早春の水仙――ヴァージニア・ウルフ
2001.1
| なんとなくヴァージニア・ウルフのことを考えていた。彼女にはどんな花が似合うかな、と。早春にもっとも早く花を咲かせる水仙。そう、彼女には水仙の花がよくにあう。
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 ヴァージニア・ウルフの水仙
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まだひんやりと冷たい空気のなか、水辺にひっそりとたたずみ、さわやかな香りを放つ白と黄色の水仙。面長で、ほっそりした体型のウルフにふさわしい。
評論集『私だけの部屋』が出版されたのは1929年だから、1882年生まれの彼女はそのとき47歳。女性だってわずかな額でも自分の手でお金を稼ぐこと、そして自分一人になれる部屋をもつことが必要だといったウルフ。これは現代の女性にも通用する。
おおげさなフェミニズム思想をふりかざさなくても、自分で稼いだ自由に使えるお金があるのは気分がいい、というのは誰にでもわかることだ。それに、たまには一人きりで自分と向き合うことも大切。通信手段があまりにも便利になりすぎて、四六時中だれかとつながっていなければ不安になる……そんなの、ちょっとおかしい。フェミニストのカミール・パーリアも言っているように、「すぐれた仕事が生まれるのは、自分の部屋でたった一人で過ごす時間の中から」なのだ。私もあまりインターネットに依存しないように気をつけなくちゃ。 |
ウルフといえば、翻訳学校で講師をしていたときのことを思い出す。授業で使うテキストをあれこれ探すのが楽しかった。一度――無謀にも――『ダロウェー夫人』の冒頭の一節を使おうかと思ったことがある(じっさいには使わなかったけど)。日本語と違って英語には必ず主語があるという常識を裏切って、心の中の独白で文章が綴られてゆく。たゆたうような思いの移り変わりが読んでいて気持いい。
しかし、これが自然だと思えるのは日本人ならではの感覚かもしれない。西欧では「意識の流れ」という技法は画期的な考案だったんだものね。日本語の文章、とくにエッセイなどはもともと「意識の流れ」スタイルだから、流れるようにすらすらとその世界に入りこめる。
そういえば「流れる」で思い出したが、幸田文の代表作『流れる』が「主語なし」日本語の典型だといわれている。書き出しは、主人公がある家を訪ねていく場面で、「たしかこのあたりだったはず」というような心の中のつぶやきで始まる。
意識の流れは日本人にとっては当たり前のことなのかな。だからこそ、どんな文章にもきちっと主語が入る英語をいかに日本語らしくするかが翻訳者の腕のみせどころなのかもしれない。
もうひとつ例外を思い出した。英語でも「主語なし」ありました。日記の文章。『ウォーホル日記』を翻訳したとき、のっけから「Went to どこそこ」という表現が出てきてめんくらった。動詞が頭にくるのは命令形、なんて学校の授業で習ったっけ。もちろん、これは主語の「I」を省いてあるわけですね。
ウルフの話から脱線してしまった。インパクだ、ミレナリオだ、と浮かれ騒いでいる現代日本。こんなとき、イギリスの肌寒い早春、水辺に立つヴァージニア・ウルフの姿でも思い描いたら、浮わついた心も落ち着くだろう。彼女は1941年3月28日入水自殺をした。どこまでも水がつきまとう。
さあ、花屋さんへ水仙の花でも買いに行こうかな。1月25日はヴァージニア・ウルフの誕生日。
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スタイン家の子供たち 2001.2
翻訳の苦労といえば、難しい長文を読み解いたり、誤りのないわかりやすい日本語を書いたり、異文化の習慣や考え方のギャップをどう表現するか悩んだり、といったことを連想するかもしれない。
ところが、中学生でも知っている簡単な英単語にぶつかって、うーんと頭を抱えてしまうことがよくある。プロの翻訳者なら必ず一度か二度は経験しているだろう。
それは「brother/sister」という言葉だ。兄弟姉妹――簡単な言葉だが、これが厄介。兄か弟か、姉か妹か、これが日本語では大問題。
作家のガートルード・スタインは両大戦間のパリで芸術家や作家を招いたサロンを主催し、ピカソをはじめとするモダンアートを支援し、文学ではヘミングウェイなどの作家に「ロスト・ジェネレーション」という名前を与えたことで知られている。 (両大戦間とは、第一次世界大戦と第二次世界大戦にはさまれた一時代をさし、1920年代ヨーロッパの爛熟した文化がその時代の特徴である。)
このスタインには、レオとマイケルという「brother」がいる。兄か弟か、ここで頭をひねる。 her brother Leo と原文にあったら、「彼女の【兄弟】レオ」とは書けないではないか! 答えをいってしまえば、2人とも兄なのだが、それをつきとめるのも翻訳者の仕事の1つというわけ。
そこで、自分の興味のある人たちについての伝記的記述がなされている本を見かけると、つい買ってしまうことになる。ガートルード・スタインの場合も、"Gertrude Stein In Words and Pivtures"edited by Renate Stendhal, Thames and Hudson 1995 という本で調べることができる。
この本によると、スタインの両親はおもしろい人で、子供は5人つくろうと最初から決めていたそうだ。そして、その決意どおり、5人の子供をもうける。上から、マイケル、サイモン、バーサ、レオ、ガートルード。なるほど、ガートルードは末っ子だった。
