【ぐるぐるくん】バックナンバー 2000年  野中邦子(のなか くにこ)   2003年2002年2001年はこちら




芸術家になりたい? 1999.12

12月5日新潮社から『トルーマン・カポーティ』発売。

12月15日平凡社から『ピカソと恋人ドラ・マール』発売。

 カポーティはゲイ、『ピカソ……』の著者のジェームズ・ロードも確信をもったゲイ。ゲイ・カルチャーってあるのでしょうか? アンディ・ウォーホルもゲイでした。ピカソも、フランソワーズ・ジローにいわせると「その気(け)があった」そうです。シュルレアリスム画家のダリは親友だった詩人ロルカに関係を迫られたとか。

 女性でも、マレーネ・ディートリッヒが男装して女性にキスする『モロッコ』のワンシーンはすごくかっこいい。画家のジョージア・オキーフもゲイでした。というわけで、私が伝記を翻訳した人たちって不思議とゲイが多い。

でも、ゲイorストレートなんていう分け方は「もう古い!」のでしょうね。最近ではジェンダー・フリーというようです。

 芸術家というのは、そもそも社会からはみ出しているから、社会の決める性差からも逸脱しやすいのでしょう。

 ジェームズ・ロードは、芸術家になりたくてなりたくてたまらないのに、結局、芸術家にはなれなかった一般人。「悔しいな、だけど、憧れちゃう」というミーハーっぽい普通の人の気持がよっくわかります。ちなみに、ロードはカポーティとはほぼ同じ年齢(カポーティのほうがちょっと下)で、パリのサロンで顔を合わせたりしています。実物の天才を見て、どんな気分だったのかな? でも、まあ、ロードのまわりにはピカソをはじめ、コクトーや、ジャコメッティやバルテュスといった天才がごろごろしていたので、カポーティを見てもそれほど驚かなかったでしょう。

 そう思うと、あのころは天才がごろごろしていたんですね。『Being Genius Together』という本がありますが、「みんなでなろう、天才に」ってところ?

 ロードは天才ではないかもしれないけれど、フランス政府からレジオンドヌール勲章を受けています。エクサンプロバンスのセザンヌのアトリエ保護運動に尽力したからです。それとは関係ないのですが、横浜美術館の「セザンヌ展」見てきました。

 昔、美術部で油彩画を描いていたころのことが強烈に甦ってきました。あのころ、セザンヌに影響されていたのかな? そんなに「大好き!」という印象はなかったんですが、見ていると懐かしくてたまらない。絵具のビリジャンの緑色、テレピン油の匂いを思い出しました。

 来ているお客さんたち、地味でしたね。木場の現代美術館「ウォーホル展」の客層とは大違い。文化的にチャレンジされてないけれど、年齢にチャレンジされている女性たちが目につきました(教養のありそうな中年女性が多かったということ)。

 「文化的にチャレンジされている」culturally challenged――ジョン・ウォーターズの映画『I love ペッカー』に出てきたセリフ。challenged は disabledの婉曲表現。 『ペッカー』は楽しい映画です。お奨め。『バッファロー66』もね



『ジョセフィン 虹を夢みて』 2000.1

『ジョセフィン 虹を夢みて』
青井陽治/作・訳詞、木村光一/演出
地人会第73回公演
2月23日(水)〜3月5日(日)
紀伊國屋サザンシアター(新宿南口)
前売り開始/1月11日(火)料金5000円
問い合わせ地人会03-3354-1279

ジョゼフィン・ベーカーの生涯を描いたお芝居です。

参考資料として、私が前に翻訳した『ジャズ・クレオパトラ』(フィリス・ローズ著、平凡社)も使われるということで、年末に知人会の事務所で、作者の青井さん、演出家の木村光一さんと鼎談してきました。
 主演は前田美波里さん、歌あり、踊りありの楽しそうなお芝居です。鼎談はプログラムに掲載予定とのこと。ぜひ劇場に足をお運びください。

暮れからお正月の読書

 笙野頼子『ドン・キホーテの「論争」』、多和田葉子『カタコトのうわごと』、桐野夏生『柔らかな頬』、山本文緒『落下流水』……女の作家ばかり。

 深町真理子『翻訳者の仕事部屋』。私が翻訳を勉強していたころ、たまたま図書館で深町さんの新旧2種類の本をみつけました(たぶんパトリシア・ハイスミスの『慈悲の猶予』だったと思う)。旧作をご本人が改訳し、タイトルも変更されていましたが、内容は同じで文章だけ直したもの。その2冊をみくらべて、どこをどんなふうに変えたのか、研究したことがあります。

 「!」……目からウロコが落ちる思い。当時の私は新米翻訳者で英文の意味をとるのに四苦八苦していた頃ですが、ひらめくところがあったようです。それ以来、深町さんは、わが尊敬する翻訳者。深町さんの「生涯一翻訳者」、笙野さんの「純文学作家宣言」、どちらもいさぎよくて凛々しい。

