなく、最も単純な意味で、全然印象がちがっただろう、ということなんです。
 多くの人の情熱(というより情念?)を秘めて長いときを経てきたこの『黒蜥蜴』という芝居の、そのすべてを背負っていま上演しつづける美輪さんの凄みのようなものは、いまこれを観る私たちしか受け取ることことのできないものでしょう。
でも、もしかしたらいまより深みがなかったかもしれないけれど、観る人の目を眩ませたであろう(想像だけど)妖しくあでやかな女賊黒蜥蜴――それこそ、問答無用の美しさだったんじゃないかと思うんだけど――それを私は決して見ることができないわけです。

 これこそが、ナマものの魅力なんだよなぁ……そのときの、その舞台というのは一度きり。どんなに願っても、それはその場にいないかぎりは体験できない。さらに言えば、1968年の黒蜥蜴を観たという年配の方もたくさんいると思うけれど、観劇した日がちがえば、それは全く同じ舞台ではなかったはずなんですよね。
 これは当たり前のこと。ライブパフォーマンスを愛する者はそれをよくわかっているのです。私は、ジョルジュ・ドンのボレロも観られなかったし、レッド・ツェッペリンのコンサートだって行かれなかった。映像で観るのでは意味が全然ちがう。そうしたかつてのパフォーマンスを体験できた人たちがもちろん羨ましいし、私自身のなかでももう一度観たいと思う(もう観られない)ものはたくさんあるわけだけれど、でも、それこそがライブで体験するということなんですよね。
 たとえば30年前の『黒蜥蜴』を観た人のなかには、とにかく美しかったころの美輪=黒蜥蜴を大切な思い出としていまはもう絶対に観ないと決めている人もいるにちがいないと思うし、逆に、いまも必ず毎回鑑賞して、この芝居の移り変わりを楽しんでいる人もいるんだろうなと思う。

 私がどちらのタイプかは自分でもまだよくわかりませんが、できることなら、後者になりたいな。そのときしか味わえないものを、その場かぎりの夢と知りつつ思う存分味わうのが醍醐味。こっちも変わっているわけですから。たとえば、二十代の私が持っていた感性のどこかの部分をいまの私はなくしているかもしれないけれど(当然なくしているのだろうけれど)、二十代の私が持っていなかった種類の感性をいまの私は持っているだろう。30年前の芝居をいまの私が観ることはできないし、二十代の私がいまの芝居を観ることもできない。たとえ全く同じものを観られたとしても、それを受け取る私自身が変わっている。ひとつひとつの舞台もそれぞれが唯一無二のものだし、その一瞬一瞬、演じる側と鑑賞する側のあいだにうまれる空気もやっぱり唯一無二のものなんですよね……。
 ――やっぱり、やめられないですねぇ……。

P.S. この公演中、携帯電話が鳴ったんです。信じられます? 携帯の電源を切るなんて最低限のマナーじゃないですか。「携帯電話の電源をお切りください」とそれこそ耳にタコができるほど繰り返し注意されてるんですよ。いつも、うるさいなぁ……わかってるよと思うけど、それでもなぜか、切らない人がいるのよね。というか、切る人は注意なんてされなくたって当然切るわけだし、切らない人はいくら注意されたって切らない。なんだか怒りを通り越して、呆れるのも通り越して、不思議になっちゃいます。それこそ……美輪さんに怒られちゃうと思うんだけど? どういう神経をしているんだかしらないけど、そういう鈍感な人はお芝居なんて楽しめないんじゃないだろうか……?

