【Swan Song】バックナンバー 2005年  桃井緑美子(ももい るみこ)   

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Swan Song


桃井緑美子(2005.1.3更新)















ご近所探訪――その2

 新年あけましておめでとうございます。

 いかにも元旦にごあいさつしているフリをしていますが、もちろんこれを書いているのは年末です。わたしはじつをいうとお正月よりも暮れのほうが好きでして、なぜかというとたぶん気分が盛りあがるからなのだと思います。いまの生活態度には年末らしい風情もなにもあったものではないと反省を交えつつ、ただ「おしつまってきたなあ」と思うだけで、なにかこの、緊張感が高まるというか、浮き足だつというか、ちっとハイになるのが気持ちがいい。深く考えたわけではありませんが。お年が明けたとたん、365日がだだ〜んと目の前におっぴろがっているようで、茫然としてしまう。そして、茫然としている間にまた1年が過ぎてしまう。

 このエッセイも6年目に入りましたが、これまで1月号を12月に書くときに年末っぽい話題にしようと思ってやめたことが何度かありました。1月になって掲載されたら、間が抜けて見えるんじゃないか。でも、まあいいや。

   そういうわけで、暮れといえばやはりお蕎麦です。大掃除もお正月準備もしないので、年末らしさは忘年会と年越し蕎麦しかない。したがって、大晦日にはどうしたってお蕎麦を食べなくてはなりません。

 近所に「山久」というお蕎麦屋さんがあります。さんきゅう=Thank You が名の由来。ご主人はかつて商社マンだったそうで、バリバリ仕事をしながら各地を飛びまわって、土地の料理屋でうまいものをたらふく食し、うまい酒を味わいつくしてその舌を肥やした結果、あるとき「会社をやめて蕎麦屋をやる」といきなり言い出して奥さんをびっくり仰天させたものの、さすが商社マンの妻はこれまでに集めた趣味の陶磁器その他調度品をお役立てくださいと差しだして夫に同意、ご主人が舌でおぼえた銘酒を調達し、蕎麦を打つ、おかみさんが料理をつくり、接待する、の夫婦二人体制の小さい蕎麦屋をはじめたという典型的な脱サラストーリーです(ステレオタイプの古典的商社マン像でやや脚色)。

 それからおよそ3年(たぶん)、いまや大繁盛。食べもの屋情報サイトなどで「女性に人気の」とか「手づくりの温かな」なんていう、あまり意味のないウンザリするような形容詞がつけられているとどうも気持ちが萎えてしまうのですが、そしてここもそんなふうに形容されるのでしょうが、実際のところ雰囲気がとてもよいことは認めないわけにはいきません。飾りとしてちょこちょこと置かれている調度がかわいらしいし、4人の卓が3つというこぢんまりした店なので落ち着くし、奥さんのお料理は気どりがなく、ご主人は酒屋の紺の前掛けかなんか着けて、一升瓶をかかえて出てきてお酒の由来を話してくれたりなんかします。

 大晦日は最初の年に一度だけ営業したそうですが、なにせご主人が一人で蕎麦を打つのでタイヘンなことになって、要するに懲りてしまったようです。翌年からは限定数だけ打って、生の蕎麦を販売するのみになりました。それで今年もうちでは雪のなかをセッセと出かけて買ってきました。でもねー、やっぱりお店で食べたいもんです。うちでゆでて食べるんでは、盛りあがりの最後の日に盛りあがらないもの。年が明けたらまた顔をだしてみようと思っていますが、行けば飲まずにいられないため、日本酒と蕎麦のお店はなかなか行かれない。こまったねえ。

(ももい るみこ)








Swan Song

桃井緑美子(2005.4.1更新)

 なんだか知りませんが、このところ60年代から70年代のロックに関する新しい雑誌がいくつも発刊されているようですね。この手の回顧ものは個人的にぞっとしないので「ようですね」なんてしらばっくれてみましたが、じつはエッセイ執筆のための資料として、簡単に言えばたんにネタほしさで、2冊ほど買ってしまいました。

 ロック誕生50年だそうです。以前、ロックもクラシックのようになっていくだろうか、つまりよい曲が演奏者を変えながら後世に伝わるのだろうかと友人たちと話したことがありました。しかし、すでにロッククラシックという言葉はありますが、なにせいまは録音技術が進んでいますから。少なくとも当分は紙ジャケだなんだと手を変え品を変え、奏者を変えることなくオリジナルが再発売されるんでしょう。