マイケルとレオ、それにガートルードは美術愛好家で1920年代の芸術家の作品を買っていたようだ。結局、パトロンとして名をあげたのはガートルードだけだが、最初はレオが妹の指南役だったらしい。レオはイサドラ・ダンカンのダンスを後援したりもしていた。レオとガートルードがパリで芸術家のパトロンとして高等遊民のような暮らしができたのは、夭逝した兄姉の分の遺産を受け継いだからだという。(この兄姉が誰なのかはわからないが、マイケルの名前はその後も出てくるので、たぶんサイモンとバーサが早死にしたのだと思われる)
ガートルードは1874年生まれで、最初はジョンズ・ホプキンズ大学で医学と心理学を学んでいた。(ちなみにガートルードはまずドイツ語、それからフランス語、そして英語という順番で言葉を覚えたそうだ。)学生時代の写 真を見ると、ふくらんだ袖に、ウェストを絞ったロングスカートという、ごく普通のアメリカ女性らしい格好をしている。ところが、30歳前後にヨーロッパへ移住したあと、1905年頃にはコルセットをつけずに、ゆったりしたガウンのような服を身につけた写真が出てくる。シャネルがジャージー製のスーツを売り出すのは1920年代だから、スタインのコルセット拒否はずいぶん時代を先んじていたことになる。
左:大人2人は家庭教師。 スタイン家の子供たちは左から、 ガートルード、バーサ、サイモン、マイケル、 前で寝そべっているのがレオ。
ファッションだけでなく、彼女の文学作品や、またアリス・トクラスと生涯ともに暮らすというライフスタイルなど多くの点で世間の常識に縛られない自由な考え方をもち、なにごとにつけ一歩進んでいた人なのだな、と思う。
先月、ヴァージニア・ウルフを水仙の花に似ていると書いたが、ガートルード・スタインの場合は花にたとえたりすると怒られてしまいそうな気がしないでもない。それでもあえて連想するなら、梅の花はどうだろうか。ごつごつと黒ずんだ古びた幹に、思いのほか強い香りで、ほかの花がまだ眠っているうちに早々と咲く梅というイメージ。誕生日も、梅の季節の2月3日だ。
ピカソが描いたスタインの肖像画は有名だが、その絵を見たスタインが「あまり似ていない」というと、ピカソは「いつか、あなたがこの絵に似てくる」と答えたという。その言葉を借りていうなら、「いつか時代があなたに追いつく」というのがスタインにふさわしい言葉ではないだろうか。
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グレート・ストーン・フェース
2001.3
雑誌『ニューヨーカー』に40年以上、パリのニュースやゴシップを綴った記事「パリからの手紙」を書きつづけたライターのジャネット・フラナー。
彼女のあだ名は「グレート・ストーン・フェース」女性に対して「大岩顔」なんて、ちょっとひどいニックネームだ。本人は高すぎる鼻が嫌いだったようだ。それに30代からすでに白髪になっていたという。話はとぶけど、ローリングストーンズのビル・ワイマンは「サイレント・ストーン」というニックネームだった。ほかのメンバーとくらべて地味で、目立たなかったから。
1892年、アメリカ、インディアナポリスの中流家庭、三人姉妹の真中に生まれたジャネットは、20年代にパリへ移住し、ジョゼフィン・ベーカーのパリ・デビューのステージや、マタハリのストリップダンス、ガートルード・スタインのサロンのニュースや、シルビア・ビーチのシェイクスピア書店の最新刊(ジョイスの「ユリシーズ」も含め)についてのニュースをアメリカに伝えつづけた。
パリでは、同じくライターの女友達、ソリータ・ソラノといっしょに暮らし、イギリスの名家のお嬢さまナンシー・キュナードとも仲良しだった。この3人は、自分たちを3本足のスツールと称してパーティを楽しみ、文学論を戦わせた仲。アル中でぼろぼろになった晩年のナンシーは、パリのソリータとジャネットの家にころがりこんだこともあった。(私の訳書『ナンシー・キュナード』河出書房新社刊にくわしい)
イラストでジャネットがかぶっているのは、ナンシーの父親のものだった山高帽。ナンシーの父親は、大西洋横断汽船航路を築きあげ、その功労を認められてサーの肩書きを授けられた人。ジャネットはこの帽子が気に入っていて、パーティによくかぶっていったそうだ。
ジャネット、ソリータ、ナンシーという3人の女性は、みな一度結婚したことがあり、「3人の既婚女性」と称してもいた――どの結婚も長続きしなかったのだけれど。
ジャネットとソリータは1種のパートナーだった。ジャネットは若いころから男性よりも女性への性的志向を意識していたという。ガートルード・スタインとアリス・B.トクラスの例でもわかるように、パリはアメリカにくらべてずっと寛容だった。
パリっ子たちは、マタハリがジャワの王族出身だとホラを吹いても大目にみたし、ジョゼフィン・ベーカーの黒い裸に熱中した。レズビアンやゲイなど、当時の社会の規範から外れた人たちも、アメリカとは違って、パリではもっと楽に生きられたのだ。
20年代のパリのアメリカ人はロスト・ジェネレーションやジーン・ケリーの映画で有名だが、それほど有名ではない人たち、とくに女性たちにとっても居心地のいい場所だったにちがいない。好きな場所で、好きな格好をして、自分で金をかせいで、好きな相手と暮らせる。それって、すごく幸せなことなのだよ>いまの若者たち!
当時、女性が結婚しても旧姓のままでいられるよう主張する運動があって、ジャネット・フラナーやソリータ・ソラノも参加していた。もうすぐ100年にもなるというのに、日本ではいまだに既婚女性の旧姓使用が認められないとは!