(ひでおか なおこ)






うさぎの手紙

秀岡尚子(2005.6.9更新)


(クリュニー博物館のウサギ)
ツバメの季節

今年もやってきました、ツバメの季節。まあプロ野球はとっくに開幕していたわけですが、ここのところやっと"ツバメの季節"と堂々と言えるようになってきたのです。私の愛するスワローズは、今日(5月31日)現在、タイガースに次いでセ・リーグ第2位。4月には最下位も経験したわけだから、ほんとよく頑張ってます。

今年は絶対優勝、そして日本一!! 毎年同じことを言っていますが、ファンなんだから当たり前。これまで、優勝する年は開幕試合からなんとなく雰囲気があるものだったのですが、今年はひと味ちがう、最下位からの大逆転優勝っていうのもいいなぁ、経験してみたいなぁなどと思っておりますの。

さて、現在、史上初のセ・パ交流戦の真っ最中。今年は新球団もできて、なにかと楽しいシーズンです――野球に興味のない方にはほんとに全然関係ないと思いますが。 それにしても、この交流戦って期待以上に面白い。こんなこと言っちゃいけない気もするけど、交流戦って――もちろん真剣勝負なんだけど――なんとなく……ほのぼのしているというか。ゲームが純粋に楽しめるというか、たとえ負けてもいいゲームなら許せるというか。ほんとはふだんからそういう態度でのぞみたいものなんだけど、まあ、私もまだまだ修行が足りないもので、なかなかそんな境地には至れないんですよね。交流戦の場合、順位の変動が間接的なものだから、つい気持に余裕が生まれちゃって。

しかも交流戦、我がスワローズはけっこう強いんです。なんだか戦いやすそうなの。まるで水をえた魚のようだ(ツバメなのに魚とはこれいかに……)。実は私、交流戦についてはなんとなく自信があったんですよ。ツバメはパ・リーグの各チームとの試合には強いはずだ。交流戦こそ飛翔のチャンス!! なんて勝手に思っていました。たぶん、私が本格的にスワローズのファンになってから、日本シリーズでは一度しか負けたことがないからじゃないかと思う。最初にリーグ優勝したときは王者西武に当たって砕けてしまったけれど、それでもよく戦いました。そしてそのあとは、リーグ優勝すれば必ず日本一になっている。日本シリーズって負ける気がしないんだもん。ってことは、交流戦でも負ける気がしない。別にパ・リーグのチームがセ・リーグのチームよりも力が劣ると思っているわけではなく、なんていうか……たぶん、ツバメは短期決戦に強いのです。スワローズの交流戦の成績は現在、マリーンズについで第2位。どうせなら1位をとって、賞金5000万円をゲットしたいものです……私がもらえるわけじゃないけど。

ところで、新球団、東北楽天ゴールデンイーグルス(長い)……についてちょっとだけ。
弱すぎ、負けすぎ、と言われ、何かと風当たりも強そうだけど、でもねえ……マスコミや経営陣の意見は知らないけれど(あんまり興味ないけど)、あれはあれでいいのではないだろうか、と思うのです。なんだかんだ言って、やっぱり地元のファンは楽しいだろうと思う(現に楽しそうだ)。地元球団がないよりはあったほうがいいに決まっているし、ナマの試合をほとんど見られないよりはいつでも観戦できるほうがいいに決まっている。それにね、私の経験から言って、常勝チームなんて別に可愛くないのです。負けて負けて負けつづけるなか、ときどきやっとの思いでひとつ勝つ。選手も監督ももう優勝したかのように狂喜乱舞(サヨナラなんかだと格別だね)。スタンドのファンもこれで死んでもいいと思うほどの大騒ぎ。ダメな子ほど可愛い、なんて言うじゃありませんか。

最初はもうほんとに、手の施しようがないほど弱くて、でも決して見放さずに、あたたかい気持で応援しつづけて、そしてほんの少しずつ強くなっていって、数年後、なんとか万年最下位の座を脱出し、ふと気づけばAクラスをねらえる位置にいて、さらに数年後、なんと優勝争いに絡んでるじゃないか……う〜ん……苦節☆☆年、このチームのファンでいてよかった、応援しつづけてよかった……。そしてさらに数年後、ついに優勝ともなれば、この日のために球団創設の年からずっととっておいたワインをいまこそあけよう……なんてね。こんなことになったらもう、それこそ天にも昇る幸せじゃないですか?