 古いロックをテーマにした雑誌が立て続けに発行されたのは、ロッククラシックとやらを一ジャンルとする年代割りの聴き方が定着しつつあるからというよりも、むしろそういう需要を掘り起こそうという魂胆があったからにちがいありません。たぶん。ターゲットはいうまでもなく40代から50代。「そうだ、オレはロック少年だったんだ」と若いころの記憶を呼び覚ましてやろう、もしくはロック少年だった気にさせてやろうというわけです。

 じつは、このエッセイを書きかけて、やっぱりやめようかと迷いました。試しに買ってみた雑誌はやっぱりショボくて、最初はケチつけようと思ったの。「Rock in Golden Age」はいうなればたんなる歴史年表で、読むところがない。しかも「ロック栄光の50年」と銘打ちながら、シリーズ全30冊中28冊で扱うのが60〜70年代ってのはないでしょう(それを21940円で定期購読しろとは)。「大人のロック!」はタイトルに引いて手が出なかったのでホームページで創刊の趣旨を読んだけれど、恥ずかしくなってしまった。だいたい「今何を聞いたら良いんだ?」という人のために、昔聴いていたものを聴きなさいと勧めるだけだなんて、それじゃ存在意義を否定するに等しいでしょうよ。でも、子育てやら仕事やらですっかりごぶさたしていた音楽の世界をあらためて広げていく人が増えるのはいいことなわけで、ショボい雑誌もだれかの役に立つかもしれない。聴き手が熱心になるにつれて充実してこないともかぎらないし、ダメなままならそのうちポシャるだろう。なんて考えるうちに、どうでもよくなっちゃった。

 さはさりながらですね、それでもいやなのは「AERA in ROCK」のある記事みたいなやつです。さる小説家が書いたとのことですが、なんですか、これ。タイトルだけ紹介すると(タイトルは編集部がつけたのかもしれないけれど、内容からとったフレーズもあるし、記事の気持ち悪さが集約されているので)主:「70年代ロックおやじの決着つけたペイジ&プラント 元ロック少年の青春が甦り、終わった」、副:「ツェッペリンを観たら思い残すことはない。いい大人がチケットのために行列をつくり、会場で涙ぐんだ。70年代ロックおやじのつかの間の青春」。同じ言葉のくり返しで気が利かないのはともかく、スタイルを気取って悦に入っているジジイの決まり文句を、よくもまあズラズラと。しゃあしゃあと。吐き気がしそうだ。ペイジ&プラントを観てツェッペリンを観た気になれるのも不可解だけど、「我らのロック」とくくって勝手に終わらせないでいただきたい。思い残すことがないなら、もうただの抜け殻だ。終わった人間に記事を書かせるな、アエラ。

 ま、それでもアエラ、いいところもありました。他の2誌よりはちっとマシな気がするし、ダントツによかったのは表紙のツェッペリンの写真。どこかの事務所か休憩室かって場所に、妙にうれしそうな顔で立つメンバー。今日は社員慰安の温泉一泊旅行の日、半ドンで仕事を切り上げて、さあ出発だ! 今夜はどんちゃん騒ぎだぜ、って感じ。微笑ましいこと。アエラ、ちょっと許す。
(ももい るみこ)





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桃井緑美子(2005.6.9更新)

 二ヵ月ほど前のこと、友人A君の宮城の実家でササニシキをつくっていて、自家用を秘蔵していると聞きつけた家人が、分けてもらうことにしたと小躍りしていました。昔からササニシキが好きだったそうです。そういわれて、急にわたしもササニシキのほうが好きだった気がしてきました。まだササニシキが出まわっていたころ、たしかにわたしはササニシキ購入者だった。それがいつからササニシキを食べなくなったのだろう……。

 それから少ししたある日、A新聞にタイムリーな記事が掲載されました。「勝ち組コシヒカリ、作付面積4割 食味、一族が上位独占」。専門家によるお米の食味ランキングで、コシヒカリとその親類が上位を独占したのだそうです。ササニシキははっきりと負けを宣告されてしまいました。なんとコメ全体の0.8%。勝ち組・負け組の差別化はお米にもあてはまるのでした。

 とにかくこの「専門家」というのがスゴイ。舌の鋭敏さを試すテストで選ばれ、さらに3年間の実習を受けた味覚のプロ。そういう人たちが集まって、来る日も来る日もお米の味や粘り、硬さ、香りを採点しているそうです。評価は5段階。同じ銘柄でも年によって出来が違うため、一定期間に最高の特Aを何度獲得しているかでくらべると、特Aを9回以上獲得した11銘柄のうちコシヒカリが6銘柄。さらに「はえぬき」とか「ひとめぼれ」もじつはコシヒカリ系なので、実質的に11銘柄すべてがコシ一族です。もちろん断トツの首位は、いわずもがなの「新潟・魚沼コシヒカリ」。89年から連続して特Aをマークしています。思えば、このころからササニシキが衰退したような気がします。コメ不足で大騒ぎしたのが93年。あのときはタイ米がおいしいなどととよろこんでいましたが、その隙にササニシキはトドメを刺されたのかも。そうとも知らず、騒ぎが落ち着いたあとはそのままコシヒカリを買うようになっていたのかも。ごめんよ、ササニシキ。