 『ゆめはるか 吉屋信子』(田辺聖子)評伝としてはもちろん、大正・昭和の女流文学史であり、またフェミニズムの歩みという側面もあり、いろんなことを考えさせられる。のみならず、あまりの面白さに引き込まれ、つい読みふけって夜更かしし、次の日の仕事がつらい……などといえる現在、大勢の先人のおかげで日本の社会も、女も変わったんだなとしみじみ思う。







翻訳者のイメージ
 2000.2

「恋愛中毒」山本文緒
「まくらともだち」山本文緒
「デュアルライフ」夏樹静子
「女たちのジハード」篠田節子
「緑色の濁ったお茶あるいは幸福の散歩道」山本昌代
「ダンス、ダンス、ダンス」村上春樹

以上の本の共通点はなんでしょう。

「女性翻訳家」サラ・デュナント

これも入れればおわかりのように、翻訳者が出てくる小説です。
村上春樹は別として、ほかはすべて女性。ただし、「ジハード」はまだ翻訳者ではなく、翻訳学校で勉強している女性。結局、翻訳者にはなりません。「まくらともだち」には男の翻訳者も出てきます。

また、このうち2作はストーカーが出てきます。ジャンルはロマンスもの3人、ミステリー1人。

「恋愛中毒」「デュアルライフ」「女たちのジハード」はTVドラマにもなっていて、翻訳者役は、それぞれ薬師丸ひろ子、樋口可奈子、千堂あきほ。TVドラマでは、前に渡辺えり子が翻訳者を演じたのがあったのですが、題名を忘れてしまいました(ご存じのかた教えて!)

昔は翻訳者が登場人物の小説なんてあまり見なかったのですが、最近こんなに増えたのは、翻訳学校や通信教育など、翻訳の仕事が身近になったせいなのでしょうね。家でできて時間も自由だし、知的でスマートな仕事だと思われるせいか、女性の希望する職業にもなっているらしい。

というわけで、作品に描かれた翻訳者像を考察してみようと思いましたが、まだ素材不足なのでそれはいずれ、ということで。

翻訳者の出てくる作品、お気づきでしたらぜひ教えてください。



フェミニズムではないけれど  2000.3

大阪に日本初の女性知事が誕生しましたね。日本初!この太田房江さん、旧姓を通称として使っているそうです。そういう実例がどんどん増えていけばいいのに。

でも、新聞で読んだ太田さんのコメント、ちょっと首をひねりました。

通称使用の件で「フェミニズムではないけれど、これまでずっと通称でやってきたので今後も続けたい」といってました。なんで、フェミニズムではないけれどという枕詞がつくのかなぁ?

世間ではフェミニストというと、髪振り乱して「男女同権!」と「黄色い声」をあげる「男まさり」か「もてないオールドミスのひがみ」と思われてるんでしょうね。

私の思うフェミニズムは、ただ「女も便利に暮らしたい」だけなんですけど。

ま、太田さんもフェミニズムの看板をおおっぴらに掲げたら当選できなかったかもしれない。それが現実ですね。ふう(溜息)

大相撲の土俵に女を上げないという問題も再燃しました。相撲協会のメンツをかけた勝ち負けみたいにあおるマスコミも罪があるんじゃないかな。勝負じゃないんだから。

なにも相撲をとらせろといってるわけじゃないし、「大阪府の首長が賞を出す」という決まりに男女の規定はないので、ここは相撲協会が譲るべきだと思います。

表彰式は土俵の上でなくてもいいし、優勝力士へのインタビューを支度部屋から土俵下へ変えたのなんか、融通をきかせてるのにね。

そもそも、伝統、伝統というけれど、「伝統」なるものには、たいてい金と力と地位がセットになってるものじゃありませんか? ほんとに伝統を守りたいのか、それとも自分のもってる特権や利益を守りたいのか、そこのとこ、えらい人にはよっく考えてもらいたいもんです。

ところで、女と男の問題、もう一つ。芥川賞の藤野千夜さんは女装の男性ですね。ヨーロッパのどこかの村で、性転換した村長の去就が問題になったこともありました。たしか、この村長は住民投票の結果、辞めることになったはず。

で、最近、アメリカの経済学教授で50歳を過ぎて女性になった人の回想録を読みました。この人、ちょっと女性的なるものに幻想を抱いているような気がしました。「女性である」こと、すなわち「美しい」とか「優雅で上品」とか「やさしい」だけではないんだけど。性転換した後も、女性の経済学教授として教壇に立っているそうです。女性並みに給料カットされたのかどうかは知りませんが。

そんなふうに「男→女」の例は現実でよく見るのに、「女→男」の例がまだ水商売とか芸の世界だけにしか見られないのはなぜかな? 男から女への転身は社会的階層のレベルを一段下がることで、本人が望めばそれは特権を捨てることとしてしぶしぶ認めるが、その逆は上がることなので、もちろん男社会に仲間入りなんかさせない……ということか。

漫画では、名作「リボンの騎士」から「ベルばら」のオスカルまで、カッコイイ男装の麗人がいっぱいいるのにね。

ところで、性転換したあの村長さんは土俵に上がれるのでしょうか?