ジャネットは、フェミニストで、レズビアンで、ずけずけものをいう、岩のように峻厳な顔をした女性だった。そういう女性の記事を何十年も載せつづけた『ニューヨーカー』という雑誌もすごい。
最近読んだ『「ニューヨーカー」とわたし』(リリアン・ロス著、新潮社)は同誌の編集長と女性ライターの40年におよぶラブ・ストーリーなのだが、雑誌「ニューヨーカー」の魅力もよく描かれている。この本にも、ちらっとジャネット・フラナーが出てきてうれしかった。ジャネットはリリアン・ロスの顔を見るたびに「アーネストはごろつきよ!」といったそうだ。アーネストとは、もちろんヘミングウェイのこと。「パリ通 信」をまとめたものは『パリ、イエスタデイ』(白水社)として邦訳が出ている。
Brenda Wineapple によるジャネット・フラナーの伝記『Genet』(ジュネというのは彼女のコラム「パリ通 信」に使われたペンネーム。Janett フランス語読みとして、『ニューヨーカー』編集長のハロルド・ロスが命名したとのこと)によれば、彼女の父親は葬儀屋で財を築いたが、病気を苦に自殺したという。父親の自殺によって一家に金が残り、ジャネットがパリで暮らすことができたのも、その金があったからのようだ。
ジャネット・フラナーの誕生日は3月13日。
牡羊座の女 2001.4
チンパンジーを抱く ジェーン・グドール カレン・ブリクセン 『セックス、アート、アメリカンカルチャー』 『性のペルソナ』 |
ヒッキーって言葉、知ってる? 宇多田ヒカルのニックネームでしょ? それが最近じゃ「ひきこもり」を称して「ヒッキー」というらしい。
パラサイトといい、ストーカーといい、セクハラといい、ひきこもりといい、命名することによって存在が確認されるという風潮がますます顕著になってきているようだ。なんだか、昔もそんなことがあったんじゃない? たとえば、オールドミス、行かず後家、石女なんて……ちょっと違う? それぞれ事情があるにもかかわらず、一括でまとめちゃってるところは共通 すると思うんだけどな。アバズレ、ビッチ、フラッパーなんてのもね。ところで、石女って変換できません。そりゃあ、差別 語だもの。
で、ひきこもり。 なんでもかんでも「ひきこもり」で片付けちゃいけません(と思う)。 たとえば、カミール・パーリアという学者は、人に認められない研究をこつこつと続け、大学の講師を続けながら、売れない原稿を山のように書き上げたのに、出版社はどこも出してくれなかった。それでも自信をなくしたりはせず、こんな傑作がわからないなんて、世間の連中は目がないんだ、後世の人間はこれを傑作と認めるだろう、と信じつづけた。その労作がついに本になり、それからマドンナについてのエッセイを新聞に載せたとたん、どっと注目が集まり、テレビや雑誌にひっぱりだこのスター学者になった。
そんなパーリアがこんなことを書いている。 「教授たちは研究をおろそかにして、パフォーマンスやネットワークや自己宣伝に熱中し、ナンパ、売りこみ、愛想のふりまき、仲間ぼめ、むだ話、集団的浅慮にふけっている。真の学際的研究とは、家や図書館での読書と執筆から生まれるものである」
これは昨今の(アメリカの)大学教授をこきおろした一節だが、つねに他人とつながっていなければ安心できない現代人の行動にもあてはまる。昔「ネアカ」という言葉がはやったが、他人の目が気になってしかたがない風潮は、最近の「ランチボックス症候群」や「公園デビューに悩むヤングママ」や「メル友がいないとさびしい」という現象に連綿と受け継がれている。
「なんで人の目をそんなに気にするのか」と思うのは、私がもういいかげん生きてしまった者だから? 孤独を知ることは、人間にとって、とても大切なんじゃないだろうか。何かを生み出すためには1人でいる時間が大切。
ところで、とうとつに占星術の話。4月は西洋占星術でいえば、牡羊座の星回り。先にあげたカミール・パーリア(4月2日生)は牡羊座の生まれだが、ほかにもジェーン・グドール(4月3日生)、カレン・ブリクセン(4月17日生)がいる。
人文学者のパーリア、ケニヤでコーヒー園を運営し、その経験を『アフリカの日々』に書いたデンマーク人の作家カレン・ブリクセン、アフリカでチンパンジーを観察したジェーン・グドール。まったく共通 したところがないように思える3人だが、ひとつだけ大きな共通項がある。それは「1人でいることに耐えられる」ところだ。
パーリアは20年かけて、誰にも支持されないまま、大著『セクシャル・ペルソナ』を書き上げた。カレン・ブリクセンは、知り合いのいない未知の国ケニヤへ移り住み、その土地とそこに住む人びとへの愛を育てた。グドールもチンパンジーのコロニーにたったひとりで住みついて、フィールドワークを続けた。
彼女たちは、世間の目とか、家族の評判とか、まるで気にしていない(ように見える)。私の大好きな俳優のハーベイ・カイテルも言っている。「クリエイティブな仕事は、自分の部屋でたったひとりで過ごす時間から生まれる」って。そう、ヒッキーだっていい……んじゃないでしょうか。 |
パリのアメリカ人(ただし女性)――メアリー・カサット
2001.5
「三人娘」というものがある。たいへん古くはひばり、チエミ、いずみ。ちょっと古くは花の中3トリオ。その後は、よく知らない。
ところで、印象派の三人娘というのをご存知だろうか。知らなくても当然である。いま、私が名づけた。メアリー・カサット、ベルト・モリゾ、エヴァ・ゴンザレスの3人。この3人は、作品もそうだが、どんな生涯を送ったのか、ほとんど日本では知られていないので、よい伝記があったらいつか翻訳したいなと考えている。
印象派の画家で有名なのはほとんど男ばかりだが、この3人のほかにもマイナーな女性の画家が少しはいたらしい。とはいえ、印象派の女性画家として名前が出るのは、ほぼこの3人である。そこで三人娘を連想したというわけ。
ベルト・モリゾ(1841−1895年、54歳の生涯)(左)は、マネの弟と結婚し、マネにかわいがられてモデルもつとめているので、比較的知られているほうだろう。
エヴァ・ゴンザレス(右下)(スペイン語読みすればコンサレス)は1849年生まれ、没年は1883年、35歳の若さである。早く世を去ったこともあって、作品も少ない。
ゴンザレスとモリゾは二人ともフランス人で、マネの弟子となり、印象派展への参加もマネがいわば後ろ盾となった。余談だが、この二人はマネの愛情をめぐって、ライバル意識を燃やしたこともあるという。
それに比してカサット(左下)は1844年5月22日に生まれ、1926年まで生きた。82歳は長命である。彼女だけはアメリカ人で、ペンシルヴェニア州アレゲニー・シティに生まれ、17歳から絵を学びはじめて、22歳のときにフランスへ渡った。美術館でさまざまなスタイルを身につけたあと、28歳でパリに住み着き、ドガと知り合って師事した。やがて、彼の誘いで印象派展に出品するようになる。その後、パリで開かれた印象派展には欠かさず参加した。この絵は、ドガが描いたカサットのポートレート。このときカサットは30代後半から40歳くらいだった。
40歳近くなって、カサットの作風を大きく変えることになったのは日本の浮世絵画だった。大胆な構図や、くっきりした線が特徴で、さらに木版を試すなど、技法までとりいれた。たとえば、カサットの『舟遊び』は男性の背中を前景に入れた大胆な構図が浮世絵の影響といわれている。
カサットは生涯独身を通したのだが、後期の浮世絵風の作品には女性の日常を描いたものが多く、母と子の情景も多い。これについて、日本の美術評論家(男性)は「生涯独身であったがゆえに、母性にあこがれた」みたいなことをいう人もいて、きっとそういう批評家は、かりに彼女が母親であれば、「女性ならではの母性が豊かに表現され」とかなんとかいうんだろう。
それはともかく、カサットは長命ではあったが、老年になってから視力が衰え、70歳以降は絵が描けなくなったという。彼女の師だったドガも晩年は視力を失ったことを思うと、なんだか悲しい。ちなみに、ドガは若いころアメリカで暮らしたことがあり、英語も少しは話せたのかなと思う。エドガーという名前もアメリカ風(?)だし、親戚 がアメリカのニューオリンズにいたらしい。ニューオリンズはフランス移民が築いた街なので、フランス語をしゃべっていたのだろうか。
メアリー・カサットのようなアメリカ人女性が単身パリへ渡って絵を勉強するのって、言葉の問題もあるし、きっと大変だったにちがいない。映画『パリのアメリカ人』では、ジーン・ケリー扮する主人公はアメリカからパリに移りすんだ絵描きという設定だった。あれはとってもお気楽な生活に見えたが、女性だったらああはいかなかったでしょう。それでも、ピューリタン的な価値観のアメリカ中西部よりはずっと自由を満喫できたのかもしれない。
彼女たち3人の数少ない肖像画や、作品を見た感じでいうと、エヴァ・ゴンザレスは官能的で女性らしく、ベルト・モリゾは気が強くて意志の強そうな感じ。メアリー・カサットは地味で、まじめな印象がある。実際はどうだったのかな? そんなことがわかる伝記を読みたい!