 ササニシキの転落にはワケがありました。コシヒカリと人気を二分していたころ、よく売れるので本来は作づけに適していない地域でも生産されるようになって味が落ち、結果的に売れなくなってしまった。まるでイソップの寓話です。しかも売れるお米に多くの生産量を割り当てる仕組みが昨年から導入されたそうで、これではますますコシヒカリの独壇場でしょう。しかし、そうしてコシヒカリもやたらに生産されて味が落ちれば……と新聞記事も懸念を示し、まるで平家物語です。盛者必衰の理はお米にもあてはまるのでした。

 さて、待ちかねたA君家のササニシキ。到着してみたら、なんと30キロ。しかも玄米……。玄米ごはん、それはそれでおいしいのですが、しかし時は春。たけのこご飯の季節ではありませんか。玄米でたけのこご飯はやっぱりなあ。そこで早く減らそうと、ササニシキだとわかってもらってくれるのかとやや不満げな家人をごまかして、親戚や友人に玄米を少しずつ分けていたところ、名案を思いつきました。いつも宅急便を出しにいく裏のお米屋さんに精米をたのんでみよう! これが図にあたった。5キロくらい精米してもらって、たったの300円。しかも、おじさんは糠までつけてくれます。もう玄米と白米、自由自在だ。

 ササニシキの白いご飯は、おかずを引き立てます(家人談)。コシヒカリは甘みが強くて味が濃いけれど、ササニシキはもっとすっきりしている。そのくらいのことは、特別に舌がスルドイわけではないわたしにもわかります。お鮨屋でササニシキを使うところが多いのもうなずけます。お刺身との相性がいいものね。それにつけてもたけのこご飯。いつかササニシキ復活の日を願って、いまの季節は白いご飯とたけのこご飯をトン・トン・パくらいの割合で炊く。気分がリセットされます。ホント。
(ももい るみこ)







Swan Song

桃井緑美子(2005.7.1更新)


写真1
 曇りときどき小雨の6月2日、六本木ヒルズで開催された Happy Aperitif というイベントに行ってきました。傷心の友人マダムSをなんでもいいから賑やかなところに引っ張りだして、気を紛らせてもらおうというちょっとした魂胆でした。

 マダムは長崎生まれの代々のカトリック教徒で、本人は仕事がらだと以前に説明していましたが、ふだんの会話でもたいへんに言葉が丁寧、姿も凛とした美人です。わたしのような普通の友人と話すにも「翻訳をなさっているとフランス語も出てくるのでしょうけれど、わたくしのフランス語ではとてもお役には立ちませんから」なーんておっしゃる。じつは気性はさっぱり、お酒大好きな人でもあります(別に矛盾ではありませんが)。とくにワインがお好き。そして召し上がるものも遺伝子のなせるワザか(長崎出身ですから)、洋ものがお好みのようで、お宅に遊びに行くとすでに昼間からワインが赤白あいていて、生ハムとサラミとチーズなんかを用意して待っていてくださる。
 そんなわけで、フランス農務省の発案で去年から6月第二木曜とさだめられたハッピー・アペリティフは、日本のフレンチの巨匠のアミューズブーシュにフランスワインが楽しめるということで、どんなものか冷やかしがてらマダムを誘うのにはぴったりのイベントでした。まず、入り口でクーポン[写真1]と紙皿をもらい、学園祭みたいに並んだブースをまわりながら、これ食べたいと思ったらクーポンと引き換えにお皿のうえにごちそうをのせてもらいます[写真2]。こんなにちょっとずつじゃ、食べものクーポン10枚なんてすぐなくなっちゃいますね、マダム。と思いきや、濃厚なフレンチは侮れません。しかもワインは無料のものが多くて[写真3]どんどん飲ませてくださっちゃう。クーポンがないと飲ませてもらえないワインをいただいてみましょう。でも、それがほとんどない。使いきれません。

