三角関係はドラマチック 2003.1
| 『無垢の時代』に続いて、イーディス・ウォートンの中・短編を読んでいる。 まず『イーサン・フローム』(宮本陽吉他訳、荒地出版社)。『無垢の時代』はニューヨークの旧家・名門の人間関係を描いた作品だったが『イーサン・フローム』はニューイングランドの寒村に住む貧しい農民夫婦の物語。『無垢』で主人公を縛っていたのが伝統や慣習といった形式的なものだったのにくらべて、『イーサン』のほうは、貧しさと病気が枷になっている。 老人や病人の世話をしなければならないイーサン・フロームという若者は、貧しさからどうしても脱け出せない。病気の親の世話に疲れきって、手伝いにきていた年上の女性と成り行きで結婚することになるが、それも愛情があってのことではなく、孤独に耐えがたかったからである。やがて、その妻も病気になり、イーサンは妻の看病と畑仕事で疲れきってしまう。 彼をとりまく不幸はほとんど貧しさからきている。 |
『無垢の時代』では、裕福な夫と離婚しようとする公爵夫人のエレンと、名門家庭のお嬢様メイの2人が主人公のアーチャーをめぐって三角関係を形成するが、『イーサン・フローム』の場合は、生活に疲れはてた貧しい農民のイーサンをめぐって、老いて病弱で愚痴っぽい妻ズィーナと、身寄りがなく、生活の資を稼ぐ能力もない若い娘マティーの三角関係ができあがる。 雰囲気としてはだいぶ違うようだが、考えてみると、公爵夫人のエレンやお嬢様のメイも自分自身の経済力をもっていないという点ではイーサンの妻や若い娘マティーと五十歩百歩である。 さらにいえば、男性のアーチャーも世襲財産のおかげで裕福な暮らしができるだけの話だし、イーサンが貧しいのは本人のせいではないのだから、これも大同小異。 そんな見方をすると、ウォートンの人生観にはある種の諦念がこめられているように思える。人間は置かれた状況に縛られ、そこから逃げ出そうとして苦悩し、じたばた動きまわって、そこにドラマが生まれるが、結局、大きな運命の流れから完全に自由になることはできない……という。 邦訳の『無垢の時代』には副題に「汚れなき情事」とあり、アーチャーはついに自分の思いを遂げずに、傍目には平穏なまま人生を終える。一方のイーサン・フロームはとうとう我慢しきれず、思い切って一歩を踏み出す。そのあげく、それまで以上に大きな不幸を招き、まさに囚われの身となってしまう。 物語はじつに皮肉で、救いようのない展開となる。ウォートンという作家の辛辣さがここにきわだつ。現実の人生を見ても、夢みたいな話はそうそうないし、こういう不幸な話はよくあること。それをずばっと切り取って見せる作家の手腕ってほんとにすごい。 ウォートンの三角関係の話は、ほかにもある。『20世紀アメリカ短篇選・上』(大津栄一郎編訳、岩波文庫)に入っている「ローマ熱」もそうだ。2人の中年女性がたんたんと会話するスタイルで、最初は「このどこが三角関係?」と思うだろうが、最後におっそろしいどんでん返し。これはもう、私はちょっと背筋がぞっとしました。 罠を仕掛ける女、その罠にかかったふりで、もっと恐ろしい罪を平気で隠しとおす女。女って怖い! しかし、その恐ろしさが読者にとっては「じつに快感!」なのですね。上流階級の上品さと人間性の残酷さが相乗効果となってすごい。 最後に、文句をつけるみたいで気がひけるのだけれど、『イーサン・フローム』の翻訳はちょっと古くて読みにくい。読んでいくうち物語に引き込まれてあまり気にならなくなったとはいえ、最初は途中で頓挫するかと危ぶんだ。ぜひ新しい訳を! |
真珠夫人 2003.2
