【Swan Song】バックナンバー 2001年  桃井緑美子(ももい るみこ) 2003年2002年2000年はこちら




Swan Song 2001.1

 テレビを見ていて、なーるほどと思っても、あとになってみるとさっぱり思い出せなくてくやしい思いをすることがよくある。たぶん揮発性の短期記憶から長期記憶へ移行させる回路が壊れているんだろう。と友人にこぼしたら、ぜひメモをとれと勧められた。ノートを1冊用意しておいて、何でもいいからどんどん書いていく。そのあと何度かぱらぱらと読み返すのだそうだ。ちょっとくらいは何か残るかもね。今年はこれをやってみよう。

 昨年の暮れに放送された鳥の生態を紹介するBBCの番組に、忘れられないシーンがあった。鳥の托卵といえばカッコウが有名だ。まったくあれは見事というか、呆れるというか。ヨシキリの親が留守のすきに巣にやってきたカッコウの母鳥は、ヨシキリの4個の卵のうち1個を食べ、1個を嘴にくわえて、そこに自分で卵を1個産む。なにも知らないヨシキリの親は巣に帰ってくると数が合わないのにも気づかずに卵を抱く。やがて最初にカッコウの卵が孵る。すると親も親なら子も子で、このヒナ、ヨシキリの2個の卵を巣からだしてしまい、人のいいヨシキリに自分だけ育ててもらうのだ。まったく悪魔のようなやつだ。まだ毛も生えていなければ目もあいていないくせに、ヨシキリの卵をウンショウンショと巣の外に落とす姿は、なんだかデビッド・リンチ的世界。

 托卵する鳥のヒナはみんなこいつのように悪魔なのかと思っていた。ところがズグロカモのヒナはちがう。ミナミユリカモメの巣に産み落とされた卵から孵ると、ズグロカモのヒナはよちよちとでて行く。「おばさん、孵してくれてありがとう。ぼく、ひとりでやっていきます」と言ったかどうかしらないけれど、いかにもそういう風情でカモメの巣をあとにするのだ。しかも生まれたその日にですよ。忘れられないシーンとはこれ。けなげだなぁ。しみじみしてしまったなぁ。

 そうかと思うと、キタホオジロガモの場合は、それぞれ10羽くらいのヒナをつれて川を泳いでいた母親どうし、鉢合わせしてケンカになる。負けたほうは飛び去ってしまい、ヒナはとり残される。すると勝った母親がその子たちをどーんと一手にひきうけて、自分の子とひとまとめに面倒をみる。太っ腹。自分の子が天敵に襲われる確率が低くなるというのだが、それをいうなら負けたほうも同じことで、苦労の多い子育てをしなくていい分、負けたほうが得な気がするが……。

 鳥の親はふつう全部の卵を産みおえてからいっぺんに温めるのだが、アカクサインコは1個産むとすぐに抱く。だから順次生まれたヒナは成長の度合いに差がある。となると最後のほうに生まれたヒナはちっこくて不利なんだろうと思ったら、先に生まれたヒナが世話をするので、きょうだいそろって無事におとなになるのだそうだ。きょうだいどうしで最後の1羽になるまで巣のなかで死闘を繰り広げる鳥もいると思うと、ちゃんとチビの面倒をみてエサを分けてあげているお兄さんだかお姉さんのヒナは、どこかやさしい顔に見えた。

 鳥はたいていオスとメスがペアで子育てするけれど、小さな集団でヒナを育てる鳥もいる。そのほうがヒナの生き延びる確率が、あたりまえだが高くなる。で、このヘルパーを増やしたくて、隣の集団のヒナを誘拐しにいく。そいつを子守りに仕立てあげれば、来年はもっとたくさんのヒナを育てられるという寸法。よその子をさらうにはつついたり蹴飛ばしたりして連れていくのかと思えば、そうではなくて羽を広げておびきよせるのだ。ディスプレイでおいでおいでとあまく誘う隣のおばさんに、ヒナはちょんちょんと無邪気についていく。というわけで、おもしろいシーン満載の1時間でした。

 鳥といえば、クリスマスだといって何をするでもないわたしだが、新しいレシピを考えたので去年の12月24日はむりやりクリスマスにひっかけてチキンを食べた。ただし、中華風手羽の蒸しもの。大好評だったので「モモ手羽」と命名した。関係ないけど。





Swan Song 2001.2

 すったもんだのあげくにようやく決定したアメリカ新大統領の政権がスタートした。今後の政局や経済の動向、日本への影響などについていろいろな予測がされているけれど、愛猫家はそれにもましてあるニュースに気を揉んだことだろう。1月11日の新聞の小さな囲み記事の見出しは『「ファーストキャット」どこへ』

 クリントン前大統領一家がホワイトハウスを去るにあたり、愛猫ソックスの身の振り方が決まっていない。1993年に「ホワイトハウス入り」したソックスは、ニューヨークの一家の自宅で暮らす犬のバディーと仲が悪いため、同じ家で暮らせそうにない。さまざまな案が考えられているが、クリントン前大統領は「和解に尽力」、最後の日まで努力をつづけるとのことだった。このニュースを知って、なんならウチで引きとってもと思った人は世界中にどれくらいいるだろう。

 1993年といえば、わたしもソックスと同じ白黒の猫をひろった年だ。当時、わたしは会社勤めをしていた。ある日、残業途中で腹ごしらえをしにいった同僚がオフィスに戻ってきて、黒い子猫が絶叫しているのを見かけたと教えてくれた。行くときに見かけたので店でチャーシューメンをたのみ、5枚あったチャーシューのうち1/2枚をおすそ分け(ケチ)しようとよけておいたのに、帰りがけにはいなかったという。黒い子猫ときいてたまらなくなったわたしはその同僚に案内させ、西新宿のはずれの銀行わきの路地へ行ってみた。いた。よく見ると黒ではなく白黒。両手両足に白いソックス、白いエプロンと白いマスクをつけてチョロチョロしている。わずか2センチくらいのしっぽがまるまってお尻にちょこんとついている。近づくとススッと小走りするけれど、本当に逃げる気なら一目算にすっとんでいってしまうはず。案の定、マンションのゴミ集積場に追いつめるとあっけなくつかまった。しかも抱きあげたとたん、わたしの顔に鼻先をごしごし押しつけてきた。