写真2

写真3
 クーポンにはクジがついていて、アタリだったら景品がもらえるという趣向もあり、会場のあちこちにいる赤い帽子のクジ係のおねえさんをつかまえて引いてみたのですが、みごとハズレ。すると、わたしの前にアタリを引いたどこかのおじさまがワッハッハとたのしそうに笑って、これをさしあげましょうとご自分のアタリカードを譲ってくださったのでした。もちろん辞退したのですが、いやいいんですよとおっしゃり、会釈するとすっと立ち去りました。どうということないといえばないのですが、そのタイミングのなんだかスマートなこと。なんて気持ちのいい方でしょうと、マダムも感激です。
 中央のステージでは何かトークのようなこともしていましたが、マダムの知りあいのピエールさん[写真4、右から二人め。右端は服部さん]をちょこっと見て、あとは会場内を3時間くらいふらふら飲み歩いていました。ああ、おなかいっぱいですね、マダム。ええ、もういただけません。といいつつ、閉会まぎわに無料で放出されたフランスパンもちゃっかりいただいてまいりました。来年も行きましょう、マダム。
(ももい るみこ)

写真4







Swan Song

桃井緑美子(2005.8.1更新)

フジロックフェスティバル'05奮戦記

 今年も行ってきました、フジロック。リピーターと化して4年目、天気が悪くたってもう動じません。たのしみ方もわかってきました。会場にはおもなステージが大小あわせて6つありますから、あいた時間は気の向くまま、知らないバンドをのぞいてみてもいいし、散歩しても昼寝してもいい。もちろんごはんも食べる。それでは今年のフェスごはんスライドショーです。

[1]オアシスから見たレッドマーキー。
ロイクソップ演奏中

[2]パニーニやロコモコも

[3]友人が食べた上海バーガー。
慢頭にチキン

[4]串焼きがけっこう多い

[5]プルコギ丼。
生野菜がとってつけたよう

[6]見た目は素っ気ないが
おいしかった黒豚めし
 ゲートを入って最初のステージが会場内で唯一屋根のあるレッドマーキー[1]。ここのとなりにはオアシスといういちばん規模の大きい屋台村があり、中華、タイ、インド、カレー、ケバブ、うどん、ピザ、タコスなど、たくさんの屋台がならんでいます[2][3][4]。会場内の食べものは多くが1品500円。このお値段ですからご馳走はのぞめませんが、いろいろ食べてみたいと思わされるのがフェス。初日の昼と夜のごはんはプルコギ丼[5]と九州黒豚めし[6]を食べました。脂身の少なかった黒豚めしの勝ち!

[7]夜のグリーンステージ。
最終日のニューオーダー

[8]昼間はこんな感じ。
このあともっとぎっしり込みました

[9]ハイネケンおかわり
 ここの一角の隣がメインのグリーンステージ。最大の野外ステージなので、人気のある有名どころが出演します。今年のメインアクトはコールドプレイ、フーファイターズ、ベック、ニューオーダーなど[7]。このステージは後方が草地になっているので、シートを敷いてのんびりするにはいちばん[8]、できれば食事はここですわってゆっくりと、というのがせいせいして気持ちがよい。ですがここには屋台がなく、ビールと飲みもののスタンドのみ。食べものはどこかから調達してきます。ビールは大きい紙コップで1杯500円。今年ハイネケンの店では携帯用ボトルとストラップ付で1500円というチョイスがありました。これを買えば紙コップを使わずにすむのですが、これが使い勝手が悪い[9]。口のあたるところがきれいに仕上がっていないし、保温性が悪いって致命的だよね。

[10]夜のホワイトステージ。
ポーグスで盛りあがる人々

[11]ところ天もあるところ天国

[12]パクチーたくさん
 ビールといえば、グリーンステージから林のなかを10分弱ほど歩いていったところに2番目に大きいホワイトステージがあり[10]、その入り口手前にところ天国という店が出ています[11]。やった! ここのバーにギネスがあった! ところが! よろこんだのもつかの間、注ぎ方がダメ! ドボドボついじゃって、細かい泡が立たないじゃないの! せっかくウィジェット入りなのに![注:ウィジェットについては Swan Song 2003年7月号を参照] 自分で注ぐからよこせと言いたくなりましたが、ぐっとガマン。

[13]校庭みたいですね

[14]台湾ラーメンも魅力。
次回ね

[15]ミニカレー、200円也
 2日目の昼食は雨のなかオアシスで坦々麺を立ち食い。食事にとれる時間の長さと天候によっては、立ち食いもしゃがみ食いもあり。歩き食いしている人だって、ライブで踊りながら食べている人だっています。ただし人の迷惑にならないようにね。夕飯はいちばん奥のオレンジコートでタイラーメン[12]。お味はまずまず。もうちょっと辛くてもいいのにな。でも、パクチー入れ放題のところが◎二重マル! オレンジコートはわりあい広いのですが、ここを含めて奥の3ステージの出演者はいわゆる大物ではないので、のんびりした雰囲気です[13]。エイドリアン・ブリューを見終わってから、友人との集合場所にもどりがてらアヴァロンの屋台村を通りかかると、夜はますます縁日みたいな雰囲気でついつい買い食いをしてしまいました[14]。ミニインドカレーを食べているのはだれ?[15]