「きょうこのごろ、とりとめなくご報告」  2000.4

 『ジョセフィン 虹を夢みて』の前田美波里さん、かっこよかった!レビューの世界を描いているだけに衣装がハデハデ。スパンコール、羽根飾り、レース、タイツ、もちろん「バナナのスカート」も。歌ありダンスあり、しかも伝記仕立てという構成がとてもユニーク。ジョセフィン・ベーカーの生涯をミュージカルにして見せるというアイデアは最高です。

もっともっと、いろんな人の生涯をお芝居で見てみたい。

 ジョージア・オキーフ、マタハリなどもドラマになりそうです。カポーティやウォーホルは、アメリカではすでにステージ化されているらしい。舞台といえば「グレート・ギャツビー」がメットでオペラになったとか。観に行きたい!

 しかし、周囲の客席でみんながプログラムを開いて私の対談を読んでいる(わけではないのだが、そう感じてしまう自意識過剰)のにはマイッタ。

 このごろ仕事のBGMは、フィリッパ・ジョルダーノ。最初甘ったるいかなと思ったけど、じつは巧くて、聴きあきず、気に入ってます。ミュージカル歌手のサラ・ブライトマン(アンドリュー・ロイド・ウェッバーの奥さんだったんですね)がアンドレア・ボチェッリ、ホセ・クーラとデュエットしている time to say goodbye も美声。ボチェッリが甘く、クーラがワイルドで、おもしろいコントラスト。

 あまり人には言いたくないのだが、まだデビューして浅い日本の若者バンド(名は秘す)も気に入って、インターネットのホームページまで見に行っちゃいました。友達にそう話したら、そこの娘さん(12歳)もそのバンドのファンなんだって。

 仕事は「our baby, ourselves」という進化生物論的に見たヒトの子育てについての本を訳了、入稿。「愛の魔力」の著者メレディス・スモールの第2弾。「赤ちゃんはなぜ泣くのか」「添い寝の勧め」「アメリカ式育児の欠点」など、すっきり「目からウロコ本」です。

 じつは今年はリフレッシュ休暇のつもりだったのです。翻訳を始めて15年になるしね。運転の練習をしてペーパードライバーを返上し、ダイビングのCカードをとり、勉強したいこともあって……と思っていたのですが、やっぱりそうもいかなくて、休暇は来年に繰り延べかな?



おかしな男  2000.5

 『おかしな男 渥美清』小林信彦著。新潮社のPR誌「波」に連載していたあいだ毎月楽しみに読んでましたが、本になったのでさっそく買って、一気読み。

 渥美清の声やしぐさがありありと蘇る。思い返すと、小林信彦がNHKの「夢で遭いましょう」にちらっと出演して、「ギャグ」について説明するシーン、見てたんですね(いっとくけど、見てたのは子どものころ)。思いだして、回顧モードになってしまった。

 まあ、東京オリンピックを覚えている世代だから……いや、その話はさておき(年齢不詳、年齢不詳!)、背景に出てくる東京の風景が懐かしい。

 原宿コープ・オリンピアの地下にあった「杉の子」、六本木のアントニオ。いま、セントラル・アパートも取り壊されたんですよね?

 オリンピアの地下、いま南国酒家になっている場所にスーパーがあって、会社帰りに買い物したり、もっと図々しくなると、昼休みに買い物して、買ったものを職場の冷蔵庫に入れておいたりしたものです(職場はセントラル・アパートにありました)。

で、そのオリンピアのスーパー入口にドラッグストアがあり、そこでルートビアが飲めたのです。ちょうどカポーティ『冷血』の邦訳が出た当時で、この2人組の殺人犯がルートビアを飲む!

「ルートビアってなに?」ビアというからビールみたいなものかと思ったら、薬くさくて甘ったるいコーラのような飲み物でした。ジャンクフードと犯罪ってやはり結びつくのでしょうか。いささか短絡的にすぎる?



貧乏とゲイの世界で頭がぐるぐる  2000.6

〈今月の3点〉

・徳田秋声『あらくれ』1915年(大正4年)新聞連載開始
・セオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』1925年出版
・ペドロ・アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』1999年
 【ネタばれ注意!】

新潮文庫が「20世紀の100冊」というシリーズを出している。装丁は無地の上に関連する年号の数字を大きく入れただけのシンプルなもの。この『あらくれ』は藤色の地に新聞連載開始年の1915年という数字が入り、その年の出来事「第1回中学野球大会」「S.F.−N.Y.間に電話開通」と書いてある。しかし、このカバーの下にもう1つのカバーがあることに気づきましたか? 私は初めて気づきました。(私事ながら、この挿画に使われている足袋の版画 、作者の金子邦生(かねこくにお)は私の義弟です。買ってね。)

 この小説は「島」(しま)という若い女性が何人もの男性経験を経て、貧乏をのりこえ、実業の世界で生きていこうとする物語。彼女は気が強く、たくましく、奔放。男まさりの積極的な女性。ところが、当時は女が仕事で身を立てるというのはそう簡単ではない。とくに小学校もろくに出ていない貧しい家の娘である。となると、生きる道は結婚しかない。

 継母に疎まれて出された養父母のもとで、気に染まない男を婿にとらされそうになる。「絶対にいやです」という島に対して、養父母はなんと替え玉作戦に出る。別の男との結婚話を進めておいて、いざ盃というときに相手の顔を見ると、大嫌いな男ではないか! なーんてドラマチック!