昼の連ドラで話題になった菊池寛の『真珠夫人』。ドラマは一度も見たことがないのだが、文春文庫の川端康成による解説の「新しい女として不徹底であり、矛盾もあるが」という一節に引かれて読んでみた。 美貌と理知に恵まれた瑠璃子という男爵令嬢には外交官をめざす婚約者がいた。あるとき、成金の荘田勝平という男の園遊会に招かれたとき、金にあかせた悪趣味をけなしているのを当主の勝平に聞かれてしまう。勝平は、若い男女に金の力を知らしめてやろうと決意し、貧乏男爵だった瑠璃子の父を陥れて、むりやり瑠璃子を妻に迎える。 家名を汚すまいと結婚を承諾した瑠璃子だが、知恵をめぐらして勝平に体を許さず、もと婚約者への操を守る。勝平は意に反して、瑠璃子の魅力に負け、愛情を抱くようになる。しかし、ひょんな事件で勝平が命を落とし、瑠璃子は未亡人になる。 美貌と若さに加え、遺産を手にした瑠璃子は、男に虐げられてきた恨みを晴らそうとする。まわりに若い男たちをはべらせ、失恋して自殺騒ぎを起こす男も出るが、瑠璃子は恬として恥じず、女王蜘蛛のように傲慢にふるまう。瑠璃子にとって、女の魅力で男たちを支配するのは、これまで女が置かれてきた惨めな境遇に対する復讐なのだった。 |  |
……というストーリー。男社会に対するルサンチマンにあふれているところは、ちょっと『トゥーランドット』を連想させますね。全体は2部にわかれ、前半は瑠璃子がむりやり勝平の妻にさせられて復讐を誓い、その勝平が死ぬまで。後半は未亡人となった瑠璃子の傍若無人ぶり、そして勝平の娘美奈子の初恋と瑠璃子の母性愛の目覚めが描かれる。 さて、この瑠璃子の魅力がすごい。園遊会のときの年齢が18か19歳だから、結婚して未亡人になったとしても20歳そこそこだろう。それなのに、ショパンの夜曲(ノクチュルンとルビ!)を巧みに弾き、フランス人を相手に流暢なフランス語で会話し、フランス文学が好きで、もちろん原書で小説を読む(モウパッサンは嫌いだが、メリメやミルボーが好き)。ツルゲネフ『父と子』の英訳本を読む(ロシア語はさすがにできないらしい)。自宅のサロンでは小説家や文学青年にまじって文学論をたたかわせる。室内を飾る家具調度や装飾のセンスも洗練されている。 この時代、ふつうの女性は男性のあとに従い、控えめを徳とし、自分の意見などもたずに、ただうなずくのが精一杯だった。それにくらべて、外交官夫人になるべく教育されたとはいえ、ちょっと信じがたい才能と知性ではないだろうか。おまけに、敵(勝平)さえも夢中にさせてしまう美貌と女性的な魅力。それに、男をなんとも思わない堂々たる態度。そのうえ経済力もある。 ちょっと出来すぎというか、「ありえない!」……まあ、おとぎ話と思うしかないでしょう。手練手管で男を魅了しておきながら、ゴミのように男を捨てるところは、ある意味、溜飲が下がるというものだ(それで、人気が出たのかな? もとは新聞連載小説だったそうだ。) しかし、大問題がある。そう、「お金」の問題だ。瑠璃子が男たちを魅了し、好き勝手ができるのも、勝平が残した遺産があるからこそ。いわば、敵のお金で生存しているようなものなのだ。さらに、瑠璃子の父親には経済観念がなく、その失敗のせいで瑠璃子は不本意な結婚をさせられたようなもの。借金だらけのくせに狭量で時代遅れのマッチョな男爵(瑠璃子の父)に「あんたが諸悪の根源だよ!」と突っ込みたくなる。 ジェーン・オースティンやジョージ・エリオットの小説に出てくる女たちはもちろん、それより新しいイーディス・ウォートンの『エイジ・オブ・イノセント』の登場人物もほとんど職業をもっていない。女は夫に養われるか、親の財産で暮らしている。それどころか、男たちでさえ、上流社会の人びとは世襲財産(土地や不動産、株券などから得た収入)で暮らしており、専門職(弁護士や医師など)をもっていても、それで食べているというわけではないのだ。 つくづく、お金の問題はバカにできないなと思う。お金ばかりにこだわるのは下品という感覚もいまだ(とくに女たちの心理には)残っているけれど、いまの世の中、人に頼っていちゃやっていけないよね。女一人、生きていくには自分で稼がないと……。しかし、世襲財産がなくても、自分の手で稼いで暮らしを立てていけるという時代は悪くないんじゃないでしょうか。 ところで、川端康成がいう「新しい女として不徹底であり矛盾もある」とはどういうことか。瑠璃子は男社会そのものに復讐を誓うのだが、その一方で婚約者への操を守り、勝平に体を許さない。婚約者の写真を襦袢に縫い付けて肌身離さず身につけているほどなのだ。夫の死後も、寄ってくる男たちに気のあるふりをしながら、最後の一線は越えない。