 そうなってみて初めてハタと気づいた。さて、この子をどうしよう。ウチにはすでに猫がいて、折りあいが悪かったら困ってしまう。季節はすでに11月中旬。まだやせ細ってはいないけれど、片目がつぶれかけていて、とうていこのまま放ってはおけない。考えもなしに抱きあげてしまったが、そうなったらもう下ろすという行為ができない。それくらいなら見にこなきゃよかったものを。同僚に押しつけようとしたが、なんのかんのと言ってはぐらかす。猫を抱えたまま薄暗い路地にすわりこんで、たまに人が通りかかると「子猫いりませんか〜」などとこわごわ声をかけてみたが誰も振り向いてくれない。逡巡することおよそ1時間。しょうがないじゃないか。

 翌日、目の治療に病院へ連れていくと、かなりひどいとのことだった。先生に「あとはよく栄養をとること。食べるかどうかがカギですよ」と言われ、片目を縫合してエリザベスカラーをつけた小さな猫を抱いて暗い気持で家に帰った。ところが人の心配をよそに、食べること食べること。毎日「メグチュリデチュヨ〜」(バカ)と言いながら目薬をつけてやるうちに、名前はメグスリと決定。通称メグ。

 2年半前にわたしが横浜の家を去るにあたり、愛猫メグの身の振り方はすぐに決まった。問題は敵の犬ではなくペット禁止の規則だったが、大家と和解の努力をするよりもわたしはメグを両親にあずけることにした。なにしろ実家の隣に住んでいたから、彼女にとっては家のなかから庭の隅々まで、勝手知ったるじいさん・ばあさんの家。いまとなっては、もう二度とメグを引きとることができないのではないかというのが唯一の心配。アイドルをとりあげたら、あの老夫婦はガックリきて惚けてしまうかもしれない。

 1月24日の新聞の続報、見出しは『涙のんだファーストキャット』。ソックスは前大統領秘書のカリーさんに引きとられることになった。クリントン一家は97年にきた新顔のバディーのほうをとったことになるが、どちらかを選択しなくてはならない以上、それも仕方ない。2匹さえうまくやってくれたらどちらも手放さなかったのだろうから、断腸の思いで決定したのかもしれない。本当に涙をのんだのは誰だったのだろう。





Swan Song 2001.3

 この冬は寒かった。電気のエアコンは効率が悪い、足の先が冷たいなぁ、なんて思っているうちにどうも爪先がムズムズしはじめた。見てみたら赤くなってちょっと腫れている。お風呂に入るとジワン。これってシモヤケ? 生まれて初めてだ。ああ、驚いた。家のなかで仕事していただけなのに……。旭川の動物園の象のナナちゃんは、外遊び好きがたたって大きな耳のはしっこがしもやけになったそうだ。カルタゴのハンニバルに連れられてアルプスを越えた象さんたちはつらかっただろう。

 1月の碁会は、最近の東京にしては大雪に見舞われてお流れになった。ある縁で知りあったグループでただひとりの男性が碁の達人ということで、誰が言いだしたか、去年から手ほどきいただくことになったのだ。先生は碁暦たぶん30年以上。毎年夏に開かれるアマチュアの国際大会に参加する。去年はドイツ、今年はアイルランド、来年はユーゴスラビアだそうだ。生徒のほうはなにも知らない女性ばかり4人。しかし、なにしろ先生は千葉からいらっしゃる。あの雪では電車が止まるのは必至。駅のホームから3度落ちたことがあるというのも心配だったけれど。

 じつは碁が打てるようになりたいと思ったことは以前にも何度かあった。父が碁を打つ。いまも近所の碁会に顔をだしている。祖父も打った。子供のころ祖父の家に行くと、夕飯のあとにかならずふたりが碁を打つのを見ていた。叔父も打つ。そのころまだ独身だった叔父はわが家によく遊びにきて、やはりかならず父と碁を打った。男ばかり四人兄弟のいちばん上といちばん下が、祖父から受け継いだらしい。よし、おわり、と言って規則性のない寄せ木細工のようにびっしりと入り組んだ白と黒の石を、白は白、黒は黒ときれいに並べかえて目の数を勘定する。どちらかが「負けました」とかなんとか言ったと思うと、じゃらじゃらと石をケース(なんていったっけ)にもどしてまた始めから。兄弟は半日くらい平気でやっていた。

 碁に負けて日陰ひろひて帰りけり――とは父の詠んだ句で、わたしはけっこう好きだ。

 父がわたしに教えようとしたことがある。わたしもできるようになったらいいと思って何度かやってみた。しかし、父がへそまがりだったのか、わたしが反抗期だったのか。あるとき、やるのやらないので喧嘩してそれきりになってしまった。あのとき覚えておけばよかったと、ちょっと後悔。

日をあらためて2月某日、土曜日。この日で3度目か4度目だけれど、ひと月かふた月に1度の会で覚えられるはずがない。これではいかんということで、今後はパソコン用囲碁ソフトとテキストで予習・復習・練習をすることになった。先生いわく、「双方の陣地の境にあって、どちらのものにもならない目を"駄目"と言います。優勢な方があえてその駄目に打って勝ちをたしかにすることが"駄目を押す"ということです」。へぇ、なるほど。「岡目八目」は知っていたけれど、「駄目押し」も「一目置く」も碁の用語だったのか。先生はつづける。「碁のいいところは階級がないこと」。たしかに、石には将棋の駒みたいな位はない。「どこから打ってもかまわない」。でも、まだ右も左もわからないヘボは、とりあえず四隅に近いどこかから打つのが無難ってものだろう。そう言っても、先生はそんなことを気にする必要はないとおっしゃる。先生は頑固だ。「碁盤は宇宙」。いやぁ、そんな深さにはまだまだ遠いんだけど