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火の鳥に思う 2001.6
ロンドンのロイヤルオペラハウスで、ストラヴィンスキー・プログラムを観た。演目は『火の鳥』『アゴン』『結婚』の3本。
改装されたオペラハウスは正面玄関にギリシア風の円柱が並び、その横に鉄骨とガラスを組み合わせた繊細なロビーがつながっている。ガラスを使って光をとりいれる建築法は1900年に開催されたロンドン万国博のメインパビリオンだったクリスタルパレスの流れをくんでいる。この日の昼間、キューガーデンへも行ったのだが、そこの温室も同じような作りだった。当時は最先端のテクノロジーの精華といわれた建築法だが、いまでも軽やかで優雅、採光も十分で広々とした雰囲気をかもしだしている。地震に強ければいうことなし。
ロビーを吹き抜けにしてぐるりと回りをとりまく2階のレストラン、それに3階のカフェ。カフェからはガラスの窓を通 して外の通りが見える。屋上のテラスに出ると、元市場だったコヴェントガーデンが見渡せる。
ストラヴィンスキーのバレエからの連想で、ロシア出身の画家ナターリャ・ゴンチャローワの図録を買ってきた。
ナターリャは1881年6月21日生まれ。ピカソやレジェと同年、それにバレリーナのアンナ・パブロワも同じ年の生まれだ。
ナターリャはモスクワの南方、トゥーラ区チェルンに生まれ、歴史、動物学、植物学、医学などをかじった末、1901年の秋に彫刻家を志してモスクワ絵画・彫刻・建築研究所に入学。そこで生涯の伴侶となる画家で美術評論家のミハイル・ラリョーノフと知り合った。
当時、モスクワではロシア・アバンギャルド運動がさかんで、ナターリャもアバンギャルドの展覧会に出品するようになった。ラリョーノフはナターリャの才能を評価し、熱心に応援し、共同で作品を作ったり、論文にとりあげたりしていたようだ。やはり、男の支援者というのは、どうしても必要なのだろうか。もちろん、本人に才能があることは大前提なんだけど。
ロシア・アバンギャルドにおけるナターリャの功績は、西洋モダニズムばかりでなく東洋美術にも目を向けたことだった。あるインタビューでは、影響を受けたものとして、古代スキタイ彫刻をあげたりもしている。
1910年12月には宗教画がポルノと批判されて裁判になり、過激な画家として名をはせたらしい。スキャンダルが芸術家としての名声を高めるというのもよくある話。展覧会場に警官がのりこんで彼女の作品を押収したりする一幕もあったようだ。そんなことから、彼女は「アンチ・アーチスト」「アンチ・キリスト」と呼ばれたという。
やがて、1914年4月29日にモスクワからパリへ。ディアギレフに委嘱されて『金鶏』の舞台装置と衣装を手がける。これをきっかけにナターリャは舞台装置、衣装、ポスターなどを制作するようになり、さらにファッションデザインや、グラフィックアートの世界で名をなすようになる。衣装デッサンやイラスト風のスケッチは、現代の雑誌やテレビでも十分通 用しそうなほどモダンでしゃれている。
20歳で出会って以来、モスクワからパリへとずっと生活をともにしてきたナターリャとラリョノフだったが、1955年6月2日、75歳を前にして結婚する。1951年にラリョノフが脳卒中を起こし、どちらか一方が死んだときに遺産の継承権を法的に確保するためだった。いくらモダニストでも、法律には負けるのか? 晩年に糟糠の妻ローズと結婚したロダンの例もあるし。
同い年だった二人のうち、先に死んだのはゴンチャローワのほうだった。1962年10月17日死去。1962年といえば私はもう小学生ではないか! そして、モスクワのナターリャが芸術家になろうと心に決めた今世紀初頭から約100年が過ぎたいまも、ロンドンの舞台でロシア民話をもとにした『火の鳥』が上演され、日本人の私がそれを見ている。なんだか、とても不思議。
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七月のメメントモリ――フリーダ・カーロ
2001.7
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特殊メイクで体重100キロ以上の肥満体になったグィネス・パルトロウの写真が『ニューズウィーク』に載っていた。なんだかショッキングな画像で、頭にこびりついて忘れられない。坂道を自転車で下りながらボーっとそんなことを考えていたら、なにかにつまずいたわけでもないのに、すっ転んでしまった。
左のひじを打って、すりむいて、イテテテ。痛くて泣きたくなった。こんなに痛い思いはここ数年経験していない。いたいよー。人間、痛い思いをさせちゃだめだよなー。子供の虐待なんか、とんでもないよなー。それでつくづく考えたのだが、ふだんどこも痛いところがなくて、苦しい思いもせず、体の不自由も感じないで毎日生活している。それって、とてもハッピーで恵まれていることなんだろうな。私の場合、そのうえ、ストレスさえもない。
でも、生きている間、ほとんど毎日、痛みと苦しみと不自由さに耐えていた人もいる。たとえば、メキシコの女性画家フリーダ・カーロ。
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1940年の8月、メキシコに亡命していたトロツキーが暗殺され、彼と親しくつきあっていたフリーダは警察に2日間拘留されて尋問を受けるはめになる。
さらに背骨の痛みが激しくなってコルセットを常用せざるをえなくなった。この年からフリーダは日記をつけはじめる。この日記は、The Diary of Frida Kahlo An Intimate Self-Portraitという本にまとめられている。日記といっても日付はなく、むしろ創作ノートのようなもので、詩や手紙、思うことを綴った文章に、ペンや鉛筆によるスケッチが添えられている。手紙のほとんどは、夫のディエゴに宛てた熱烈なラブレターである。今日は何を食べたとか、体重何キロとか、コンビニで買い物いくら、なんていう私の日記とは大違い。
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フリーダは1907年7月6日に生まれた(後年、本人は7日を誕生日として祝った)。彼女にとって、病院や病室のベッドはなじみのものだった。