[16]椅子にかけてゆっくり

[17]いきなりキュウリ

[18]奥の方ほど飾りつけがあります
 最終日はまず奥のオレンジコートにもう一度行って、アイス・チャイを飲みました[16]。ライブはイマイチでしたが、チャイはほどよい甘さで○マル! ついでに野菜不足にキュウリの浅漬けも○マル![17] お昼ごはんはちょっとヒッピー風な雰囲気を醸しだしているフィールド・オブ・ヘヴンで食べることにしました。ちなみにここは夜も照明があやしい感じです[18]。食べるものはパン屋とか沖縄料理風の店とかオーガニックビールとか、ナチュラル度が上がります。が、ちょっと高い。ゴーヤのなんとかごはんが700円。たんなる生のキュウリが1本200円という価格設定を考えると、食べもの相場500円との差額200円の価値はあるのだろうか。やっぱりやめた。しょうがないのでところ天国の冷やしうどんを食べましたが(けっこう麺好きだってバレちゃいました?)、味はフツーでしたね[19]。だしがあんまり。あとで聞いたらごま味はおいしかったらしいので、そっちにすればよかった。

[19]しゃがみ食いしたうどん。
このあと大道芸を見ました

[20]レストランと名がついても、
もちろん露天

[21]パエリアも行列のできる店
 夕方はレッドマーキーを見に行ったので、となりのワールドレストラン[20][21]でゆっくり夕飯を食べようと思いましたが、行ってみたもののやはりここはいま一つそそられるものがないなあ。英国料理のフィッシュ&チップスはいつも行列ができているけれど、4年前に食べた感想を率直にいえばコストパフォーマンスが悪いと思う(これも700円)。つけあわせのポテトもおいしくないし。そうこうするうちに、その日なんとかもっていた天気がついにくずれて雨がポツリポツリ。結局、エジプトカレーを持ち帰り、グリーンステージを見ながら食べましたが、残念、フジロック最後の食事は雨が降りこんで水増しカレーになってしまいました。

 あ、そうだ。最後の最後のごはんは翌朝の宿の朝食だった。3日間のフェスも終わり、少々疲れた体にはちょうどよい中華粥でした。お心遣い、ありがとう。





Swan Song

桃井緑美子(2005.10.3更新)


川の向こうから見たムリーンスカー・コロナーダ
アイルランドへ行きたい――あてはずれのチェコの旅の巻・前編

※お断わり:あてはずれというのはチェコが退屈だったということでは決してなく、ひとえにこちらの調査不足と思いこみのせいです。

 チェコへ行ってきました。9月の東欧の旅はもうかなり寒かろう、たとえウェブカメラで見る現地の人が半袖・半ズボンにサンダル姿でも、肉食人種は体感温度がわれらとは違う、そう思って防寒着をたくさん用意して訪れたプラハの秋でした。ところが、プラハ城周辺の坂を上ったり下りたりしたら、もう汗じっとり。こんなはずではなかったが……。

 それでもあの暖かさはバカ陽気だったのか、3日後にカルロヴィ・ヴァリに移動するころには涼しくなってきました。プラハからバスに揺られて西へ2時間ほどのカルロヴィ・ヴァリはドイツ名をカールスバートといい、有名な温泉地です。近くにはマリアンスケー・ラーズニェという温泉もあり、こちらはドイツ語名が『去年マリエンバートで』のマリエンバート。ヨーロッパの温泉は基本的に「湯治」のための施設です。医者の処方に従って鉱泉の水を飲んだり、指定された時間お湯に入ったりする。

 観光地化したカルロヴィ・ヴァリに病や傷を癒すためにきている人がどれくらいいるかは疑問ですが、とにかくコロナーダと呼ばれる飲泉施設がいくつもあります。なかでも立派なのが「ムリーンスカー・コロナーダ」。豪華な円柱がバンバン建っていて、柱の合い間にところどころ蛇口が設置されている。こういうお城の回廊のようなところをゆっくりと散歩しながら、鉱泉水を汲んで飲むというのがヨーロッパ式温泉のたのしみ方というわけなのです。街のそこここで飲泉用のカップが売られているので、さっそく買ってお湯を汲んで飲んでみました。……。おいしくない。さびた水道管の水を飲んでいるみたい。でも鉱物たっぷりの鉱泉なんだからこんなもんでしょう。せっかくカップを買ったので、蛇口から蛇口へ、まずい!もう一杯!をくり返したのでした。