 これを皮切りに、彼女の「あらくれ」人生が始まる。缶詰屋、旅館の主人、洋服仕立て屋と男を変えながら、女の細腕で金を稼ごうとする。

 いわば営業ウーマンのはしり、である。どちらかといえば地道な活動は苦手で、何か新しいことを計画し、店を移し、借金をしても思いつきを実践していくのが好きなタイプだ。うまくいけば、女実業家「おしん」になるわけだが、成功するかどうかは小説の最後でもわからない。ただ、男にはもう頼らないという決意とともに、エネルギッシュな活動を暗示する幕切れにはなっている。

 そんな派手好き、パワフルな彼女をさして「あらくれ」といっているわけだ。しかし、まあ、これが「あらくれ」であるなら、最近のワーキングウーマンはみんな「あらくれ」でしょう。

 大正5年の新聞連載というので、古臭い言葉遣いは当然あり、些と(ちっと)、漸と(やっと)、いいえ真実(まったく)、四下(あたり)、旁(かたがた)など、ルビがないと読みきれない。その半面、エロチック、ステーション、スタイル、コオトなど外来語も見える。

 言葉遣いは古いけれど、継母の虐待、夫の浮気、甲斐性のない男への未練、嫁姑の軋轢、セックスの悩みなど今日に通じる問題も描かれている。ただしセックスについては、新聞小説のせいか書き方があいまい。どうやら、彼女は生理が重く、月経時に寝付くほどの苦しみがあるようだが、性的不感症にも悩んでいたらしい。しかし、そのへんはわざと(?)ぼかされている。
ドライサーの『アメリカの悲劇』をなぜ読む気になったかというと、さあ?なんだか、書棚の本が「読め、読め」といっているような気がしたのだ。ストーリーは映画『陽のあたる場所』(エリザベス・テイラー、モンゴメリー・クリフト主演)で知られているとおり、上流社会に憧れる貧しい青年が、裕福な美女と恋愛したために、妊娠した貧しい恋人を殺すという話。

 しかし、原作は「とにかく長い」。上下2巻で2段組、ざっと計算してペラ(200字)5000枚を超えている! それも後半3分の1は逮捕されてから死刑になるまでに費やされ、また、恋人になる上流社会の美女との関係が始まるのは前半3分の1が過ぎてから。要するに、映画は真中の3分の1を描いているにすぎない。

 『あらくれ』と『アメリカの悲劇』に共通するのは階級の差、貧富の差が厳然とそびえる社会だろう。それに教育のない庶民が出世したいと思ったときの壁の高さ。そして、その壁の存在に気づいた人間の無力感である。何も考えずに地べたを這いまわるような暮らしをしていれば、まだしも心の安定が得られたのかもしれない。それは主人公の青年クライドの母親の姿であり、『あらくれ』の小野田の父親の姿である(島は父親が「無智な顔をして畑から出てくる汚いその姿を見たときには……慄然(ぞっ)とするほど厭であった」)

 未婚の妊娠がなぜこれほど重苦しくのしかかるのか、上流社会への憧れがこれほど強いのか、今となってはわからないかもしれない。街角で子供連れで賛美歌を歌い説教をする伝道師の家族の貧しさを恥じるクライドの気持や殺した女をかわいそうだと思うより先に逮捕される姿を人に見られたくないという虚栄。ドライサーのしつこいしつこい描写もあいまって、気の弱いクライドに感情移入できる部分も少しはあるのだが、やはり徹底的な道徳観の欠如に憂鬱な気分になってしまう。死刑囚監房の陰鬱な描写は、最近見た『グリーンマイル』どころではなく、滅入ります。
そして、『オール・アバウト・マイ・マザー』。この映画は現代を舞台にし、貧しさも階級差もテーマではない。しかし、社会のメインストリームから外れた人々(かつては貧乏人や女がそうだった)を描いている点で共通するかもしれない。

 17歳の息子に母親マヌエラがプレゼントするのはカポーティの『カメレオンのための音楽』。そのとき、作家志望の息子は「はしがき」の一節を読みあげる。 「8歳の頃から書き始めた……ぼくと同じだ」 この17歳の少年(直後に死んでしまうのだが)のみずみずしい表情、まっすぐな視線が作品全体を貫いているがために、後半の夜の世界や悲惨な病のすべてが清められるような気がする。その一方で、日本の5月に人の生命を奪った(奪おうとした)大勢の17歳のことを思った。

 カポーティはゲイである(おまけに、「アル中でヤク中で、そして天才」でもある)。また、映画の中に何度もとりあげられる芝居『欲望という名の電車』の作者テネシー・ウィリアムズもゲイ(カポーティとは同じ南部出身で親しかった)。もう1作、ちらっと出てくる舞台はガルシア・ロルカの作品で、彼もゲイである。