まず、7歳のときポリオ(小児麻痺)にかかる。それから、18歳のとき、学校から家に帰る途中、乗っていたバスの衝突事故で骨盤・脊柱骨折の大けがを負う。このけがで入院しているあいだに、彼女は退屈と苦痛をまぎらすために絵を描きはじめた。
15歳のときに画家のディエゴ・リベラ(メキシコを代表する壁画家、革命家)と知り合ったフリーダは、彼を熱愛する。その当時から「私の夢は彼の子供を産むこと」といって同級生をぎょっとさせたという。22歳で彼と結婚。しかし、ディエゴはフリーダの妹と浮気をし、彼女を苦しめた。とはいえ、浮気をしたのはディエゴのほうだけではなく、フリーダもさまざまな相手と関係をもち、彫刻家のイサム・ノグチもその一人だったらしい。 |
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25歳のときには流産、その2年後には虫垂炎の手術、中絶手術、足の手術と続く。ディエゴが妹と関係をもったのはこの年だ。31歳のときには腎臓炎で入院。翌年は手の湿疹と背骨の痛みに悩まされ、安静を命じられる。フリーダは肉体および心理的なストレスで酒に溺れるようになった。
1946年、39歳のフリーダは骨の移植手術を受け、痛みを紛らすためにモルヒネに頼るようになった。夫のリベラはメキシコ人の女優とおおっぴらな情事を続けていた。さらに3年後、42歳のフリーダの右足は壊疽におかされていることがわかった。
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翌年は6回におよぶ背骨の手術、移植した骨の感染症などで、一年のほとんどを病院のベッドで過ごした。痛みの軽いときにベッドの上で絵を描くという生活。それ以後、フリーダは車椅子生活となり、痛み止めの注射を打つために常勤の看護婦がつきそうようになった。そして46歳の夏、壊疽にかかった右足を切断。
それから一年足らず、また夏が来て、7月13日にフリーダは死ぬ。記録には肺塞栓症とされているが、じつは自殺ではないかといわれている。
メキシコ文化は死の色彩 が濃いといわれる。骸骨の死神を山車に乗せて練り歩く行事もあり、絵や彫刻にも死をテーマにしたものが多い。ディエゴ・リベラの絵にも死神と手をつないだ少年時代の自分とフリーダの姿が描かれている。(写 真は『カップルをめぐる13の物語』平凡社刊より)
フリーダの日記に描かれたスケッチには、真っ黒に塗りつぶした顔、逆さ吊りになった顔、涙を流す頭部、ぎざぎざの線、骨、頭蓋骨、切り取られた右足、血を流す人など、痛みや苦しみを思わせるイメージがたくさんあり、見るのがつらいほどだ。 |
7月は私の誕生月でもある。暑いのは大好きだし、夏休みはうれしいし、で、つい浮かれてしまう。しかし、同じ7月生まれで、しかも7月に死んだフリーダの生涯を思うと、光のあるところには必ず闇もある、そして明るい光ほど暗い闇を生み出すということを思いださずにいられない。
だいたい、フリーダの自画像や写真って、一枚も笑顔がないんだよね。そんなわけで、私は毎夏7月になると、年に一度の検診と歯石取りのために歯医者さんに行かなくちゃなーと思うのである。フリーダの痛さにくらべたら、歯医者さんくらい……
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「私の愛車紹介 コーナー」
関連記事:2001年7月ゲストコーナー& 翻訳雑感「自転車」
イエローの色が気に入った ブリジストンの最軽量トランジットライト
(野中邦子)
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夏のヴェネツィアが暑いって知ってた?――ペギー・グッゲンハイム
2001.8
『ペギー』 |
文春で出た『ペギー 現代美術に恋した気まぐれ令嬢』(ジャクリーン・ボグラド・ウェルド著)は、私が初めて一人で翻訳することになった本だ。ある出版社で編集部の雑用係というアルバイトをしていた私は、30歳でそこを辞め、フリーで編集や製作の仕事をしながら翻訳の勉強をしていた。
あるとき、この本の原書のリーディングを頼まれ、最初は困った。当時は英語を読むのが苦痛で苦痛でしかたがなかったのだ。語彙は少ないし、文法は弱いし、なにしろ数を読んでいないから、もたもたしちゃって、人間関係も前後の状態もすぐ頭から抜けてしまい、何度も同じページを読み直す始末。
いま思うと、英語を読むには「勢い」が大事である。ちまちま辞書なんか引いてないで一気読み、これがコツだと今ではわかっているのだが。とにかく、そのときは苦労しながらも内容が面 白くて、引きこまれて読んだ。でも「ぜひ翻訳したい!」と思ったのは、こんな記述にぶつかったときだ。 |
シュルレアリストのマックス・エルンストがあるパーティに、非のうちどころのない白いスーツであらわれた。ところが、近付いてみると、ズボンのファスナーが開いていて、そこから長い巻き毛(付け毛)が垂れ下がっているではないか! パートナーのほうも、デコルテの深い胸の谷間から同じような巻き毛を覗かせている。
笑ってしまった。こりゃあ、翻訳するしかないね |
そんなわけで翻訳にとりかかったが、ペギーのコレクションがヴェネチアにあると知って「こりゃあ、行くしかないネ!」そして翻訳中だったその年の夏、イタリアのパックツアーに参加した。ヨーロッパへ行くのは初めてだったのだ。このとき、私は心に決めた。
まだ翻訳書は1冊も出ていないけど、これから自分が翻訳した本の舞台になった場所には必ず旅行しよう、そしてゆかりの地を巡ろう、と。その記念すべき第1回がペギーのヴェネツィア旅行だったわけである。その後、旅行計画は順調で、ゴッホのアムステルダム、オキーフのニューメキシコ、ウォーホルのニューヨーク、ピーター・ビアードとベルリ・マーカムのケニア、ダリのバルセロナと続いている。
| 庭の石の椅子に坐るペギー |
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ところが、この最初のヴェネツィア旅行では、小さな――いや、大きな――つまずきがあった。ヴェネツィアで自由行動ができるのはたった1日、ところがその日は木曜日で、なんとペギー・グッゲンハイム・コレクションは休館日だったのだ!