こんなところを歩きながら

こんな蛇口から鉱泉を汲みます
 古代ローマを起源とするヨーロッパの温泉は、中世に風紀が乱れたせいとかでいったん廃れてしまったのですが、治療効果が見直されて18世紀ごろに復活し、王族や貴族の社交場になりました。『去年マリエンバートで』の幾何学的な庭園が温泉地だとは知りませんでしたが(映画の撮影はマリエンバートではなかったらしい)、大きな館に上流階級の人々が集まったりして、実際もああいう感じだったんでしょうか。19世紀に入って市民のものになっても、温泉旅行はお金持ちの贅沢な遊び、ステータスだったそうです。そりゃあそうでしょうね、温泉地の湯治場に何週間も何か月も逗留するなんて。

 映画『黒い瞳』に出てくるのはイタリアの温泉地ですが、マストロヤンニが演じた主人公も髪結いの亭主というか、奥方の実家が銀行家なのでテキトーにぷらぷらしていられる身分の男でした。ヒマなもんだから湯治に出かけ、そこで出会った犬を連れたロシア人女性にのぼせてしまう(原作はもちろんチェーホフ)。もう1つ、温泉で思いだす映画が『存在の耐えられない軽さ』です。こっちはなんたって舞台がチェコ、原作者も監督もチェコの人。プールのような大きな浴槽のまわりに円柱が立ち並び、湯治客が湯につかりながら浮かべた盤でゆったりとチェスをしているシーンがありましたねえ。そんなこんなで、チェコで温泉に行くんだと決まってから、わたしがこういう映画を何度も思い浮かべてイメージをふくらませていたのもムリはないでしょう?


 カルロヴィ・ヴァリの街に着くと、さあ入浴だってことで、ホテルにチェックインしてすぐにラーズニェへ行きました。ラーズニェというのはチェコ語で「浴場」のことで、行ったのはカルロヴィ・ヴァリに5つあるうち、いちばん大きくて街の中央にある「ラーズニェV」です。両側にドアが並んだ人気のない廊下(しかも暗い)は古い病院のようであり、受付に太ったおばさんがいるのは銭湯のようでもありました。貸し出されたタオルは、タオルじゃなくて大きな白いシーツ。いやがおうにも湯治気分が高まるじゃありませんか。着替えに2階に上がっていくと、中央の吹き抜けを囲むように更衣用の小さい個室が並んでいて、廃屋になった別荘か場末の娼館か、はたまたここはいったいどこなんだという気分にさせられる不思議な雰囲気。盛りあがってきた〜! さあ、映画のように円柱のあるうす暗いプールで、とろりとしたぬる〜いお湯に黙ってつかろう! そしてプラハの春のこと、カレニンという名の犬のこと、ビロード革命のこと、好きな映画のことをちょっと思いだそう!

 しかし、あてははずれました。プールは白く明るく、大きな円柱もなく、三方が壁なのでプールサイドもない。もちろんチェスをする人はなく、客はバシバシ泳いでいる。入ってみると水は冷たく、つま先で立つのがやっとなくらい深く、平泳ぎができないわたしもクロールでバシバシ泳ぐしかない。完全にスイミングプールだ。それなのに、ふる○んのおじさんがのしのし歩いている(3人くらい)。……。


日本の温泉と違って人工的な演出

独特な形の飲泉用カップ
 取っ手がストロー状になっていて
そこから飲みます
 イメージとの落差が大きいの(とおじさん)に驚いて、あたふたとプールをやめてサウナに入ってから出てしまったラーズニェでしたが、あとで調べると別の温かい浴槽もあって、つかることもできたらしい。残念です。でも、カルロヴィ・ヴァリはこぢんまりとした街で、テプラー川という小さい川が流れ、ほんの少しですが湯煙が上がったりもしていて、どこか日本の温泉街を思わせる風情がありました。饅頭ではないけど温泉名物もあるし、みやげ物屋も並んでいる。観光の街としての俗っぽさをちょっと漂わせながら、それがどうしてか少しも嫌みでなく、むしろ長年の人の往来を感じさせる。テラスで川のせせらぎを聞きながら夕食をとったあと川沿いをホテルまでもどる夜の舗道は、知らない洋画のワンシーンのようでもあり、それでいてまたなぜか温泉につかったあとにホカホカする体を浴衣で包んでそぞろ歩いているような満たされた気分にもなったのでした。温泉マジック。

(ももい るみこ)







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桃井緑美子(2005.11.1更新)