いまはまだ、どんなに負けてもひたすら前向き、明るささえ失わなければいいような気がします(ファンも選手もね)。いよいよペナントも終盤にさしかかったころ、妙な上位いじめしたりね。 初年度はまあ、そんなもんでしょう。ファンはそれくらいでも充分嬉しいよ。ライオンズだって、最初はどうしようもなく弱かったんだし。そうだなぁ……シーズン中に1回くらい、奇跡の8連勝かなんかしてみてもいいかもしれない。でなきゃ、エース岩隈の涙のノーヒットノーランとか。

それにしても、どうせ誰もフルネームで呼んでくれやしないのに、なんでチーム名をイーグルスではなくゴールデンイーグルスなんかにしたんだろうとか(長すぎて実況放送向きではないなんてことは、ハナからわかってるじやないか)、クリムゾンレッド、クリムゾンレッドといくら主張したところで、なんてったって「楽天」なわけで、小豆色にしか見えないぞそのユニホームとか、ちょっとツッコミたくなることはいくつかあるけど、そんなことはどうでもいいんですよね。地元で愛される球団になれば、そして、毎試合お客さんがある程度集まれば、プロ野球のチームとして充分すぎるほどの存在価値があるんじゃないでしょうか。

――なんて……地元でそれほど愛されていない(らしい。悲しいけど)スワローズ・ファンの私なんかが言うのもおこがましいですけど。……いや、熱烈なファンはそこここにちゃんといるとは思うのだが、球場はたいてい空いてるのよね。……っていうか、阪神戦では神宮甲子園球場になっちゃうし(さすがにあれは少しばかり惨めだ……)。

(ひでおか なおこ)






うさぎの手紙

秀岡尚子(2005.8.1更新)

花火

何十年かぶりに花火をしました。……花火を"観た"ではなくて、"した"んです。そう、あの手に持って火をつけて、シューシューパチパチやるあれ。
まあ、何十年はちょっと大げさだけど、十何年ぶりなのはたしかだと思う。いや……やっぱり20年以上はしてないと思う。大学生が夏の海岸で花火をしながら浮かれ騒ぐ、という図はドラマとかでみたような気もするけど、あれは自分自身の記憶じゃない。……高校生のときにはたぶんもう、やらなかっただろう。中学生のとき……3つ年下の妹が小学生のあいだはやったかもしれないけど、どうだったかなぁ。
もしも2歳の姪と一緒に暮らすことがなかったら、この先も、夏の夜に家族と庭で花火を楽しむなんてこと、一生なかったかもしれません。
身近に子供のいる生活って、実際に経験してみるといろいろなことがありますね。自分が子供だったころにやったきり、死ぬまで二度とやらないだろうっていうささやかな年中行事みたいなことが、けっこうたくさんあるものだってことにも最近気づきました。ごく小さな、ほんとにありきたりのことがほとんどですが。
家族みんなで(彼氏と、じゃなくて)動物園に行くとかね。遠足のお弁当を用意するとか。七夕で短冊に書く願いごとを考えるとか。そして、夏の夜、庭で家族そろって花火をするとかね。
姪は先日、両親(つまり妹夫婦)と一緒に初めて花火をしたそうです。私はでかけていたので、姪のこの初体験の様子を鑑賞することはできませんでした。姪はすっかり興奮しちゃって、かなり面白かった……いや、可愛かったらしい(そんな楽しそうなこと、私がいるときにやってくれればいいじゃん、とちょっと思った)。昨日は彼女にとって人生2度目の花火体験。お風呂からでたら花火をしようねと言われてから、ひとりで予行練習をしていました。花火をもつフリをして、人に向けちゃダメ、とか、顔に近づけちゃダメ、とか、終わったらお水にジュッとか言ってるの。その様子を見ているだけでも、かなりウケましたね。
家庭用の花火っていうのは、特に小さい子供と一緒にやろうとして買ってくるようなのは、昔とほとんど変わらないんですね。一度か二度、ちょっと色が変わって、あっというまにおしまい。いまとなっては、花火そのものではなくて、花火で興奮する姪の姿のほうが面白いし、彼女と一緒にすごすことが楽しいわけなんですが、でも、庭で花火をするのが、本当に心から嬉しくて、楽しかったころが、こんな私にもあったのよねぇ……。厳しくて、叱られている記憶しかほとんどないはずの父なのに、それでも子供と花火なんかしたんだなぁ……なんて思ってしまいます。やっぱり私の両親も、花火そのものよりも子供たちの様子を見るのが楽しかったんだろうか。それにしても、愛嬌だけでこの先もなんとかやっていけそうなお調子者の姪とはちがい、妹も私もそんなに愛らしい明るい子供じゃなかったはず。それでも、親をいくらか楽しませるくらいの、それなりの可愛げはあったのかな、なんてことも思っちゃいました。
――別に親が楽しむためじゃなく、子供に楽しい経験をさせたいという親心だったんだよ、と叱られそうだけど。