こうして、私は2年後に再びヴェネツィアを訪れるはめになった。このときはパックツアーではなく個人旅行で(旅行のスタイルも進化した)、ペギーのコレクションも無事見ることができた(イタリア語も曜日くらいはわかるようになった)。
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同じ椅子に坐って 記念写真 |
めでたし、めでたし……と思いきや、さらに意外な落とし穴が! 初めて自分ひとりで翻訳したものなので、出来栄えにドキドキしながら訳了し、原稿を渡したのが、36歳のときだった。そして、2年後にヴェネツィア再訪、しかしその時点でも、まだゲラさえ出ていなかったのだ。最初はドキドキしていたのが、しだいにイライラし、やがてむっとしてきた。すったもんだして、ようやく本になったのは、原稿を渡してから5年後のことだった。ああ、長かった。
ちなみに、この本、いま読んでも面 白い。ペギーは元気いっぱいで、くよくよ悩まないし、劣等感はあってもそれに負けないで、かたっぱしから男を口説いたり、結婚を迫ったり。金づるといわれても、めげずに一日一点の現代美術を買い込んだりして、うらやましい! 私もブランクーシの彫刻が欲しいよぉ(無理だって!)
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夏のヴェネツィアは思った以上に日差しが強く、土産物店やレストランには冷房があまりなくて、とても暑かった。路地をうろうろして、やっと辿りついたペギーのコレクションが休館日だと知って「ガーン!」とショックを受けたこと――いまでは笑える思い出だ。またヴェネツィアへ行きたいなーと思いつつ、「ピンクの霞のかかった」(と、「訳者あとがき」に書いたっけ)ロマンティックなあの町に1人で行くのは、ちょっと淋しいよね?
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19世紀の「新しい女」――ヴァイオレット・ハント
2001.9
ヴァイオレット・ハント、1862年9月28日イングランド北部のダーラムに生まれ、1942年1月16日79歳で死去。父親は水彩 画家で、母親は作家。当人は作家でも芸術家でもなく、あえていえば肩書は「悪女」(?)
17歳でオスカー・ワイルドを誘惑し、22歳で最初の愛人オズワルド・クロファードから梅毒をうつされた。さらにサマセット・モームを誘惑し、H・G・ウェルズに誘惑される。彼女がサロンでもてなした人びとは、ヘンリー・ジェームズ、レベッカ・ウェスト、D・H・ロレンス、エズラ・パウンド、ウィンダム・ルイス、フォード・マドックス・フォードなどがいた。
このフォードもヴァイオレットの愛人だった。彼と妻のエルシーは結婚するとき、エルシーの姉に横恋慕され、また両親の反対にあって、駆け落ち同然に結ばれたという。年齢を詐称して結婚し、妻の両親に訴えられるという騒ぎもあった。
フォードは1908年に文芸雑誌「イングリッシュ・レビュー」を創刊し、ヴァイオレットは秘書として作家や芸術家をもてなす女主人役を務め、資金集めに奔走した。二人は愛人関係になり、ヴァイオレットが公然と妻のようにふるまったため、エルシーが夫を訴えるという一幕もあった。二人の関係は10年続いたが、やがて疎遠になり、別 れるときにはヴァイオレットが騒ぎたて、裁判所にまでもちこまれてゴシップ紙の見出しを飾るスキャンダルとなった。
ヴァイオレットはフォードの小説「Paradise End」の登場人物 Sylvia Tietjens のモデルだといわれる。「New Woman=新しい女」と呼ばれ、ヴィクトリア朝のモラルの犠牲者と見なされた。「悪辣だったかもしれないが、同時に、彼女はビロードのようにソフトだった」という人もいる。
フォードの小説のうち、いま邦訳で読めるのは『かくも悲しい話を…… 情熱と受難〈パッション〉の物語』(武藤浩史訳、彩 流社、1998年、2000円)くらいだ。この物語はイギリスの貴族夫妻とアメリカ人の富豪夫妻の友情と不倫と家族崩壊を描いたもの。
いかにも紳士然としたエドワード・アシュバーナムはじつは女たらしで、その妻のレオノーラは夫の浮気を知りながら、表面 をとりつくろっている。語り手のダウアルはアメリカ人だが、妻のフロレンスとともにヨーロッパの高級リゾートでぶらぶらしている。心臓の悪いマイダーン夫人の死。もう一人の若い女性ナンシー・ラフォードとエドワードの恋愛があり、エドワードは自殺。レオノーラは別 の男ベイハムと結婚し、フロレンスは死ぬ。
なんだかよくわからない筋書きでスミマセン。夫婦のごたごたと貴族の現実離れした暮らしがメインテーマのようだ。高慢で冷たい妻、浮気者の夫、頼りない若い女、無責任な傍観者のあいだで、ぐずぐずした関係がくりひろげられる。やたらと悩んで泣いたり、失神したり、告白したり、懺悔したり……暇な人たちである。一昔前のテレビドラマ「金曜日の妻たち」シリーズを連想してしまった。日本で「不倫」という言葉がはやったのも、あのドラマがきっかけではなかったっけ。
 ヴァイオレットとフォードが別れる別れないで裁判沙汰になり、ゴシップ紙のトップを飾るなんてのも今の世相と同じようだ。それにしても、フォードが文芸雑誌を創刊したとき、ヴァイオレットは46歳。それから10年間、関係が続いたというから、裁判沙汰のスキャンダルを巻き起こしたのは56歳のころ。17歳から悪女道(?)に足を踏み入れて40年。さすが「新しい女」である。
ところで話は変わるが、イーディス・シットウェルとヴァイオレットの横顔、どことなく似てない? イギリスらしい細くて長い鉤鼻が特徴だ。「女は愛嬌」の日本では敬遠されそうな顔だが、イギリスでは貴族的といわれるんだろうな。ちなみに、イーディス・シットウェルも9月生まれ(1887年9月7日)
それから、先月書き忘れたが、ペギー・グッゲンハイムは8月26日生まれでした。
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アフリカの自然児、ベリル・マーカム
2001.10