 豊胸手術をして女装している男たち、彼らを愛した女性、彼らの子供を産んだ女性、レズビアンなど、セクシャリティにおける逸脱に加え、エイズに感染した尼僧、贋作者、娼婦、ドラッグ中毒など、「普通」でない人たちの群れとゲイの作家たちを関連づけるのはあまりにも短絡的かもしれないが、少なくとも何らかの意図があって選択されたと思ってもいいはず。

 ではタイトルに関連する『オール・アバウト・イブ』(邦題『イブの総て』)はどうなのだろう。落ち目の大女優マーゴ・チャニングを演じたベティ・デイビスも、嘘をついてのしあがる新進女優イブ(アン・バクスター)も、ストーリーそのものも、ゲイとの関連はない。ここでは、むしろ「演じること」の毒と蜜が言及されているのだろう。

 イブは確かにいやな女だが、マーゴが大女優にのしあがるについても同じような足の引っ張り合いがあったことがほのめかされているし、最後にイブの付き人になる若い娘も同じ道のりを暗示している。セクシャリティと並んで、『オール・アバウト・マイ・マザー』のもう1つのテーマは「演じる」こと、そして「それに人生を賭けた人たち」なのだ。

 テネシー・ウィリアムズとガルシア・ロルカは劇作家だが、カポーティも舞台を愛した人で(『草の竪琴』『我が家は花ざかり』は自分の手で戯曲化している)、ハリウッド映画のシナリオも書いている。それにもまして、彼は即興の、あるいは考えぬいた演技をしながら一生を送った人間のように思える。雪のようなブロンドの髪でにっこり笑っている幼いときの写真から、ロサンゼルスの友人の家で客死するまで、ずっと。

 演技者とは、いわばまっとうな社会から外れた人々(河原者)の代表なのかもしれない。演技者であり、しかも、女性やゲイという二重の意味で除外された人たち──アルモドバルがそんな人々に捧げた映画、それが『オール・アバウト・マイ・マザー』だ。アルモドバルは演技をする(素人の即興も含め、子供に物語を聞かせる母も含め)すべての人々を自分を産んだ「母なる者」として見ているのではないだろうか。



美しい五十代が増えると……  2000.7

 化粧品会社のCMで「美しい五十代が増えると日本は変わるかもしれない」というコピーがあった。エリカ・ジョングは『五十が怖い』Fear of Fiftyという本を書いている。日本を変える美しい五十歳になるか、それとも怖がるか。どうしよう。つい最近、目にした五十歳の女性3人。

 NHKの朝の連続ドラマ「私の太陽」に出てくる星小百合は小学校に務める栄養士。五十歳の誕生日を迎えたが、独身で恋人もいない彼女はたった一人のバースデーパーティ。未婚の母である主人公のなずなに嫉妬や羨望を抱いて、いじけたり、意地悪をしたり。

 趣味はフラメンコだが、狭いアパートで練習するのが近所迷惑。大家と年下の教師だけが話し相手という、いわゆる「オールドミス」の戯画化。

 しかし、日本の独身女性なんて、だいたいがこんなもんじゃないの? 仕事があって趣味があって、同僚には年下の男もいたりして。そう悪くない……と思えるんだけどな。

 演じるあき竹城はけっこうかわいいし、ね。

 『私の中のもう一人の私』(ウディ・アレン監督)に出てくるマリオンは哲学教授。熱烈な恋愛で結ばれた夫がいるけど、ちょっと倦怠期。哲学書の執筆に負われている五十歳。

 彼女のこんなセリフがある。
「三十になったとき、[年をとることが]ぜんぜん平気だった。四十になったらショックだぞと人に言われたけれど、四十のときも平気だった。人は五十こそ、と言ったわ。そしたら、本当にそうだった」
 彼女は中年の惑いにどっぷり。既婚者だった夫を前の妻から奪ったときのいきさつがよみがえり、その夫が若い女と浮気をしていることがわかる。子供を産まなかったことが急に悔やまれてくる。何か大切なことをし残してしまったような気持。そして、ついには見知らぬ女性から「ふと気づくと人生が空っぽだとわかったかわいそうな人」と言われてしまう。周囲の人すべてに見放され、荒涼たる心の風景の中をさまよううち、ある思い出がよみがえって一種の救いが得られる、というストーリー。

 演じるのはジーナ・ローランズ。スマートで、知的で、洗練されている。服装も黒いタートルネックのセーターにトレンチコートとかね。髪の毛もひっつめ。でも、きれいです。

 もう一人の五十歳は山本文緒『群青の夜の羽毛布』に出てくる「母親」。名前がなくて、終始、「母親」とか「お母さん」とだけ呼ばれている。そういえば、それって「母親」の本質をついているかも。「○○ちゃんのお母さん」で片付けられること、多いですもんね。まあ、男も「社長」か「先生」で片付けられるっていうし(ちょっと違うか)。