Swan Song 2001.4

 びっくりした。数日前にちょっと用事で駅前まで行った帰り、川沿いの桜がかなり咲いているのが橋から見えた。あらっ、いつのまに……。そう思ったのはわたしだけではないようで、二日後の天声人語は八五郎の口調で「てえへんだァ、江戸中の桜が、あっという間に満開になっちまったァ」。例年よりも1週間から10日も早いという。すきを突かれて、ちょっと呆然……。

 3月の初めに歌舞伎を見物に行ってきた。今回は2度目の体験で、最初は去年の「勧進帳」。演劇でもバレエでも、生の舞台が好きだという自称ナマモノ好きの友人のおかげで体験できた。どうしてだかわからないけれど、なんだかとっても面 白かった。そこへ今度は3月に新橋演舞場で忠臣蔵の通しがかかるというので、またまたチャンス。一昨年にNHK大河ドラマの「元禄繚乱」にすっかりはまったおかげで、筋はあらかた頭に入っている。しかし、なぜ3月に忠臣蔵? 討ち入りは12月でしょ。

 なぞは舞台を見てすぐに解けた。昼の部の最後、いわゆる「お軽勘平の道行」の浄瑠璃が始まって幕が上がると、まあ、桜が満開の、それはそれは春爛漫のふくよかな景色。ああ、だから3月だったんだ。浅野内匠頭が殿中で吉良上野介に斬りかかって切腹したのが3月だった。役者はお軽が菊之介で、勘平が新之助(海老蔵の襲名がきまったとか)。まだ歌舞伎初心者のわたしには、とってもきれいなふたりに見えてどきどきしてしまう。新之助はテレビで見るよりも歌舞伎のときのほうがずっとキリリとして男前。お茶のCMで、歌舞伎がちょっと得意な……とかなんとかいっていたのはご謙遜かしら。この場面 をこんなにきれいな情景にしたのは、その後のふたりの悲しい運命と対比させるためなのかなぁ、と思う。

 忠臣蔵といえば討ち入り、という認識もあらたまった。もちろん映画やテレビの忠臣蔵だって、ことの発端から始まってあれこれあって討ち入りとなるわけだが、やはり最後の見せ場としてあまりにも有名だ。でも、歌舞伎ではおまけといっちゃあなんだけど、そんな感じだった。結果 はお知らせしておきます、くらいのダイジェスト版。たしかにテレビや映画ならいろいろな撮り方ができるけれど、舞台でえんえんとチャンバラをやったってあまり効果 的ではない。これも納得。

 なぞというと、忠臣蔵には前々からのなぞがもう一つあった。なぜ「忠臣蔵」というのか。「忠臣」は「忠義な家臣」だとしても、「蔵」って何? たしかに大石内蔵助だけれど、それを略して「蔵」、「忠臣のクラちゃん」だなんて、ハチ公みたいで軽すぎる。じつはこれには深い、深〜い意味があったのだけれど、それをここで紹介するスペースはないので、興味のある方は丸谷才一の『忠臣蔵とは何か』をお読みください。本当のことをいうと、この本はずっと前に買って読みかけたのだが、よくわからなくて途中で投げてしまっていた。それが前述の「元禄繚乱」を見てから読みなおしたら、あら不思議、いったいこれのどこがわからなかったんだろう、と思うくらいによくわかった。おかげさまで得した気分。人間、生きていると少しは進歩があるものだ。

 どこがどうと言葉で説明できないまま、やっぱりナマモノの威力なのか、一緒に行った歌舞伎初体験の友人ともどもすっかり満足した(ちなみに、ナマモノ好きの友人は「3月はKISSのライブにかける」とかで歌舞伎には不参加)。そのうち「○○(役者)の××(出し物)がいいわね」なんていえるようになってみたいが、初心者としては話の筋を知っているものから地道に始めよう。つぎの狙いは四谷怪談。なんだかクセになっちゃうかも。





Swan Song 2001.5

 新しい店ができたからぜひ行ってみたいと友人がいう。何かと思えば回転寿司だそうだ。たしか前にもいっていたことがあって、これで二度目だからよほど行きたいんだろうと思う。でも、彼女はお豆腐なんて味がないとか、茄子はぐにゅぐにゅしてイヤとか、ちょっと味覚を疑っちゃうくらいヒドイ発言をしていたので、食べものには執着がないとばかり思っていたから意外だ。とにかく行ってみましょうということで、横浜の伊勢崎モールで待ちあわせた。

 回転寿司は初めてだ。まさか、と思われるのかな。いまどき回転寿司なんて、入ったことのない人のほう少ないのかな。案内されて行ったのは、三崎港なんとかという、いかにも鮪に自信ありといった名前の店(そう思わせて客をつるつもりなだけ?)。お客さんがいっぱいだったけれど、しばらく待ってぶじに着席できた。少し緊張。「2段になってるのね!」と言うところをみると、彼女も初めてかもしれない。「こんなところからお湯がでるー」とか何とか素人っぷりを発揮しながら、それでも手早くお箸とお醤油とガリとお茶を用意。さて、いただこうとしてぐるぐる回っているお皿を見ているうちに、さすがに素人なので(目が回った、と言うと思った?)迷ってしまう。だって、できるだけにぎりたてのが食べたい。まわりでは玄人っぽく「おじさん、中トロ、ダブルで」なんて、まるでスコッチか何かみたいに注文している人がいる。何だ、2貫のことか。