そういうところは、徹底を欠いているといわれてもしかたがない(新聞小説だから、とことん悪女にはできなかったんだろうな。) さらに、瑠璃子は勝平の娘である美奈子に無条件の愛を注ぐのだが、これがわけわからない。突然、母性愛に目覚めてしまったらしい。無垢な若い娘を大事に思う気持はわからなくもないが、娘といっても年齢はほんの数歳しか違わず、なさぬ仲の(しかも敵の)娘なのに。第一、あんなにべたべた愛するくらいなら、自分が受けたのと同じくらいの教養とセンスと魅力を身につけさせてやるべきじゃないの? というわけで、男に「汝(なんじ)妖婦よ!」と心の中で叫ばせつづける瑠璃子の傍若無人ぶりは大いに楽しめたのだが、終幕になってちょっと勢いがなくなり、読者に欲求不満をもたせたまま結末になだれこむ。 しかし、男をたらしこむ瑠璃子の手腕は見習いたいものです。 「妾(わたし)は戯恋(フラート)することには倦き倦きしましたのよ。……妾は真剣な方(かた)が欲しいのよ。男らしく真剣に振舞う方が欲しいのよ。……妾が長い間、探(たず)ねあぐんでいた本当の男性だと思いましたの。 信一郎様! 貴方は妾の試(テスト)に、立派に及第遊ばしたのよ。 ……すぐにこの自動車でいらしって下さい!」 こんな手紙を書いておきながら、じつはまったくその気はなくって、ただの誘惑なんだから(しかも相手は新婚ほやほやの若妻がいる)ほんと、女は怖いです(先月も同じことを書いたっけ!)* * *
今月は新刊『伝記ガウディ』が出ました。刊行記念のバルセロナ旅行・ガウディ建築めぐりアルバムもどうぞ。
世界で一番きらわれた日本女性 2003.3
グローバルにこれほどヒンシュクを買った日本女性はほかにいないだろう――ヨーコ・オノ。ビートルズのジョン・レノンと結婚した女性である。
当時、世界的なアイドルで、音楽的にも高く評価されていたスーパー・グループ、ビートルズのリーダー格だったジョンは、家庭的で控えめな金髪美人の妻シンシアと、ジョンにそっくりの一人息子ジュリアンを捨てて、ヨーコのもとに走った。 世間の目は、ヨーコに対してものすごく冷たかった。ジョンよりずっと年上で、にこりともしない奇妙な女、しかもアジア人で、得体の知れないアーティストだというではないか。ジョンはきっとたぶらかされたのだ、頭がどうかしたにちがいない。そんな声ばかりだった。 アビイ・ロード・スタジオでの録音セッションを記録した映画でも、ヨーコは浮きまくっていた。ポール・マッカートニーなんか、あからさまにいやそうで、汚いものを見るかのようだった。 ヨーコ自身、「私を嫌う人は『ただ、なんとなく』というのではなく、パッショネイトに嫌う」と書いている(『ヨーコ・オノ 人と作品』飯村隆彦、水声社)。日本からも釘をさした人形が送られてきたほどだという。それほど、当時のヨーコ・バッシングはすごかった。 私はといえば、ジョンとヨーコの結婚のニュースを(年齢がばれるが、リアルタイムで)聞いたとき、ものすごくびっくりした。その一方で、同じ日本人女性として「やったね!」と思う気持もあった。 基本的に、ジョンとヨーコの態度には共感できたので、2人が結婚記念に出した『ウェディング・アルバム』なんかも買ってしまったほどだ。ちょうど、そのころ姉が結婚したので、お祝いにプレゼントしたはず。もらったほうは他人の結婚記念アルバムなんか、ありがた迷惑だったかもしれない。反省。レア物で値があがっていればいいんだけど。 ヨーコはジョンとセットで語られることが多いけれど、アーティストとしてはなかなかおもしろい。代表作は、インストラクション(指示)を並べたアート作品『グレープフルーツ』で、たとえばこんな指示がある。
| 

 |
想像しなさい。 空を西から東へ 一匹の金魚が泳いでいくところを。 | |
|