 ンゴングにあるカレンの家 現在は博物館 |
翻訳した本の舞台を旅するのが楽しみだというのは先月も書いたが、それでアフリカのケニアへも行った。1997年2月のこと。『夜とともに西へ』と『ピーター・ビアードの冒険』の2冊がケニアを舞台にしていたからだ。
ベリルは1902年10月26日生まれ。ということは、生誕100年! まさに波乱万丈の冒険をした女性で、競走馬の調教師から飛行機のパイロットになり。大西洋を東から西へ(リンドバーグとは逆コースで、向かい風になるため難しい)単独横断飛行に初めて成功した。 |
|  『夜とともに西へ』 |
カレン・ブリクセンと恋のさやあてを演じたというエピソードもある。遭難したブリクセン男爵(カレンの夫)とデニス(カレンの愛人)をベリルが飛行機で救いだすシーンなど、ものすごくドラマチックで面 白い。そういえば『愛と哀しみの果て』(カレンの『アフリカの日々』の映画化)を監督したシドニー・ポラックがこの本の映画化権を買ったという話だったけど、いまだに映画化されていない。映画化の話ってあてにならないんだよね。
来月出る『キッチン・コンフィデンシャル』もデヴィッド・フィンチャー監督、ブラッド・ピット主演で映画になるという「噂」だけど、あてにはすまい……だいたい、ブラピは今度コーエン兄弟の映画で、ジェームズ・ディッキー原作『白の海へ』に主演、舞台が第二次大戦下の東京大空襲。日本ロケだそうだけど、妙なストーリーなんだよね、この映画。(くわしくは10月25日発売の月刊『PLAYBOY』コーエン兄弟のインタビューを見てください)
閑話休題。マサイ族の子供と一緒にサバンナを駆け回って育ったせいもあるが、ベリルはいわゆるマナーや道徳観とは無縁の自然児だった。上品で貴族的なカレンと大違い。カレンのほうもデンマークからケニアの農園に来て、その土地を愛してしまう変わり者ではあったが。
カレンに心酔してケニアに住み着いた若者がピーター・ビアード。彼はもう60歳を過ぎているけど、あいかわらずハンサムでかっこいい。ナイロビとモントーク(ロングアイランド)の2つの家を行ったり来たりして、ニューヨークの画廊では写 真の個展がロングラン中とのこと。
ケニアでは、カレンの住んでいた家を訪ねた。いまは博物館になっているが、本人の記念品よりも、映画で使われた小道具やスナップ写 真が展示品の主体だったのがおかしい。でも、裏庭の石臼でできたベンチに腰掛けてンゴング丘陵を眺めていると、時間を忘れそうになる。アフリカの魅力は時間の流れがゆっくりしているところだ。
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 ソーンツリー・カフェ |
ナイロビ市内のスタンレー・ホテルにあるソーンツリー・カフェ。
白人のサファリ客や地元の観光ガイド、移住者たちの溜まり場だった場所。ソーンツリーの幹にトゲで伝言のメモを留めておき、連絡を取りあったという。その名残の伝言版が手前に見える。
サファリの本拠地マサイマラに向かう小型プロペラ機の中から赤土の大地を眺めた。ビアードは旱魃による食料不足で大量 死した象の写真『ジ・エンド・オブ・ザ・ゲーム』を撮って一躍有名になった。うねうねと蛇行するナイル川。
雲の中に頂をのぞかせるキリマンジャロも見えた。 |
 蛇行するナイル川とキリマンジャロ(飛行機の窓から撮影) |

草原でシャンパン・ブランチ |
早朝、バルーン(熱気球)に乗って空中サファリをしたあと、着地した草原で野外の朝食。記念ラベルのついた南アフリカ産シャンパンがふるまわれる。
なんだか、アフリカを植民地にしていた時代のイギリス貴族になった気分で贅沢……でも、ちょっと後ろめたい……ような気がしないでもない。 |
サンタフェでホームシック
2001.11
訳書の舞台になった場所へ旅するのが趣味という話の続き。最初はペギーのヴェネツィアで、先月はケニアへ行った話を書いた。ケニアの前に行ったのが、ジョージア・オキーフの愛した土地、ニューメキシコ州のサンタフェ。
もう10年以上前になるのかぁ。サンタフェへは一人旅だった。
ロスで飛行機を乗り換えて、デンバーまで。デンバーからまた乗り換えてニューメキシコ州の州都アルバカーキへ。サンタフェはそこからまた自動車で2時間くらいかかる。
アルバカーキに着いたのは夕方で、降りた乗客がそれぞれレンタカーや迎えの車に乗って去ってしまい、空港にはほとんど人がいなくなってしまった。私はサンタフェ行きのバスを待って1人ぼっち。心細かったなー。
やっとマイクロバスが来て、出発。走っているうちにどんどん日が暮れてくる。町を出ると、そこはごつごつした岩と砂、這い松くらいしか生えていない砂漠だ。アメリカの州にはそれぞれニックネームがついていて、ニューメキシコ州の別 名はSUNDANCE STATE(サンダンス・ステート)――太陽がダンスする州。『明日に向かって撃て』に出てくるサンダンス・キッドもそこから。そんなニックネームにもなっている有名な夕日が荒野に落ちていく。あれはきれいだった。
きれいはいいけど、どんどん暗くなって、もの淋しいったら。バスには数人の乗客がいたのだけれど、白人はなんであんなに寒さに強いのでしょうね。私の隣に坐っていた白人男性は、もう10月だというのに半袖シャツ。バスのそちら側の窓が壊れていて、風がびゅーびゅー吹き込むのに平気な顔をしていた。私は寒くて震えていた。
サンタフェ市内に入って、バスは次々とホテルをめぐり、だんだん客が降りていく。これでホテルが決まっていなかったら、心細さも最高潮というところだが、幸いホテル・ヒルトンを予約しておいた。あーよかった。
ところが、予想していなかった。サンタフェというのは新婚旅行のメッカなんですね。アドービ(日干し)レンガでできた家はピンク色で、街中がぼうっと霞んでいる。道を歩くと、ヤマヨモギを燃すかぐわしい匂いがそこらじゅうに漂っている(トップの写 真はヤマヨモギの花)。そして、空を赤く燃やす夕日。エキゾチックなメキシコ文化。というわけで、アメリカの観光地の中でもとりわけロマンチックな町といわれていて、熱々のカップル(新婚夫婦、ゲイの男同士、老夫婦)がそこらじゅうにいる!