 要領がわかってくると緊張も失われ、わたしたちは箸や手を動かすよりも話に夢中になっていった。わたしが先に見ていま一つもの足りないと評した映画を彼女は前日に見てきたのだが、かなり好印象をもったらしく、どこがよかったのかをこんこんと力説する。それを聞くうちに、わたしもなんだかそんなようだった気がしてきた。話しながらも、からのお皿が増えないのが気が引けてきて、ちょうど流れてきたのをとるのだが、失敗してそっともどしたりする(これは反則だとあとで知った)。「ジュード・ロウとエド・ハリスはすごくよかったけれど、ジョゼフ・ファインズ(の役)はなんであんなにいきなり心境が変わったのかわかりにくいよ」と、すぐに引っこむのは癪なので少々反論しながら彼女のお皿の枚数をそっと数えると、気のせいか安いお皿ばかりで、ウニが食べたいと思うわたしはまた気が引ける。しかもウニは回っていない。注文までしてヘンなウニだったらイヤだ。計算するのはめんどうなくせに、全部でいくらになるんだろうか、なんて漠然と気になったりする。回転寿司はおしゃべりするには向いていない。

 おなかいっぱい、といいながら河岸を変えて珈琲店に入った。そこで彼女に猫の写 真集をプレゼントする。去年、彼女が「すごくかわいいから思わず買っちゃった。10月はたしかお誕生月だったよね」と言って猫のカレンダーをくれた。それで、4月は彼女の誕生月なので、待ちあわせ前に有隣堂で買っておいたのだ。カレンダーより少し値の張るものにしたのは、彼女が会社で特別 ボーナスがでたのでDVDのソフトを買ったついでにわたしにも買ってくれたのをわたすと言っていたからだった。それなのに彼女はそれを忘れてきた。しかも我慢できずにパッケージを開けて見ちゃったから、すでに新品ではなくなったという。だいたいわたしはDVDプレーヤーをもっていない。彼女だってまだもっていないくせに、思いつくとそくざに行動する。パソコンで見ているという。

 珈琲をのみながら写真集をめくった。何種類かのうちその写真集にしたのは、ローマのコロッセオを背景にしたノラネコの写 真があったから。もうずいぶん昔、彼女とイタリアに行ったとき、たっぷりエサをもらっているノラネコを行く先々で見かけてよろこんだ。コロッセオでは、柱の陰をのぞくごとに、あっここにも、あっ、また、という具合。写 真集には、馬車に乗ったおばさんがちょうど横を向いたところをパチリとやったものがあった。小さい子猫がおばさんの胸にカブトムシみたいに必死ではりついている。なのにおばさんってば手を添えてやるでもないじゃないの、と言ってふたりで大笑いした。別 の写真は女の人の肩にのった猫を後ろから撮っている。肩にのってらくちんだなんてものじゃなく、かなりがんばってバランスをとっているもよう。この右の後ろ足のふんばりが……と指さし、しばらく口もきけずに涙を流しながらくっくと笑いつづけた。雨は降っていたけれど、ひさしぶりになんだかさっぱりした日になった。





Swan Song 2001.6

 梅雨に入ったばかりの沖縄に行った。「梅雨に入ったばかり」とわざわざ言うのは、恨みがましく聞こえるかもしれない。でも、そうでもないんだな。雨が降ってあたりまえとはなから思っているから、台風がきたってビクともしやしない。しかもめでたいことに、めったなことではお目にかかれない台風1号だ。

  6日間の旅行も大詰めの5日目。朝、鈴木先生から電話で、今日は台風だからいまのうちに食料を買いだしにいって籠城にそなえよ、との指令がくだった。テレビをつけてみると、台風が接近中、学校は休みとのニュース速報。そうこうするうちに、たしかに雨は本格的になってきた。大雨のなかをどうせ外にでるならお土産やさんにも行っちゃえというので、人のまばらな国際通りで賢くお土産ショッピングもすませ、昼と夜のごはんを買ってずぶぬれで帰ってきた。わたしたちが泊まらせてもらったのは那覇の先生の仕事場。仕事場といえども、さすが先生のことなのでテレビはもとより、オーディオはそろっているし映画のビデオもある。本は読み放題だし、ねそべってブルブルやるマッサージチェアもある。もてあます心配はなにもない。もうすっかりそのつもりになって、昼間からビールを飲みだした。昼間からビール。これぞ休日、これぞバカンス! せかせかと出歩くばかりが旅行じゃないよね。

ところが、台風1号は意外にも足が速く、元気にすばやく通 過してしまった。午後2時には空が晴れてきた。せかせかと出歩くばかりが旅行じゃないと言ったばかりなのはわかっていたけれど、晴れたとあってはやっぱりじっとしてはいられない。さっそく外に飛びだした。首里へ行ったが、残念ながら首里城は台風の影響で閉館、目当ての饅頭屋もお休みということで、それならばと壺屋通 りへまわって焼き物やさんをひやかした。古い家並と石垣がつづく路地を散歩したあとは牧志の市場へ。おいしいものを買い、おいしそうなものを試食し、おいしくなさそうなものは(ちょっとだけあった)眺めるだけにして、ふたたび国際通 りにでるとそろそろ夕方。いったん荷物をおいて、夕食は先生に地元のお店に連れていってもらった。盛りだくさんな1日。ふだんとちがう1日は長く感じられて、たっぷりと使いでがある。それともこれは沖縄時間?