(ひでおか なおこ)






うさぎの手紙

秀岡尚子(2005.9.1更新)

この夏の悲しい出来事

 ――それは、『スター・ウォーズ エピソード3』を、観てしまったこと。

 実は私、いまのスター・ウォーズ(この言い方でわかっていただけますでしょうか。つまり、エピソード1〜3ってこと)には、全く興味がなくていままで観ていなかったんですよね。昔のスター・ウォーズ(つまり、エピソード4〜6ということになりますね)は、大好きだったんです。愛していたと言ってもいい。スター・ウォーズを観たときのあの衝撃はいまでも忘れられません。私は中学2年生でした。映画を観たというより、ひとつの"体験"でしたね、決して大げさでなく。リアルタイムであれを体験できたのは本当に幸せだった。その幸福な衝撃ゆえにずっと、「いままで観た映画ベスト○○は?」と人に尋ねられれば、かならずスター・ウォーズをランクインさせていたのです。個人的には二作目の『帝国の逆襲』がいちばん好きでしたが、とりあえずシリーズ第一作目を代表作としてあげていました。いちばん最初、というのはなんにせよ価値があるものだと思うし、あの衝撃は本当に大きかったんですもの。とにもかくにも、映画という表現手段を自分なりに意識したうえで、なんてすばらしいものなんだろうと実感した最初の作品だったのです(つまり、子供のころ親に連れて行ってもらったディズニー映画をあえて外して、という意味です)。

 私は三代続く筋金入りのミーハーなので、かのハン・ソロ船長に他愛なく参ってしまい、スター・ウォーズといえばハン・ソロ船長(そしてチューバッカ)。ハン・ソロ抜きのスター・ウォーズなんてアリエナイ! というわけで、エピソード1〜3なんて全く観る気がしなかったのよね。"私の"スター・ウォーズはすでに終わっちゃっていたのです。もちろん、"いまの"シリーズもきっと面白いのだろうけれど、私はもういいや……引退、というスタンスでした。

 でも図らずも今回『エピソード3』を観に行くことになったのです。人に誘われて断固として断わるほどの主義主張があったわけでもないので(一応、ハン・ソロ船長のいないスター・ウォーズはスター・ウォーズじゃないと思う、とは言ってみたけど)、まぁいいか別に観ても減るもんじゃなし、ぐらいの気持で行ったのね。予習(っていうか礼儀?)として、とりあえず、エピソード1と2をDVDで鑑賞。ま、この時点である程度わかってはいたのだが……。

 "いまの"スター・ウォーズ、世界中に熱狂的なファンがとてもたくさんいることは知っているし、熱狂しないまでも大好きだという人は大勢いると思う。評価が高いのももちろんわかっています。それなのに、私のまったく個人的な思いを、こんなところに書いていいものかどうか(私って、コトナカレ主義らしいし……認めたくないけど)。でも……今回は決心して、書いてしまおう。『エピソード3』を観たあとの、私の偽らざる気持と言えば……

 ――これが、かつて私をあんなにまでドキドキさせてくれた、あんなにまで熱狂させてくれた、あの『スター・ウォーズ』の成れの果てなんだ――

 ごめんなさい。でも、私だってとっても悲しいのよ。

 私はすっかり目が悪くなってしまったので、この手の映画の見せ所を充分に鑑賞できていないことは認めます。つまり、"驚愕のSFX技術"だの"最新のCGを駆使"だの言われてもほとんど心動かされないのよね。というより、その"すばらしい映像"を堪能するだけの視覚能力がないのよね。それでこの映画を語るのは無理だ、と怒られそうだけど、でもだからこそ、なおさら感じちゃったんだと思いますよ……あまりにも、内容がひどい、話がつまらない、説得力が全然ない……。
 まずなによりも、まさかアナキンくんがあんなに簡単にダークサイドに墜ちるとは……。あれじゃ、アナキンって強くも賢くもないじゃん。第一、あんなに簡単に騙され切ってるジェダイの騎士たちって、全然ダメじゃん。