この「想像しなさい(イマジン)」という言葉から、ジョンの曲「イマジン」が生まれた。ジョン本人も「この曲は本当はヨーコの名前もクレジットすべきだったんだ」と語っている。さいたま市にある「ジョン・レノン・ミュージアム」のことを、まるで「ヨーコ・オノ・ミュージアム」みたいだという人もいるが(私もそう思う)、ジョンが生きていたら、きっと「レノン・オノ・ミュージアム」にしたはずだから、それでいいのだ。 この『グレープフルーツ』から選んで、写真をつけたものが、『グレープフルーツ・ジュース』(南風椎訳、講談社文庫)というタイトルで文庫になっている。(この次のヴァージョンが出るとしたら、タイトルは『グレープフルーツ・ゼリー』?) ヨーコのインストラクションには「空を切り取りなさい」、「石が年をとっていく音を録音しなさい」、「笑いつづけなさい。一週間」など、ちょっと無理なものもあるが、なかには「街中を歩きまわりなさい。空の乳母車を押して」とか、「一本の線を引きなさい。その線を消しゴムで消しなさい」とか、なんとかできそうなものもある。 そんな中に唐突に出てくる「掃除をしなさい」というのには笑ってしまう。 ヨーコの作品の特徴はユーモアでもあるんですね。そう堅苦しく受け取ってはいけない。そう思うと、ジョンがヨーコに惹かれた気持もよくわかる。 ただし、ヨーコが日本人離れしていることは確かである。先の『ヨーコ・オノ 人と作品』にヨーコが寄せた文章は、冒頭からしてこうだ。 「私は美人で、頭もわるくないし、体もよくて、人の為に尽くすし……」 ほとんどの日本人がコンプレックスだらけというのは問題にしても、それに、じっさいヨーコは美人だけど、書き出しから「私は美人で」と断言しているのはすごいよね。 |
クラリッサの時間 2003.4
 『ダロウェイ夫人』 ヴァージニア・ウルフ著 丹治愛訳、集英社 | 第75回アカデミー賞の主演女優賞はニコール・キッドマンに決まった。作品は『めぐりあう時間たち』、演じたのは作家のヴァージニア・ウルフ役である。いつも文句をたれてばかりなのは気が引けるが、この邦題はちょっと甘ったるいような気がする。「時間」に「たち」をつけるのもどうだろうか。監督は牧人舎周辺でも人気の高かった『リトル・ダンサー』のステイーブン・ダルドリー。ヴァージニアの姉のバネッサ・ベルを演じるのはミランダ・リチャードソン、ほかにジュリアン・ムーアやエド・ハリスといった味のある俳優が揃っている。(ところで、ニコール・キッドマンの記事を翻訳しました。『PLAYBOY』4月25日発売号に掲載予定) 映画の原題は Hours 。きわめてシンプルに「時間」である。じつはヴァージニア・ウルフの小説『ダロウェイ夫人』の執筆中の仮タイトルが「時間」だった。この『ダロウェイ夫人』は映画化されている(主演はバネッサ・レッドグレーブ)。私は見逃したので、これからビデオ屋さんで借りてきてみようと思っている(追記:貸出中でした、残念!)。レッドグレーブ扮する主人公ダロウェイ夫人の若い頃を演じるのがナターシャ・マッケルホーン(『サバイビング・ピカソ』のフランソワーズ・ジロー役で映画デビュー)で、私はこの女優さん、わりと好きなのである。彼女は『トゥルーマン・ショー』で主人公(ジム・キャリー)の憧れの女性として出ていたし、最近では『キリング・ミー・ソフトリー』でもミステリアスな悪女を演じていた。 |
それはさておき、ダロウェイ夫人のファーストネームを知っているだろうか――答えはクラリッサ。『めぐりあう時間たち』は時代を超えた3人の女たちの生活を描いた作品だが、その一人、現代ニューヨークに生きる書籍編集者(メリル・ストリープ)の名前がクラリッサで、ダロウェイ夫人というニックネームで呼ばれる。クラリッサといえば、18世紀イギリスの作家サミュエル・リチャードソンに『クラリッサ・ハーロー』(1747年)という小説がある。あまりにも長大なので、これまで一度も邦訳されていないそうだ(ネットで調べると、明治時代に部分訳だけ雑誌に載ったことがあるらしい)。 このもとの小説が訳されていないのに、イギリスの若手(もう大御所か?)評論家のテリー・イーグルトンがこれをネタにしたフェミニズム評論『クラリッサの陵辱』を書き、こちらは翻訳されている(岩波書店)という妙なねじれ現象がある。 リチャードソンの『クラリッサ・ハーロー』は陵辱される処女の物語で、社会的な抑圧のもとで苦しむ処女のクラリッサが悪い男にだまされて強姦され、そのショックで精神錯乱をきたすという筋書きらしい。