運動神経が欠落しているわたしはまちがってもアウトドア派になれず、ビーチだ、リゾートだ、と繰りだすのは苦手。沖縄は初めてだった。でも、那覇に移動する前に恩納村で見た海は、灰色の曇り空のしたでさえも緑色を失っていなかった。もちろんエメラルドグリーンではない。青く濃く、ぎらぎらとまぶしく光る海ではなく、やわらかいグリーングレイ。グラスボートでのぞいた魚たちは、曇天のせいか極彩色をこれみよがしに見せつけることもなくあっさりとした歓迎ぶりだった(ような気がした)し、慶佐次のマングローブ林はむせかえるような密林ではなく、しっとりとした砂地の穴から小さなシオマネキが出入りしておいでおいでをしていた。かつての沖縄戦はちょうどこの時期で、こんな雨の日がきっと多かったのだろう。南国の濃密さに慣れていないわたしには、初回にしてはちょうどよい沖縄との遭遇だったかも。これよりも悪い天気にぶつかることはないだろうから、つぎは離島へ、こんどは青く輝く海を見に。





Swan Song 2001.7

 梅雨の真っ最中だというのに、ここ数日はまるで真夏のような暑さ。こう暑いとどこか近所の公園か多摩川の河原にでも行って、ビールを飲んでのんびりしたいよ。そうすると沖縄でなくたって自転車がほしくなる。

 自家用車のない生活をして3年になるが、都内に住んでいると車なんてなくたってぜんぜん困らない。ただし、かわりに自転車がほしい。自転車があれば近所での行動半径がきっと広がるだろう。どんな自転車でもいいと言いながら、やっぱりママチャリ(←鈴木先生、知ってますか?)はいやだし、根強く流行っているマウンテンバイクみたいのは猫に小判だし。というよりも、近所を乗りまわすなら用途がちがうでしょ。漠然とそう思っているけれど、真剣味が足りずにそのまま3年が過ぎてしまった。もっとも自転車ほしいとなったらサッと買いに行くような人間だったら、とっくに行動半径は広がっていたかも。とにかくそんなわけなので、今回の「私の愛車紹介コーナー」には協力できなかった。

それでも、その間に少しは努力した。自転車が当たるというクイズとか懸賞を見つけると、応募してみた。全敗。そもそも自転車じゃなくたって、くじ運はまったくといっていいくらいないらしい。最大の収穫は横浜ルミネの年末福引きで当たったひざかけ。そのほかにあえてしつこく言えば、『ぴあ』で当選したスペシャル・リザーブ・シート。たしかにスペシャルにはちがいなかった。だまされた。あれなら自力でチケットをとったほうがあきらめがつくというもの。そのうえ、口惜しさを倍増させることがあった。同じ日にたまたま友人も自分でチケットをとってそのコンサートに行くと聞いていたので、始まる前に武道館のヒマラヤみたいなところからオペラグラスでアリーナ席を眺めていた。開場に到着した彼女たちはステージに向かってどんどん歩いていくではないか。なんとアリーナ3列目。終了後に落ちあってみると、「目が合っちゃったー」だって。ふん。この口惜しさはすべて『ぴあ』への恨みになっている。

 話がそれてしまったが、自転車といえば一度すごい妙技を見たことがある。むかし上海の雑技団(つまりサーカス)で、おなじみパンダが自転車をこいでいるのを見たことがあるが、その比ではなかった(これはこれで、ラッパ吹いたりしてかわいかったけれど)。自転車に乗ったおじさんが両肩に1匹ずつ猫をのせ、渋谷の雑踏を走りぬけていたのだ。しかも猫は1匹が前を向き、もう1匹が後ろを向いてちゃんとバランスをとっていた。 それを目撃して以来、わたしは猫を両肩にのせ、お弁当をもって自転車で公園に行くというのに憧れている。そこで猫を放して遊ばせ、わたしは本でも読みながらゆっくり過ごす。そして夕方、名前を呼ぶと、猫たちはどこからかもどってきて、自分からぴょんとわたしの肩に跳び乗る。そして、夕焼けを浴びながら自転車をこいで家に帰るのだ。いいなあ。しかし、それには自転車だけでなく、おとなしく肩に乗る猫が必要だ。しかも名前を呼ばれると帰ってくる猫。しかもそれが2匹。結局、わがままで我を張る猫しか知らないわたしの憧れの正体は、自転車ではなく肩乗り猫なのだった。いいなあ。





Swan Song 2001.8

 7月は両親が旅行にでかけたので、留守番のためにしばらく横浜の実家に滞在した。今年は夏が早くはじまり、しかもやたらに暑いけれど、やはり東京よりも横浜のほうが涼しいみたい。立地がいいのか、窓を開け放しておくといい風が吹き抜ける。

 それはさておき、なぜ両親がでかけるたびに、わたしは仕事道具一式をかついで帰省しなくてはならないのか。ひとえに2匹の猫のおさんどんをするためなのだ。冬はまだいい。夜、ふとんに入ってくるというサービスがついている。もちろん本人はサービスなんて気はさらさらなくて、ひたすら自分の都合だけれど。それでもいい。なにしろ夏はただこちらが一方的にご奉仕するだけの特典なし。お食事をだしてさしあげ、ご不浄(古い?)をお掃除してさしあげる。外へまいるぞといわれればサッシを開けてさしあげ、帰ったぞと戸をたたけばさっと入れてさしあげる。

うちの猫の朝のメニューはネコ缶。これは不思議。サケ缶はサケの缶詰だけど、ネコ缶 は猫用の缶詰。なのにイヌ缶とはいわない。夜のメニューはゆでエビ。もしくはゆでエビに生の帆立貝柱。エビはゆですぎるとそっぽを向かれてしまう。なかまで火が通 ったか通らないかくらいにしておかないと。気に入らないネコ缶は足で蹴飛ばしもする。なによ、勝手にしなさい、と思って放っておくと、しばらくしてお腹がすいたとさわぎだす。「さっきあげたじゃんさー」と猫を相手に思わず口走ってしまう。(ところで、この「〜じゃんさー」って、ヘンですか? ずっと前に北海道出身の知り合いに大笑いされたんですが……。)

 それにしてもいまはじつにネコ缶の種類が多い。なぜか。なかなかお気に召すものがなく、お気に召してもすぐに飽きるからだ。その偏食ぶりが犬の比でないことは、ペットフードのコマーシャルを見れば歴然としている。犬の場合は、トップブリーダーのなんとかさんがでてきてコメントし、あとは犬たちがドッグフードをワフワフ食べるだけ。健康で明るく無邪気な犬たち。猫はそうはいかない。重厚なカーテンのかかった部屋で横ずわりになって、クリスタルのグラスみたいのから召しあがるのだ。ネコ缶 の商品名には「モナーク(君主さま!)」とか「猫公爵」なんてのもあったっけ。まあ、文句いいながらもネコ缶 を食べてくれればマシだけれど。