 このお母さんはとんでもない女で、娘に暴力はふるう、心理作戦でいじめる、あげくのはてに恋人を寝とってしまったりもする。五十歳でねー。「ちょっとジョージア・オキーフみたいで色っぽい人」なのだ。

 うーむ。ちょっと尋常じゃない人という設定ではあるが、普通なら相手が二十五歳も年下の男だったら、少しはためらうんじゃない? いろんな意味でね。「いやはやなんとも」ってな、年寄りくさい溜息が出てしまう。

 この三人ともばりばりのワーキング・ウーマンであることが共通してます。ちなみに母親は教師ね。おーそういえば栄養士の小百合も学校勤めだ。

 というわけで、これからはやっぱりワーキング・ウーマンの五十代よね! という単純にして、自分勝手な結論に達したのでした。 





『婦系図』  2000.8

 『婦系図』泉鏡花、1907年新聞連載。新潮文庫20世紀の100冊

あいかわらず、過去の名作を読んでいます。
お蔦・主税の湯島の別れ、「別れろ切れろは芸者のときに──」のセリフでおなじみ『婦系図』(おんなけいず)を読みました。以下、ネタばれあるので、要注意!

いやー、こんな話だとは知りませんでした! びっくり! 上の有名なセリフ、出てこないんですね。

冒頭はお蔦の描写ですが、これが、あだっぽくて若々しくて、かわいい。

素顔に口紅だけで十分にきれいな芸者あがりの娘。20歳くらいに見えるけれど、23歳。着物に懐手をして、銀杏返し、真っ白な歯をこぼして、無心にホオヅキを鳴らしている。すると、溝の中のカエルがホウヅキの音に合わせて、コロコロクウクウと合唱する……いいですね!

主税は27、8歳。早瀬主税の職業、知ってました? ドイツ語の翻訳者! しかも、翻訳者になる前の職業(?)はなんだったと思う? ここは肝心なところなので、やっぱり伏せておいたほうがいいですね。でも、言いたい!(知りたいかたはメールください)

「師をとるか、女をとるか」という人情話かと思っていたら、どんどん別の方向へ話が進んで、悪漢小説みたいな趣に。主税という男はけっこなワルなのです。イメージ違ったなー。それに、この「師をとるか」の師って、尾崎紅葉がモデルとされていますが、鏡花よりたった6歳上。解説によれば、紅葉だけでなく、複数の人物がモデルだということですが。

お蔦が無理やり別れさせられ、病気で死ぬシーンは『椿姫』のビオレッタを思わせます。かわいそう。しかし、主税のかわりにお蔦を抱いて、「オレを主税だと思え」っていう先生もねぇ。ちょっとどうかと思う。口移しに薬を呑ませたりしちゃって。

タイトルだけ知っていて、中身も知ったような気分になってしまうことが多いのですが、いざ読んでみると、いろんな発見がありました。だから読書はやめられない!

最後のほうに印象的なシーンがありました。先生の娘の妙子がお蔦の形見の髪のひと房を主税に届けるのですが、それを自分の髪の中に結いこんで持ってくる。そして、主税に元結を切らせて、中から髪の房を出す。ちょっと不気味というか、凄絶というか、泉鏡花らしいイメージではあります。

そして終幕、「日蝕」という章ですべてが崩れていくのですが、日の翳ってゆく様子とあいまってゾクゾクと怪しく、美しい。

たまたま、この本を読みおえた夜は、長い月蝕がありました。



性転換  2000.9

53歳で男性から女性へ性転換した経済学教授の回想録を翻訳中。子供のころから女装癖はあったものの、それ以外は男としてごく普通に生きてきた人。結婚して子供も2人いる。ところが、子供が大学に入って家を出たのをきっかけに女装の趣味がこうじ、ついに性転換に踏み切る。本人もただの趣味だと思っていた女装が、じつは根強い願望だったことに突然目覚めたのだ。こういうこともあるんですね。

 目覚めたとたん、2年くらいのあいだに、女装からホルモン療法、美容整形、声帯手術、そしてついに性転換手術へとものすごいスピードでトランジション(移行)してしまう。

 その決意のかげにはインターネットの存在が大きい。女装趣味のクラブもネットで検索して見つけた。性転換の希望者や体験者と知り合ったのもBBSだった。世間に自分と同じような人がいると知ったのが、大きな励ましになったのだろう。トランジションの速さもネットの世界があればこそ。

 このスピード感覚はインターネットやパソコン通信を経験した人なら実感できるだろう。メールやBBSのやりとりはとてもテンポが速い。手紙でやりとりしたり、じかに会ったり、電話で話したりする以上に濃密で(錯覚かもしれないが)、しかも親しくなるまで(それも錯覚?)の時間が速い。だからネットの恋愛はすぐに成立し、結婚や情事に発展することも多いらしい。(冷めるのも速い……?)