シーレの描いたチェスキー・クルムロフ
アイルランドへ行きたい――あてはずれのチェコの旅の巻・後編

※お断わり:あてはずれというのはチェコが退屈だったということでは決してなく、ひとえにこちらの調査不足と思いこみのせいです。

 プラハにはムハ(ミュシャ)美術館があります。ムハというのはミュシャの現地語読みです。ここはぜひ訪れなければ。ショップもあるらしいので、マイプチお土産はミュシャのマグカップだ。そう思って行ったのですが、そして作品の展示はとてもよかったのですが、ショップにマグはなかった。旅土産のマグがちょっとだけ集まりかかっていたので、ここになかったのは残念でした。そしてまたチェコはビールが有名なので、じゃあついでにビールの里プルゼニュへ行ってみよう、一番有名なピルスナー・ウルケルの工場があるから見学しよう。その予定だったのですが、見学はお昼で終わり。終わるの早すぎる。くやしいので町で一番古いというピヴニツェ(ビアホール)に行きましたが、なんだか雰囲気が悪くてがっかり。なにがなんでもビール工場を見たいというわけではないにしても、あてにしていただけに残念。そんなこんなでマイプチ残念がつづいた旅でした。

 チェスキー・クルムロフは蛇行する川と城の町でした。チェスキーというのは「ボヘミア地方の」という意味だそうです。ここはエゴン・シーレの母親の故郷だったとのことで、シーレはたびたびこの町を訪れ、1911年から3年ほど滞在しています。町の中央には、元ビール工場を改装したというエゴン・シーレ美術センターがあります。もちろん、このちんまりとした町にシーレの代表的な絵がてんこもりに展示されているとはさすがに期待していませんでしたので、あてははずれだったわけではありません。シーレというとヒリヒリするような自画像や人物画がすぐに思い浮かびますが、わたしはどちらかというと町並みを描いた風景画のほうが昔から好きでした。画集などにはほとんど載っていないようですが、その町並みの絵のなかにチェスキー・クルムロフを描いたものがあるとは知らなかったので、ちょっとうれしい出会い。
 チェスキー・クルムロフは、ヴルタヴァ川が逆Sの字に蛇行した、その2つのでっぱりの土地にできあがった小さい町です。ヴルタヴァ川はスメタナの「わが祖国」第2章で有名なモルダウ川のことで(余談ですがスメタナはビール醸造技師の息子だそうです)、プラハまでいくといくつもの橋の下を悠然と流れていますが、チェスキー・クルムロフではまだ小川をちょっと太くしたくらい。あちこちに小さい橋がかかっています。この町の歴史は古く、8世紀くらいからぽちぽち人が定住しはじめ、14世紀から16世紀にかけて300年にわたってロジェンベルク家が統治しました。イラストでいうと中央上のほうに塔があり、そこから左へ川沿いの高いところに広がっているのが城です。城にはお約束のショップがあり、ミュシャ・マグカップを発見! もっともプリントされた絵は小さくて、あまりいいできではなかったので手に入れませんでしたが、なんとなく気がすんだ感じです。

 逆Sの字の2つのでっぱりはかつてそれぞれ別の町だったそうで、ビール醸造の利権をめぐって対立していたらしいのですが、1555年に統合されました。1622年には、神聖ローマ帝国皇帝でボヘミア王でハンガリー王であるハプスブルク家のフェルディナント2世が、エッゲンベルク家に奉公への褒美としてこの町をあたえました。それから100年ほどはエッゲンベルク家の統治になり、初代の孫はたいへんすぐれたよい領主だったそうです。で、ここでいまも造られている地ビールが「エッゲンベルク」。チェコビールはほぼどれもおいしかったのですが、このエッゲンベルクの黒が一番だったかな。そのうえ思わぬところでビール工場見学もできてしまった。マイプチ残念はこうしてチェスキー・クルムロフで解消したのでした。

 チェコ語で「ビール」は「ピボ」、「ビールください」は「ピボ・プロシーム」。チェコを旅行するにあたり、覚えていった現地の言葉はこれだけだったのですが、町を歩きながら「ドブリー・デン(こんにちは)」「デュクユ・バーム(ありがとう)」「ナ・スフレダノウ(さようなら)」をマスターしました。最初のうちは、この国の人たちはサービスするということにまだ慣れていないのか? と思う場面もありましたが、たったこれだけの言葉でも、言ってみるとみなニコニコして親切にしてくれる。つたなくても自分の国の言葉を使おうとする外国人をほほえましく思うのは、どこの国でも同じなのねとあらためて思った旅でした。
(ももい るみこ)

町の俯瞰図
右のでっぱりの先端にビール工場 
左のでっぱりの中央が町の広場





Swan Song

桃井緑美子(2005.12.2更新)



 いきなりですが、煙草を吸わないことにしてみました。ふと思い立ってから、2か月半が過ぎたところです。おもしろいなと思ったのは、「煙草やめたの? よかったね、おめでとう」と人から言われること。なるほど、そうかもしれない。禁煙って、おめでたいことなんだね。あらためてそう思いました。それから「えらい! すごい!」とも言われます。でも、こちらはそのとおりとはいえない。じつの話、ぜんぜんすごくもえらくもなくて、自分でもびっくりするくらい。