 まあ、ストーリーについてごちゃごちゃとケチをつけるのはやめよう……意味ないし。でもね……その映像技術。というよりも、その技術のひけらかし。たぶん、本当にすごい技術なのだと思うし、それを駆使したすばらしい映像なのだと思う。そのことに異論はありません。とはいえ、そのことを大々的に宣伝するのって、どうなんだろ。なんとなく浅ましいというか、そんな舞台裏、本当にみんな観る前から知りたいのかしら。最新のCG技術を使っています、と公開前から自慢する感覚って、ちょっとズレてないかなぁ……これはスター・ウォーズにかぎったことではないけれど。

 たとえばですね、最新のCG技術によって、ヨーダの動きがより自然ですばらしくなっている……と大評判なわけですよ。前シリーズではマペットを使っていたけれど、今回はすべて最新CGだという……私はこれを知って、なんだか心寒くなってしまいましたよ。そうなんだ……今回、ヨーダは"存在"しないんだ……少なからずショックだった。CGで描かれたものとマペットと、そこにどんな違いがあるのか、と言われれば、そりゃあ私だって困ります。どっちにしたって作り物なわけだし、マペットだから実際に"存在してる"なんてもちろん言うつもりないし。それでもどこか釈然としないんだもん。まさか、ヨーダが本当に生きていると思っている人はいないだろうけど、でも、あれはぜ〜んぶCGなんだよ、なんて言われて、受け手として嬉しいかなぁ。しかも、もっと"自然な動き"も実現できるんだけど、あえてマペットっぽい動きをさせている、だなんて……そのこだわりっていったいなぁに? だったら完全に秘密にしておけばいい。自慢げに語るようなことじゃないんじゃないの?
 ふぅん……たしかにすごいよね、ヨーダの動き……。あれ?……じゃあ、ヨーダのあの杖って、ダテ?……とくだらないツッコミいれたくなっちゃいます。

 SFXが悪いとか、そういうことを言ってるんじゃないけれど、その最高技術の一方でこのストーリーのひどさはどうよ? と思うわけですよ。映像がすごければ、ストーリーは二の次でOKなのか? それって本末転倒じゃないだろうか。ストーリーをより生き生きと表現するためのSFXなんじゃないの? その作品のなかでのリアリティを追求するためのCGなんじゃないの? 現在、映画の作り手はもはや、こうした技術を「舞台裏」とは思っていないんですね。そのへんの奥ゆかしさはゼロ。それ自体を見せつけたいとしか思えない……ってことは、すでに"効果"じゃないじゃん。

 この映画が本当に大絶賛されているのだったら、"映画"って終わりかけているのかもしれないな、と思ってしまう。最近やたらにリメークも多いし――枯れかけてるのかな、映画の泉は。もちろん、すばらしい映画はまだまだたくさんあるだろうし(実際、あるのを知っているし)、終わりかけている、というのは言い過ぎかも。でも終わる方向に進んでるのかなぁとは思う(ま、なんだってそうか)。少なくとも、私たちが思っているようなかたちの"映画"はもうすぐ――思いのほかすぐに――消えてしまうのかも。もう、スタントマンなんて必要なさそうだし。この先、もしかしたら生きた俳優もいらなくなっちゃうんじゃないの? 生身の俳優で撮るのが珍しくなったりしてね。俳優のお仕事は、CG作成時のモデルと、スチール写真撮影と、インタビューその他の営業だけとか。

 でもね、こんなことを書いていて、ふと気づいたんですよ。これは単に、私がどうしようもなくおばさんになってしまった証拠なんじゃないか、って。そういえば、昔のスター・ウォーズだって、まったく面白くないと言い切るオトナは少なからずいました。そんなツマラナイオトナに同情したものだったのよね、私(これが楽しめないなんてウソみたい、と思った)。結局、イヤだイヤだと思っていたツマラナイオトナになってしまっただけなのかな……そうなんだろうな、きっと。