 それはさておき、夫が性転換すると言い出して驚いたのは妻である。それまで、性転換願望などまるで見せず、女装はただの趣味だといって、家の中でひっそりドレスを着ていただけなのに! 趣味なら、まあ大目に見るかと思っていたのに! 妻は、驚き、あきれ、やがて腹を立てる。まあ、当然でしょう。

 彼(彼女?)は妻に、「愛しているなら理解してくれるべきだ」というのだけれど、それはちょっと身勝手というもの。女性であることが本人にとってそんなに(性転換するほど)大事なら、妻にとって夫が男性であることも同じくらい重要なはず。男女の自覚は社会や文化によって決められるという説もあったが、最近は脳の深いところで決定されるという説が優勢のようだ。それにしても、性差の表現、つまり服装や態度や趣味は、社会や文化によって構築されてきたものではないのかな? 考え出すと、頭がぐるぐる!

 それにつけても、前に『プラスチック・ビューティー』(エリザベス・ハイケン、平凡社)を翻訳したときにも思ったのだけれど、アメリカ人にとって、もはや美容整形手術に対する抵抗感なんてまったくないんですね! しかも、改名手続き、免許証やパスポートの性別変更も手続きさえふめば可能だそうです。性転換手術にまで個人の自由と権利を主張する「幸せ追求」への貪欲さには、あきれると同時に感心してしまう。

 配偶者や恋人が現在の性とは反対の性になるといいだしたら、あなたは変わらずにその人を愛することができますか?

トルーマン・カポーティに捧げる

   〈ホワイトスノウ・プレート〉
 2000.10

トルーマン・カポーティに捧げる〈ホワイトスノウ・プレート〉

アペリティフ:ウォッカの洋ナシジュース割り
前菜:ホワイトアスパラ
パスタ:ほそーいパスタ(エンジェルパスタ)にたっぷり粉チーズ
メインディッシュ:ささみと白身魚のホイル蒸し
サイドディッシュ:マッシュポテト
サラダ:ホワイトマッシュルーム、エンダイブのフレンチドレッシングあえ
デザート:バニラ・アイスクリームにメレンゲ添え、金箔載せ(好みでビターチョコレートソースをほんの少量)

トルーマン・カポーティはウォッカが好きだった。ウォッカはウィスキーと違って匂わないので、昼間から飲んでいても人にわからないから。だけど、そんな小細工がきくわけもなく、晩年のカポーティは昼間からべろべろだったらしい。

カポーティはよく引用される作家だ。アルモドバルの『オール・アバウト・マイ・マザー』でも『カメレオンのための音楽』からの一節が引用されていた。先日タイ映画『69』を見たら、そこにも『カメレオンのための音楽』からの引用が。「プレゼントを与えられた人間は、一緒に鞭も受け取らなければならない」という言葉。もとは「天から才能を授かった人間は、その才能とともに鞭も受け取る。おもに自分を叱咤激励するための鞭である」という文章だ。
カポーティは自分を鞭で厳しく叩く辛さに耐えがたく、酒とドラッグに溺れた。しかし、鞭から逃れることはせず、十分に自らを叩き、すばらしい傑作を世に残した。私たちはよく「自分にもっと才能があればいいのに」と嘆くけれど、天才には天才の辛さや痛みがあるにちがいない。

カポーティの少年時代の写真。真っ白な肌に金髪、カメラに向かってにっこり笑っている。まるでクリームのように甘くて無垢な、愛すべき少年。晩年ブルドッグにたとえられたカポーティではなく、南部の田舎町に天から降り立った天使のようなイメージで、白い食材だけを使ったカポーティ・メニューを考えてみた。

アペリティフからウォッカは強すぎるかもしれないが酔いすぎないように! カポーティがウォッカを割ったのはグレープフルーツジュースやオレンジジュースだったけれど、白っぽくするために洋ナシのジュースを使ってみた。

前菜のアスパラガスはスープにしてもいい。カポーティは秘密のレシピといってアスパラガスだのなんだの、ごっちゃにフードプロセッサーで混ぜたものを友人に食べさせて自慢したそうだが、食べさせられた友人は「ありきたりのスープだった」とそっけない。

パスタも白っぽいものを使うこと。冷麦かそうめんで代用してもいいかも。そのときは、チーズではなくとろろがけでもいいかな。和食のほうが白い素材は多い。豆腐とかご飯とか。でも、やはり和食ではカポーティのイメージに合わない。

メインディッシュは銀色のホイルの中に白いチキンと魚。味付けは塩胡椒のみ。胡椒はもちろんホワイトペッパー。銀色のホイルはカポーティの親友だったアンディ・ウォーホルのトレードマークでもある。カポーティのほうは、アンディを親友というより、自分を追い掛けまわす熱烈なファンだと見下していたかもしれないが。

カポーティはウォーホルにも「手料理」と称するものをふるまったが、ウォーホルはゴミ箱の中に捨てられた包み紙などをあさって、「あれはレストランから取り寄せたんだよ、第一オーブンがぜんぜん熱くなってない」なんて……どっちもどっちだ!