 ネコ缶の商品名をみると、本当のところはどうか知らないが、メーカーの涙ぐましい努力がうかがえる。たとえば「ツナ一本仕込み・美食メニュー」、「まぐろ懐石・まぐろ&ささみ・しらす入り・ビタミンE、オリゴ糖配合」、「まぐろあらけずり・純缶 ・愛と健康のごちそう缶・DHAたっぷり」。ふうん。ツナの一本仕込みってなんだろう・・・。缶 にどんなうたい文句を印刷しようと、当の猫たちは知ったこっちゃない。ペットフード会社は猫を飼っている消費者に訴えようとしているわけで、飼い主のほうはなんという商品名だろうと猫には関係ないと知っていながら、あら、おいしそう、食べてくれるかしら、なんてついつい誘われてしまう。そうして缶 を開けてやっても、プイでおわり。脱力。どうして? 試しに食べてみると、おいしいじゃんさー、と思うことたびたび。おお、よく食べてくれたとほっとしても、半分のこったのをラップして冷蔵庫に入れておこうものならもうおしまい。くーっ、わたしだってつぎに生まれ変わったときには飼い猫になって、血合いのまざったネコ缶 なんてだされようものならお皿をひっくり返してやる!

 でも、こんなことって猫を飼っている人にとってはめずらしい話でもなんでもない。もういろいろな人が繰り返し実感し、語っていることだ。それでも猫の飼い主は何度でも同じことをこぼす。うちのは白身魚しか食べないの。でも、飽きるからときどき鳥のささみを薄味で煮てあげているの。煮干しは頭と腹をとってあげているの。おやつはチーズが好きみたい。なんのことはない、いわばただののろ気話なんだ。ということも、みんな百も承知なんでした。





Swan Song 2001.9

ロック対訳放談

 いよいよ9月。もう少しで秋ですね。いい季節になります。

 さてさて、わたしのこの駄文シリーズ、Swan Songなどとたいそうなタイトルをつけてしまいましたが、これはけっして「絶筆」なんて意味ではなく、わたしの王様、レッド・ツェッペリンのレーベル名からとったんですね。王様ですから、もったいなくてそうちょくちょくは聴きません。ここぞってときだけ。で、そのここぞってときが最近あったのでひさしぶりに聴きました。二枚組み大傑作『フィジカル・グラフティ』。いや、ほんとにすごいですねえ。なんの気なしに、あらためてある曲の歌詞を読んでみました。そうしたらこれがいいんだな。一見するとラブソングみたいだけれど、もっと普遍的な意味にとりたい。「いつも変わらずにそこにあるもの」。まさにわたしにとっての彼らのことだし、「揺らがない自己」と考えてもいい。こんなことが歌われていたなんて、知っていましたが、なんだかとっても感じ入ってしまい、だれかに伝えたくなりました。

 これはもちろんわたしなりの解釈なので、異があってもそっとしておいてください。 (今回は2000年1月に塩原さんが書いたエッセイのまったくのパクリです。ごめん、通緒ちゃん。でも書いたことは本当です。以下の対訳も桃井訳。)

TEN YEARS GONE

Then as it was,
then it will be
Though the course may change sometimes
Rivers always reach the sea

Like stars of fortune
Each has separate rays
On the wings of maybe
Down in birds of pray
Kind of makes me feel sometimes
I didn't have to grow
But as the eagle leaves the nest
He got so far to go

Changes fill my time
Baby, that's all right with me
In the midst I think of you
And how it used to be
Did you ever really need somebody
And really need'em bad

Did you ever really want somebody
The best love you ever had
Do you ever remember me, baby
Did it feel so good'
Cause it was just the first time
And you knew you would

Turn the eyes and I sparkle
Senses growing keen
Tasting love along the way
See your feathers preen
Kind of make you feel sometimes
Didn't have to grow
We are eagles of one nest
The nest is in our soul

Vixen in my dreams with great surprise to me
Never thought I'd see your face the way it used to be
Oh darlin', oh darlin'
I'm never gonna leave you,
   I'm never gonna leave you
Ten years gone, holdin' on, ten years gone

あのときと同じ、
この先も変わらない
たとえ曲がりくねっても
川はかならず海にそそぐ

幸運の星のように
それぞれの光を放ちながら
翼を広げてねらった鳥をめざす
ふと思う
変わる必要などどこにあるだろう
それでも、巣を飛びたつときには
どこまでも遠くへ飛ぼう

生きていれば変わってしまうことだらけ
でも、かまわない
あなたのことを考えると
少しも変わらないものがあると思える

心から誰かをもとめ
どうしようもないほどここにいてほしいとき
どうしても、どうしても、誰が必要なとき
それよりも深い愛があるだろうか
わたしを思いだしてごらん
きっとほっとするはず
だって、10年前は最初の出会い
そのときから変わらないと知っていたから

目を向けるだけでよろこびがあふれる
心があらわれて、さえざえとする
愛をたしかめて歩いていこう
ほら、あなたの羽はこんなに美しい
ときどき思う
新しい自分なんていらない
わたしたちは巣をひとつにする鷲
巣はわたしたちの心のなかに

思いがけなく夢に雌狐がでてくる
それでもあなたはいつもと同じ表情をたたえている
わたしはどこへも行かない
  あなたとずっといよう
10年前は最初の出会い
あのときも、いまも、ずっと変わらない




Swan Song 2001.10

 先日レンタルビデオで『タイタス』を観た。原作はシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』。斬新な演出ながら、おどろおどろしい復讐劇で暗〜い気分になってしまう。まあ、アンソニー・ホプキンスが主役だからいいことにしよう。それにジョナサン・リース・マイヤーズくんも残酷でおバカな役どころがあっていたし。彼は『楽園をください』でも残忍な役でいい味だしていた。