 つまりこれ……このことをいよいよ本格的に実感してしまったことが、この夏の悲しい出来事だったのです(ほんとは、あんなにも愛していたスター・ウォーズの成れの果てを観てしまったことが悲しかったはずなんですけどね)。

PS 『エピソード3』を観ながら……あらぬことを考えていた私(さすがに失礼ですよね、ごめんなさい)。
 ――もしも三船敏郎がオビ・ワン・ケノビ役を引き受けていたら、今回のシリーズでは誰がオビ・ワンをやったかな? これは日本国内ではいちばん盛りあがる話題になったに違いない。やっぱり押尾学くんあたりかな? それとも坂口憲二くん? 彼が英語が話せるのかどうかはほんとは知らないけど、少なくとも武道はいけそうだもんね。

(ひでおか なおこ)








うさぎの手紙

秀岡尚子(2005.11.1更新)

おめでとうマリーンズ&ホワイトソックス

毎年のことですが、今年もプロ野球シーズンが終わりました。最後はもう言葉もないほどあっさりと。ついでに、メジャー・リーグのほうもあっさりと。いや……あっさり、なんて言ったらファン(そしてもちろん選手)の方々には大変申し訳ないですね。でもなにも、日米ともに仲良く4−0でさっさと終わっちゃうこともないじゃない? これで今年はすべて終わるのだから、もうすこ〜し長いあいだ楽しませてほしかったな。

ロッテの31年ぶりの日本一というのもすごいけど、ホワイトソックスの88年ぶりのワールド・シリーズ制覇というのはすごいですね。なんでも前回の1917年というのはロシア革命の年なんだとか。これはもう、ほとんど伝説ですね。シカゴのみなさん、本当におめでとうございます。しかし、テキサスの人びとは気の毒ね。聞くところによると、テキサス州にはいまだワールドチャンピオン・チームが生まれていないそうじゃないですか。今年、初めてのワールド・シリーズ進出ということで地元はものすごく燃えたらしい。あのテキサスですよ。それが一勝もできずに終わっちゃうっていうのはねぇ。夢が悪夢になっちゃうよね。何事も起こらなければいいけど、なんて心配しちゃう。なんと言ってもテキサスだし。

私は一部の“松井ファン”とはちがい、ヤンキースが敗退したとたんにメジャーに興味がなくなったということはなくて、メジャーに関してはどちらかと言うとポスト・シーズンのほうが楽しかったな。だって、シーズン中の日本のメディアはあまりにも松井一辺倒なんですもの。あっさりと、なんてつい書いちゃいましたが、ワールド・シリーズはどの試合もかなりエキサイティングだったみたい(あいにく、ちゃんと観戦することはできなかったのですが)。

いっぽう、日本シリーズではマリーンズが“圧勝”。マリーンズに肩入れしていた私ですが、さすがに4−0は寂しい。それも、どの試合をとってもロッテの鮮やかな快勝。タイガース・ファンの友達はかなりショックを受け、傷ついています。当分ロッテのお菓子も見たくないんだそうです。そりゃそうですよね。“完膚なきまでに”って言葉は、こういうときに使うのかって思っちゃったもん。これが関西のタイガース・ファンなら、寄り集まって自棄酒でも飲み交し、涙ながらに愛する選手たちを罵倒しツッコミ倒し(お手のものだろう)、最後にはそれなりに笑いとばして終われるのかもしれないが、関東のタイガース・ファンはかなりシリアスに悲しむしかなかったと思う。されたくないとは思うけど、同情してしまう。マリーンズのファンだって、地元での優勝を夢みていたのでは?(プレーオフのホークス戦は全部福岡だったわけだし)。それにね、まあ、自分たちが死ぬほど嬉しいわけだから他人から何を言われようとかまわないだろうけれど、野球解説者やらスポーツ・ライターやらに、つまらないシリーズだったとあからさまに言われるのはちょっとむかつくんじゃありません? ましてや、勢いだけで勝ったなんて言われたくないだろう。