サラダは白い食材なら何でも可。りんご、セロリ、たまねぎ、カッテージチーズも使えそう。

デザートは少年時代のカポーティそのまま。真っ白で甘いバニラ味のアイスクリームに、ふんわりしたメレンゲ。金髪のかわりに金箔のかけらをそっと載せて。ついでに、彼の内面の悪魔のような魅力をあらわすためにビターチョコレートをほんの1滴垂らそうか。白と黒。そういえば、そういう名前の大パーティを主催したのもカポーティだった。



カンフー・ボーイ  2000.11

ちかごろ夢にまでペンキ缶が出てきて困っている。というのも、おえかきソフトにハマっているからだ。べつに特別なソフトではなく、ウィンドウズ98のアクセサリに入っている単純なペイントソフト。

マウスを使って線を引くのは、コツが必要でなかなか難しい。ところで、手で描くのとは大違いの特徴がペイントソフトにはある。それは図形の中をいっぺんに色づけできる通称「ペンキ缶」の機能だ。(通称といっても、私が名づけただけだが)

一瞬にして色がむらなく塗れ、しかもどんな色にも変換できて、とても便利なのだが、唯一欠点がある。ラインに欠けがあると、そこからどっと色がはみ出してしまうこと。たとえば、カンフー・ボーイを描いたこんな絵。



 この絵の髪の毛に黒で色をつけると……  髪の毛のラインに切れ目があったせいで、こんなふうに。


これで焦って心臓がドキドキしてしまうのだ。なーに、編集の「元に戻す」をクリックすると、あっというまに図1へ戻るのだが、それがわかるまでは大変。いちいちショックを受けていた。心臓に悪いったらありゃしない。

そんなわけで、一時は夢の中にまでペンキ缶のアイコンが登場する始末。どうも困ったものです。まあ、それはそれとして、この年齢になっても心臓をドキドキさせてくれるコンピューターって楽しい!



で、完成作はこちら。カンフー・ボーイ



言葉について
 2000.12



新聞の文芸時評欄で「閉そく感」という表記を見た。この漢字・ひらがなの混在はちょっとどうかと思う。しかも、文学作品について論じた欄だ。小学生新聞ではあるまいし、「閉塞」くらい漢字で書いてもいいのではないだろうか。そそっかしい人間(私だ)は「閉クソ感」と読んだりして。「いったい、こりゃなんだ? 便秘か? 」なんてね。

「とん挫」「ら致」も見た目が変だ。「とん座」って、豚が坐りこんでいる情景を思い浮かべませんか? 「社長ら致される」ん? 複数の社長がなにを「いたされた」のか?

前にも書いたが、翻訳でよく見かける「最も……のひとつ」が私は気に入らない。しかし、最近は翻訳らしい雰囲気を出すために意図的に使う人もいるようだ。それはそれで個人の趣味だからかまわない。とはいえ、とびきり文章のうまい人が翻訳らしい雰囲気を出そうというのならいいけど、普通の翻訳者の場合、ちょっと気を抜くとすぐ翻訳文体になってしまうのだから、あえて意図して翻訳らしさなど出さなくても十分だと思うんだけどな。

「可能性」という言葉も要チェック。字面からして、ポジティブな意味か、あるいはニュートラルな状況に使うのがふさわしいと思う。ネガティブな事柄に「可能性」は合わない。たとえば「火山が噴火する可能性がある」は対象が自然状況でニュートラルだからオーケーだが、「火砕流が人家をのみこむ可能性がある」はひっかかる。これは「恐れがある」でしょう。

宮城谷昌光の古代中国物の小説を読んでいて思うのは、漢字とひらがなの使い分けの巧みさ。ご承知のとおり、宮城谷氏の小説には難読漢字が山ほど出てくる。そもそも人名が読めないし、地の文章でも「笑貌(しょうぼう)」「趨走(すうそう)」「慍(む)っとした」「哂(わら)う」「諮(と)う」といった独特の漢字が使われている。そのかわり、「しめす、さわる、つかう」などの動詞、「おもい、ことば、からだ」などの名詞はひらがなだ。そのせいでページが真っ黒にならず、とてもよいバランスを保っている。作家が用字用語にどれだけ気をつかっているかの証拠だろう。

翻訳教室で教えていたころ、よく用字用語についてどうすべきか聞かれたが、すべてに通用するルールはない、というのが答え。新聞には新聞の用字用語があるし、単行本と雑誌ではまた違う。ルールは自分で作るしかない。人の文章をたくさん読んで、それぞれのルールを見つけ、よいものは参考にしてとりいれ、自分の好みに責任をもち、自分なりのルールを作ったらそれをしっかり守る。そのルールがよいか悪いかの判断は編集者や読者がしてくれる。

なによりいけないのは、言葉について意識さえしないことだろう。それではアマチュアといわれてもしかたがない――と、少々酷なことをいうようだが、これは誤訳、勘違い、妙な文章を書いた経験山ほどありと自覚する私の自戒でもある。

ところで、この「酷」という言葉、中国語では cool の意味だそうだ。「非情で冷たい」と同時に「カッコイイ」の意味も、酷にはあるという。じつに奥が深い「ことのは」の世界!