それはおいておくとして、ローマの将軍タイタス・アンドロニカス(ホプキンス)はゴート族との戦いに勝利し、ゴートの女王タモラ(ジェシカ・ラング)と3人の息子を人質にし、母親タモラが哀願したにもかかわらず長男を殺す。生き残ったタモラは新しいローマ皇帝サターナイアスの寵妃となり、ふたりの息子(弟がジョナサン・リース・マイヤーズ)とともに贅沢な暮らしを送りながらも、長男を殺したタイタスへの報復を誓う。タイタスの娘を息子二人を使って陵辱したうえに、両手首を切り落とし、舌を切りとる。さて、これにたいしていまや凋落したタイタスのタモラへの復讐は……和解の席を設けると称して、二人の息子を殺したその肉でパイを焼き、皇帝と妃のタモラに食べさせるのだ。これは西洋人の忌諱するカニバリズムではありませんか。

カニバリズムといえば、ピーター・グリーナウェイ監督の傑作『コックと泥棒、その妻と愛人』がある。こちらは大好きな映画。なにしろグリーナウェイだから豪華すぎてどぎつい演出がむしろたまらない。配役もすばらしい。高級フランス料理店「ル・オランデーズ」では絢爛たる厨房で、コック(リシャール・ボーランジェ)が腕によりをかけた料理が毎夜テーブルに並べられるが、この店の一番の常連客は泥棒のアルバート(マイケル・ガンボン)とその妻ジョージーナ(ヘレン・ミレン)の一行。下品で傍若無人で残忍な夫を毛嫌いしていたジョージーナは別 の常連客で物静かで知的な学者のマイケルと恋に落ちる。コックはそんな二人をかくまって逃がすが、妻を寝とられた泥棒は怒り狂ってマイケルを殺してしまう。ジョージーナは復讐を企ててコックに計画をもちかける。それはマイケルの遺体をコックに料理してもらい(こちらは姿がわかる丸焼き状態)、泥棒をその特別 な晩餐に招待して銃をつきつけて無理に食べさせるというもの。観たときはウゲゲときたなあ。(ちなみに泥棒の子分役としてティム・ロスが出演していて、わたしはそれ以来の彼のファン。最近はお猿の役ですごいジャンプ力を見せてくれましたが……) 西洋人は(だけではないか)カニバリズムを嫌うが、じつは昔々ネアンデルタール人は人間を食料として食べていたそうだ。人骨が発見されても、それがただ埋葬されたものか食べられたものかを判定するのはむずかしいけれど、動物の骨に残る処理のパターンと同じ痕跡が人間の骨にも残っていれば、カニバリズムと考えられるという。頭蓋骨や足や腕の骨が割られていたら、食人の可能性が高い。脳や骨の髄は栄養があっておいしかったらしい。そういえば、『ハンニバル』でも脳みそ食べるシーンがありましたね。

と、長々とカニバリズムの話をもちだしたのは、狂牛病日本上陸のニュースがさわがれているからだ。イギリス側には肉骨粉を輸出した記録があり、日本には輸入した記録はないという不可思議な話がありましたが……。しかし、それよりも、同種の生きものを飼料としてあたえるというのは、つまり牛に牛を食べさせたということで、人を人とも思わないのと同じく、動物を動物とも思っていないってことではないの? それって現代社会ではやっぱり禁忌だと思う。話はちょっとちがうけれど、だいたい肉屋とかレストランの看板にありがちな、豚や牛がコック帽をかぶって手にナイフとフォークをもってニコニコしている絵って絶対にヘンだ。わたしは菜食主義者ではないけれど、ああいうのを見るとうんざりしてしまう。





Swan Song 2001.11

ふたたびカニバリズム(しつこくてすみません) ある雑誌のずいぶん前の号にラフカディオ・ハーンを特集したものがあって、何人もの人が寄稿しているなかに翻訳されたエッセイが1編ふくまれていた。なめらかな翻訳でお手本にしたいと思い、強く記憶に残っていた。先日、ふとそれをまた読み返してみた。そうしたら今回はたまたま翻訳のなめらかさよりも、内容が気になってしまった。

 ハーンの著作には「食」に関したものが多く、事実当人はおいしいものに目のない美食家だった。アイルランド生まれのハーンはアメリカに渡って各地で新聞にルポルタージュなどを書いていた時代があったが、そのころからグロテスクなものやゲテモノに引かれていたという。で、当然カニバリズムの話もある。ただし、それはグロテスクとはいったものの、「生理的嫌悪を誘うよりも、悲しみや同情を誘う悲劇性を強調」していたという。

 このエッセイはさまざまな引用もふくめて長いので、ここで一気に日本時代にとぶことにするが、ハーンはご存知のとおり仏教的な思想に強く感化された。「食=グロテスク」と「カニバリズム」のテーマはあいかわらずだったが、「アメリカ時代には事件記者として写 実性とセンセーショナリズムの小道具でしかなかったモチーフが、日本に来てから後の深化と成熟の末、晩年にして遂に、ハーンの内なるデーモンを書き表すメタファーへと変貌を遂げた」。そしてハーン自身はこう書いている。「詩人の目からすればこの世の中は愛もあり希望もあり思い出もあり情熱もあり美しいものであるらしいが、生命が不断の殺戮によって養われているという事実の中に美しいところなどない……いかなる生命も、生命を維持するには生命を貪らなくてはならない……いやなことばではあるがわたしたちはカンニバルなのだ……植物の肉を食うかそれが魚か爬虫類か哺乳類かの違いがあるだけで、つまるところ同じことなのである」。生きるために生きものを殺生するのは自然の摂理というのは古典的な考えらしいが、輪廻転生を信じたハーンにとってはどんな生きものも元は同じ、したがって何を食べてもカニバリズムなのだった。