 それまでは、本数からすればヘビースモーカーに分類されるくらい吸っていました。1日2箱。ちょっと忙しいなあ、なんてときは、どうかすると3箱。家で仕事をしていると歯止めがない。何が困るって、部屋が汚れるのがいちばん困りものでした。海水浴行ったの?ってくらいに家具のかたちが壁にくっきり残る。そんなもんだから、いずれはやめようと思ってはいました。いずれね、いずれ。だって、ちょっとやそっとのことではやめられるわけがない。そうとうな覚悟がいるはずだもの。

 ずいぶん昔、吸いはじめてまもないころに、ためしに1か月だけ禁煙してみたことがありました。とっても簡単だった。なんだ、これならいつでもやめられるじゃん、とそのときは思ったけれど、それから幾年が過ぎたことか。もうそんなことはムリにきまってる。案外簡単なものだよと言う経験者もいるけれど、そんなのウソ。いや、うそではないにせよ、わたしにはあてはまらない。禁煙しては挫折をくり返すというのはいやだから、煙草をがまんすることに神経を集中しても差し障りのないときを選んで決行しなくてはならない。そのときにはニコレットを用意しよう。お酒も飲まない。人にも会わない。食後に一服したくなるから食事もしない。そのくらいの気持ちで腹をすえてのぞまなくては……。それでも万が一だめだったら、禁煙クリニックに通うしかないかもしれない。禁煙できないのは根性が足りないのではなく、病気なのだと最近ではいわれているし……。それにしても病気とは、萎えるなあ……。

 それなのに一つも決心しないまま、9月のチェコ旅行も残すところ3日くらいになって、ふと思いついて昼食のときに吸わずにいてみました。長めの旅行のときはチャンスだという気持ちが頭のすみにあったんですね。なにしろ旅行中は動きまわっていて、歩き煙草はしないから必然的に本数が減る。それをもう少し意識して減らしてみる。翌日は3時のお茶のときも吸わないようにしてみる。その翌日は夕食後も。そのつぎの日は機上の人……そのまま今日まで吸っていません。高い山に登る決心が必要だと思っていたのに、そのへんの丘を散歩するみたいに、意識せずにするするっとはじめたのがかえってよかったのかもしれない。でもそんなことよりもっと驚いたのは、ちっとも苦痛じゃなかったこと。

 いやー、これは意外でした。はじめのうちは、仕事しながらちょっと手をとめたときに無意識に煙草を探したりしたけれど、「あ、そうだ、吸わないことにしたんだった」と思うと、それで終わり。どういうわけなんだか、吸いたくならない。1か月が経過したころ、友人とお酒を飲む機会がありましたが、それもらくにクリア。となりで誰かが煙草吸っていてもまったくヘイキ。歯を食いしばり、あぶら汗を流してガマンしたわけではない。ぜんぜんえらくない。最初の2週間ほどフリスクのお世話にはなりましたが、それだけ。信じられない。ぜんぜんすごくない。一大決心しなくてはならないと思っていたのはなんだったのだろう。拍子抜け。

 要するに、ニコチンの中毒ではなかったんですね。じゃ、ただの習慣だったってこと? 煙草とは深い仲だと思っていたけれど、わたしにとって煙草はなくては困るものではなかったんだ。禁煙は案外簡単なものというのは、わたしにもあてはまったんだ。なあんだ。案ずるより産むがやすし、ってそのままじゃない。あんまりあっけなくて、なんだか笑いがこみあげてきます。でも……。

 ここで、禁煙なんて超カンタン、なんて思ってはいけない。たぶん。禁煙は1年しないとまだ成功とはいえないそうです。わたしははじめて2か月半。「タバコ吸いたいっ」と胸をかきむしることはなくても、吸わないことにした自分がそろそろめずらしくなくなってくるころ。吸わないことに飽きてくるかもしれない。ヘイキだぜ、なんて油断するかもしれない。そして恐ろしいことに、禁煙すると太るというのも避けられないことのようです。食べるものがおいしく感じられてつい余計に食べちゃうとか、そういうことじゃなくて、代謝が変わるから。だから禁煙するには太ることを前提にして計画しなくちゃいけないんだそうです。あとでネットで調べて初めて知った……。さあ、とりあえずゆるゆるとなんの気なしにやってみたれど、半年後のわたしはどうなっているでしょうか。すっかりもとのヘビースモーカーにもどっているか。それともタバコを吸いたがらないデブになっているか……おたのしみに。