ホテルの屋上のテラスで夕日を眺めながら、フローズンマルガリータを注文しても、まわりにはカップルだらけ。部屋は広々としたツインだし、結局、ものすごいホームシックに襲われてしまった。
ジョージア・オキーフは、1887年11月15日にウィスコンシン州サンプレーリーに生まれた。ウィスコンシンはアメリカでもかなり北の森林地帯だ。家族は貧しく、ジョージアは7人きょうだいの第二子。兄と弟がいて、ほかは全部女の子だった。
苦学して美術教師の資格をとり、テキサス州で学校の教師になる。若い女教師として、家族から離れ、自活し、テキサスの広大な自然にふれたことが彼女にとっては、このうえなく重要な経験だったのだろう。厳しい自然の中で一人ぼっちでいれば、いやおうなく自分自身と向き合わざるをえない。それによって自分の天職や性的志向を発見し、孤独に耐える強さを身につけたのだ。オキーフが晩年住んでいたのは、サンタフェよりさらに辺鄙なタオスという町だった。
そんな強いオキーフに共感してサンタフェまで出かけたのに、強烈なホームシックにかかってしまったのは、なんとも皮肉である。情けない。オキーフは1986年3月6日ニューメキシコ州サンタフェで死去。98歳だった。
ヴェネツィアと同様、サンタフェも機会があれば、ぜひもう一度行ってみたい場所だ。帰りのバスは早朝に町を出たが、サンタフェで買い込んだ分厚いフリースを着こんでいたので、こんどは寒くなかった。 |
 『オキーフ/スティーグリッツ』
 『オキーフ』
 オキーフの作品 に描かれた教会
 深い峡谷にかかる橋の上で。 映画『ナチュラル・ボーン・キラーズ』にも出てきた橋。
 サンタフェの日没
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職業としての「美人」──マレーネ・ディートリッヒ
2001.12
最近、どうかと思うテレビ番組が目につく。容姿に自信がなくて辛い思いをしてきたという素人(らしき人びと)が登場して、「生まれ変わりたい」「自分に自信をもちたい」「見返してやりたい」と訴える。その人たちに美容整形を受けさせ、その前と後の変わりようを見せる。芸能人があれこれコメントし、変身後には大げさに驚いてみせるというのがパターンだ。これって、いったいなに? 美容整形外科のプロモーションみたい。
ボツリヌス菌を注入して、その毒素で筋肉を硬直させ、皺をなくすという美容術もあるらしい。プチ整形、バーチャル整形なんてのも──鼻と顎の先に薬剤(なんだか忘れた)を注射して尖がらせるのだが、一年ほどで効果 は消えてしまうとか。注入したものが消えるって、それがどこへ行くのか心配だ! しかも、チョー痛いらしい(安野もよこ『美人画報ハイパー』によれば)。
ところで、今から100年前、1901年12月27日にマレーネ・ディートリッヒが生まれている。彼女も「美女」のイメージを死ぬ まで保とうとした女性だ。しかも「美女」を職業として。
『嘆きの天使』ではちょっと太めの娘という感じだが、『上海特急』での彼女は最高にきれいだ。トップからライトをあてて頬にくっきりと影を落とし、細い金髪が波打っている。前者は舞台芸人の役、後者は娼婦だが、両方とも性に奔放な退廃的な悪女である。
ディートリッヒが演じた役柄は、娼婦からスパイ、外交官夫人から女帝まで幅広いのだが、どの役も共通 して「ちょっと変」な感じがある。それというのも、どこか上品に収まりきれない、はみだしたところが伝わってくるからだ。ルビッチ監督の『天使』では外交官夫人を演じているが、ピアノをたしなみ、オペラ好きのハイソな奥様という設定なのだが、どうも結婚前はカタギのお嬢様ではなかったような面が感じられる。
ロシアのエカテリーナ女帝を演じた『恋のページェント』では、純情な娘が無理やり皇帝と結婚させられたあと(カルト的な儀式、たとえば処女かどうかチェックする場面 などがすごく変!)、夫に幻滅した彼女はハンサムな近衛兵を次から次へとベッドへ引きずり込むようになる。
どうも監督のスタンバーグが彼女をひたすら美しく、しかもエキセントリックな状況で撮ろうとしたあまり、ストーリーは二の次になってしまったらしい。スタンバーグのみならず、名監督として知られるルビッチの『天使』も筋立てはナンセンスだし、登場人物に感情移入するというより、ただひたすらディートリッヒを見るための映画になっている。見るに値する容姿だから、それでもいいんだけど。
スクリーンでかくも強烈な魅力を発散するディートリッヒは、私生活でもかなりエキセントリックだった。若い頃に結婚した夫とはついに離婚しないまま、とっかえひっかえ愛人を作って大っぴらに情事をもち、夫にも公認の愛人がいて、みんなで仲良く旅行したりする。バイセクシャルでもあり、女性の愛人がいたことも知られている。
すごいのは、ごく早い時期からコラーゲン療法や羊の胎盤を注射するといった美容術をとりいれていたことだ。そのためにスイスのクリニックへ定期的に通 っていたという。中年後の写真を見ると、フェイスリフトも何度かやっていたように思える。ひょっとしたら痩せ薬も?
それというのも、彼女は自分の売り物が「美しさ」であることを重々承知していたからだろう。ものすごいプロ意識である。もしかしたら、彼女にとってはセックスも美容術の一つだったのかもしれない。雑誌でよく「セックスできれいになる」という特集があるが、彼女はそれも先取りしていたのだろうか? 72歳でステージに立ったときの写 真など、白い毛皮のコートの間からすらっとした脚を見せて、まさにこの世のものとは思えない(不気味でさえある)。
私が翻訳したスティーブン・バックの『マレーネ・ディートリッヒ』(写真上 ベネッセ刊なので、現在は手に入らない)はおもにキャリアを中心にしたオーソドックスな伝記。娘のマリア・ライヴァが書いた『ディートリッヒ』(写真下 幾野宏訳、新潮社刊)は、私生活を中心にしたユニークな伝記で、じかに接した身内でなければ書けないエピソードが満載。マレーネの肉声が聞こえてきて、ものすごく面白い。 |
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