 わたしは菜食主義者ではないが、なぜかというと、どんな生きものも何かしら生きているものを殺して食べているのだから、肉食を断つことは人間だけが生きもののなかで特別 な存在だと気どっているようでいやだったからだ(ちなみにマハトマ・ガンディーは人間が肉食を断てば、世界は平和になると考えていたという)。わたしにはハーンほど深い意味はないし、そのうえちょっと言い訳じみているとも自分で思っているけれど。そんなわけで、前回の牧人舎エッセイで肉骨粉のことに文句をつけたものの、ハーンのエッセイを読み返してはたと考えてしまった。

 そこで大岡昇平の『野火』を読むでもなくぱらぱらとめくっていたら、こんな文章を見つけた。「今私の前にある屍体の死は、明らかに私のせいではない……そして彼の意識がすぎ去ってしまえば、これはすでに人間ではない。それは我々がふだん何ら呵責なく、採り殺している植物や動物と、変りもないはずである」。もちろん、その死んだ将校(私の前にある屍体)はあきらかに大岡さんが食べようとして殺したわけではない。そうして彼はそれを食べる気になった(らしい)が「その時変なことが起こった。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである」。そのあと彼は飢餓状態のまま谷間をふらつくが、そのとき花が咲いているのを見つけた。その花が突然「あたし、喰べてもいいわよ」と言った。しかし、「その時再び私の右手と左手が別 々に動いた……私の左半身は理解した。私はこれまで反省なく、草や木や動物を喰べていたが、それらは実は、死んだ人間よりも、喰べてはいけなかったのである。生きているからである」。またしても、はたと、だった。

 ハーンの思想と、大岡昇平の戦場での飢餓状態での意識をくらべることはできない。こうしたテーマの本をそうたくさん読んでいるでもないわたしは、なぜ生きものは食べなくては生きられないのだろうとただ単純なことしか思いつかない。今日も明日も、わたしは何かを食べる。もしも創造主というものがいるとしたら、そのようにつくったその方が恨めしくなった。こうしてわたしの「共食い」にたいするスタンスはさだまらなくなってしまった。





Swan Song 2001.12

 わたしはむかしから自分の名前がきらいだった。「るみこ」という名はふつうにあるけれど、ほかにこの名前の人に出会った記憶はない。ということは、あまりつけたいと思われない名前なんだ。なんだかハデで軽薄な感じ。わたしはもっとふつうの「玲子」とか「涼子」とか、ちょっとクールな感じのがよかった。親がつけようとした名の候補には、ほかに「聡子」とか「可奈子」などがあったそうで、それならどちらでもよかったのに、とくやしく思ったものだ。

 小柳ルミ子さんなんて人がでてきて、最初は花嫁がどーのこーのと歌っていたのがだんだんなんというか、とにかく変身してあんな感じになってしまったでしょ。しかも姓は「桃井」。これは桃井かおりさんとイメージが直結するらしい(さいわい、わたしは桃井かおりさんのほうは好きです)。彼女も最初のころはエキセントリックな感じで通 っていた。だから、社会人になったころは名乗ると、「それ、本名?」ときかれることがかなりあった。なんでただの会社員が芸名を名乗るのよ。もっとも、なかにはお世辞かどうかはいざ知らず「きれいな名前ですね」と言ってくれる人もいたけれど。とにかく「ももい」+「るみこ」という組合わせは、自分では客観的にどうだかわからないけれど、ちょっと特別 な印象をあたえるらしい。

 小学生のころ、かわいらしく友だちと交換日記をつけていて、そこにわたしは自分の名前が好きではないと書いた。父はそれを盗み読みし、あるとき「おまえ、自分の名前が好きじゃないのか」と言った。人の日記を読んだことを平気で言ってしまうとは、盗み読みという意識もなかったらしい。人権蹂躙。でも、わたしもわたしで、日記を勝手に読まれたことを怒るよりも、親がつけた名前をきらっていることを知られて、なんだか申し訳ないような気がしたのを憶えている。

 ほかに候補があったのになぜ「緑美子」になったのかというと、父方の祖母がどうしても「るみこ」がいいとがんばったからだという。まあ、明治生まれにしてはちょっとハイカラだったのね。そうまで言うなら「るみこ」にしないわけにはいくまいということで、今度は父が字をどうするかで頭をひねった。自分の弟が大学で中国語を少しかじったのを思いだし、「る」と読める漢字はないかと相談した結果 、「緑」に落ち着いたそうだ。

 でも「緑美子」なんて、ちゃんと読まれたためしがない。いや、たった一度、中学の国語の先生に「るみこ、でいいのかしら?」とたずねられたことはある。あとはたいてい「なんて読むの?」といちいちきかれる。わけのわからないDMはカタカナで「リミコ様」。あるとき電車に乗っていると、若い女の子が2人、わたしの前に立って話しはじめ、名前のことが話題になった。片方が「るみこ」というらしく、「だって、漢字なら留美子って書くしかないじゃない」と言っている。わたしはもう少しでその子に「いーや、そうとはかぎらないんだよ」と言うところだった。

 それがいつのころからか、自分の姓名が好きになってきた。結婚して一時姓が変わったことがある。それがきっかけで「わたしはほんとは桃井緑美子なんだ」と意識しだしたのだろうと思う。たぶん。結婚した相手の姓を名乗っていたのは会社員時代だが、その後、当時の後輩たちはいきなり「桃井さん」とは呼べずに、「緑美子さん」と呼ぶようになった。新聞の領収書のあて名は、イヤだイヤだと訴えたあげくに、ようやく「桃井ルミ子様」から「桃井緑美子様」になった。いずれにしても、もう姓も名も変える気はない。いまではもうすっかりなじんで、これ以外にはないとさえ思うほど愛着がある。追記 2年前の牧人舎の年末の集まりで雑談しているときに、わたしは冗談として「るみこなんてハデでしょ、それにモモっていうのもねぇ」と言ったら、野中さんが「あら、うちの娘はももっていうのよ」。すみません、野中さん、ほんとは謙遜のつもりでした。