私は決してマリーンズが勢いだけで勝ったとは思いません。綿密に相手を分析し、作戦を立て、そしてなにより選手たちが自分の力を充分に発揮してがんばったのだと思う。そしてある程度は阪神側の無策が原因だったとも思う(3試合つづけて10点もとられることないじゃん)。でもたしかに、ギリギリまでのるかそるかのプレーオフを戦っていたチームと(いい試合ばかりだったし)、早々に優勝を決めてしまい、あとはシリーズまでのかなりの日数を待っているしかなかった(もちろんしっかり練習はしていたとは思うけど)チームとでは、戦いに臨む空気がちがっただろうとは想像できます。

それにしてもパ・リーグのプレーオフって、いったいなんなんでしょうねぇ? 世間は盛りあがったし、私もついつい盛りあがっちゃったけれど、どうも腑に落ちないですよね。だってなんと言っても“いちばん”はホークスだったんだから。どう考えてもおかしい。私がホークス・ファンだったら、どうしても納得いかないと思うなぁ……(それも2年連続ですよ)。それに今年の場合、万が一ライオンズがプレーオフで勝っちゃったりしてたら、それこそあまりにも不条理ですよ。ペナント・レースで勝率5割に到達していないようなチームと日本一を争うことになるセ・リーグの優勝チームだってしらけちゃっただろうと思う。そんな成績のチームに日本シリーズに進出するチャンスがあること自体がおかしい。盛りあがればいいというものではないよね。盛りあがったからプレーオフは“アリ”というなら、万一盛りあがらなかったら“ナシ”なのか? それで言ったら、マリーンズ・ファン以外はどうにも盛りあがりようのなかったと思われる(私はマリーンズが好きだからそれなりに盛りあがったけど)日本シリーズは“ナシ”ってことになっちゃうの? とにかく、プレーオフをやるならやるで、ちゃんと頭を使って、みんなが納得するすっきりしたやり方を考えなくちゃダメですよね。

ところで、私は千葉ロッテ・マリーンズというチームがかなり好きです。いいチームだなぁって思う。雰囲気が明るいし、選手は生き生きとプレイしているし。それに有名なあの応援!! 私は交流戦のマリーンズ対スワローズをマリン・スタジアムまで観に行き、ナマで体験しましたが、それはそれはものすごかったです。感動的と言ってもいいくらい。このファンの人たちのためにもリーグ優勝させてあげたいと(不遜にも)思ってしまうほどの(そして日本シリーズで戦ってあげてもいいと……当時、セ・リーグはスワローズが優勝するはずだったんだもん)、強い愛を感じました。

でもね……私は絶対にやりたくない。見ているぶんにはとても楽しいし、感心しちゃうけど、あのなかには入れないな。私は特にメジャーリーグ・ファンではないけれど、応援だけはあんな感じがいいと思っています。熱心だけど個人が勝手にやっているの。私はもともと、各選手の応援ソングの歌詞を覚えようなんて気はさらさらないし、それを大合唱するなんて……どうしてもダメだわ。受けつけないわ。私がスワローズ・ファンとして心地いいと思っていることのひとつは、あのなんともまとまりのない、まとまりようもない、ぬるい応援なのかもしれない。東京音頭くらいはみんなで歌うんだけど……なんだかそれも“熱く”と言うよりは、ファンが自らを茶化しているような気もするのね。いまどき東京音頭もないよね〜なんて思いながら、いい加減に傘をふりふり(私はそれすらしないんだけど)、適当に歌うのよね。もちろん、それなりに各選手の応援歌もあり、ちゃんとまとまってやっている熱心な人たちもいるのだけど。 だいたい、私の世代には無理だと思う。認めたくはないけど、一致団結というのが苦手なのだと思う。正直言ってひいちゃうんですよね、ああやってすごく明るく健全に、声を合わせ動きを合わせ――つまり力を合わせて――すばらしい応援をくりひろげる、なんてことにたいしては。こんなこと調べる人はいないと思うけど、たぶん、あの応援に参加しているマリーンズ・ファンのなかに私の世代はあまりいないんじゃないだろうか?(熱烈なファンなんだけど、あの応援に参加することだけはどうしてもできないという人がかなりいるんじゃない?)ちなみに私は1963年生まれなのですが。

今シーズン、溺愛するスワローズは久々のBクラス。優勝争いに絡むことなく、そのくせ最後の最後まで未練たらしく三位争いをしているというのも情けなかったし、しかもそれに最終的に負けちゃうんだから、かなり情けないシーズンでした。仕方ないな、と思います。順位も確定していないうちから次期監督の話題がでてくるようなシーズンはろくなことないと思うの。それでも私は甘いから、みんながんばったね、こんなシーズンもあるよ、来年は新監督のもと、絶対に優勝しようね、なんて励ましちゃうんだけど。いま、スワローズ・ファンがみんなで(たぶん)とっても楽しみにしているのは、プレーイングマネジャー古田くんの「代打オレ」っていうシーン……かな。

来年のこの時期には必ず、祝ツバメ優勝、祝日本一!! なんていう、大感激のお手紙を書くことになることでしょう。お楽しみに〜(鬼が笑い死にするほど先の話ですみません)
(ひでおか なおこ)





うさぎの手紙

秀岡尚子(2005.12.2更新)

年末のご挨拶

 今年もついに……というか、あっというまに、最後の月になってしまいました。だからと言って特に書くこともなぁ……なんて思いながら、つらつらとこの一年を振り返っているうちに、ふと、気がついたんですよね――今年は、思いのほか、貴重な一年だったんじゃないだろうか、と。
 何か大きな変化があったかと言えば、特にない。大きな出来事があったかと言えば、特にない。何か大きな成果があったかと言えば、全然ない。特別ラッキーだったわけでもない……でもね、いろいろなタイプの出会いや発見に満ちた、とても貴重な一年だったような気がするのです。そして、私自身が再びスタートラインに立てたような……そこまでは行かないかな……スタートラインに立つ準備がやっとできたような、そんな一年だったような気もするのです。まあ、いい歳をしてこんなことを言っているのもどうかと思うが。……しかも、考えているうちに、そうなのかもしれない、とふと気づくような間抜けさもどうかと思うけど。
 いつも思っていることですが、世の中には知らないことが本当にいっぱいありますよね。この一年もまた、数えきれないくらい何回もこのことを痛感しました。今年はそれに加えて、いままでまったく気づかなかったことに、いろいろと気づかされた年でもありました。特に、そういう人生もあるのか、そういう日常もあるのか、そういう生き方もあるのか――といったことを知ることが多かったように思います。何かを実際に知ること、実際に触れること、何かに改めて気づくことは、かならずしも快いこと、あるいは楽しいことばかりではないし、場合によってはひどく苦しいことさえある。でもやはり、とても大切なことだと思う。特に今年はそんなふうに実感した一年だったと思います。そして、これからもそういう体験を重ねていくことにたいして、それなりの覚悟ができた年だったとも思うのです。
 なんだかとても抽象的で、しかもまとまりがない話で申し訳ありません(一年の締めくくりだと言うのに)。まあ、まとまりがあればいいというものでもないし。まとまりのある整った一年なんて、どんな人にもなかなかあるもんじゃありませんよね。とにかく、私にとっては大切な一年でした。なによりも、いままでは、大切な一年だった、と素直に感じることがなかなかできなかったような気がするのです。だから、それだけでも貴重な年だったかな……なんて思います。

 というわけで、最後になりましたが、今年も一年間、おつきあいいただいて本当にありがとうございました。来年もまた、よろしくお願いいたします。

PS 当たり前のことですけど、嬉しかったことや楽しかったこと、驚かされたこともそれなりにたくさんありました。なかでもやっぱり、いちばん驚かされ、喜ばされているのは(もちろん現在進行形)二歳半になる姪の成長ぶり!! こう書いちゃうとただのオババカですが――まあ、どう書いたってただのオババカなんですが――小さなことから大きなことまで、驚かせられつづけ、つねに楽しませてもらいましたよ、今年も。たぶん、来年もそうだと思うけど。
(ひでおか なおこ)