クラリッサはいったん救出されるが、家名を汚したという自責の念のあまり、みずから死を選ぶ。その死に方もはっきり書かれてはいないが、おそらく拒食による衰弱死だったと思われる。聖女の死、殉教なのだそうだ。(読んでないので「らしい」とか「そうだ」ですみません) 文学史に強い作家のヴァージニア・ウルフが『クラリッサ・ハーロー』のことを知らなかったはずはなく、ダロウェイ夫人のファーストネームにこの名前を使ったのは偶然ではないだろう。ヴァージニア・ウルフもあの身体の細さを見るかぎり、摂食障害があったのではないかと私は推測しているのだが……。さらにウルフも精神病に苦しみ、みずから死を選んでいる。また、『クラリッサ・ハーロー』のクラリッサは悪者に誘拐されて囚われの身となり、ついには冤罪によって債務者監獄に拘禁されてしまう。この「閉じ込め」のテーマが小説の特徴の一つなのだそうだ。(ちなみに、債務者監獄はディケンズの小説によく出てくるが、この次に翻訳する予定のノンフィクションにもロンドンの債務者監獄が出てくるのでこれから調べなければならない)。 もう一つ『クラリッサ』とウルフの接点がある。『クラリッサ』の著者のリチャードソンは小説を書くかたわら印刷屋を経営していたのだが(逆かな? 印刷屋のかたわら小説書きだろうか)、ウルフもホガース・プレスという小出版社を経営していた。この当時、小出版社がはやっていて、自分で活字を組んで、出したい作品を小部数ながら出す人びとが多かった。(ナンシー・キュナードもアワーズ・プレス――ここにも「時間」が!――という小出版社を作ってベケットの詩などを印刷していた。)ウルフがリチャードソンとその作品『クラリッサ』を頭において『ダロウェイ夫人』を書いたことは、まずまちがいないのでは?……と、私は思っている。 クラリッサ・ダロウェイは処女のクラリッサとは違って、50代になったばかりの裕福な地位の高い家柄の女主人で、教養もあり、美しく、はたからみるとすべてに恵まれているように見える。肉体的な拘束こそないものの(というより、自由そのものなのだが)、精神的には何かに縛られている。生きていること、それ自体がある意味で拘束であり、それから逃れるには死ぬしかない。 彼女はその6月のある日、パーティ準備のために初夏の美しいロンドンの町を歩きまわる――この風景描写がまたきれいなのだ! だが、もういい年をした中年夫人のはずなのに、どこか透明感があり、はかなげなところが、処女クラリッサに通じる。そういえば、『羊たちの沈黙』でジョディ・フォスターが演じたFBI捜査官はクラリスという名前だった。クラリッサ(Clarissa)もクラリス(Clarice)もクララ(Clara)の別称であり、Claraはラテン語のclear、brightの意味。まさに彼女たちにふさわしい名前だ。 『ダロウェイ夫人』の解説によると、ウルフは最初、ダロウェイ夫人がパーティの最後に自殺するか、あるいはそのまま死ぬというストーリーを考えていたそうだ。完成作では、セプティマスという若者(ダロウェイ夫人の分身だと著者はいう)がかわりに自殺する。このセプティマスは第一次大戦のシェルショックで精神に障害を起こしており、幻聴や幻覚に悩まされている。イギリスの植民地だったインドでの紛争もほのめかされており、第一次大戦とその後にくる第二次大戦の暗雲が、この天気のよい6月のロンドンにもうっすらと影を落としている。 クラリッサ・ダロウェイは、体調の衰え、老い、過ぎた人生のむなしさ、世間の貧しさや鈍感さ、自分の無力感などに漠然とした鬱を感じている。読んでいて、けっして晴れ晴れとする作品ではないのだが、いまの私の(そして社会の)気分にはどこかしっくりくる小説だった。たった一つの正解とか一つの単純な正義なんて、この世にはないのだろうと思い、生きていくのはなかなかしんどいと溜息をつく(くらいならまだいいのかな?) |
もてる男 2003.5
以前、ここのエッセイで「もてない男」――ゴッホとガウディ――のことを書いた(2002年8月)が、最近つづけて、やたらと女にもてる男たちにぶつかったので、ぜひ紹介したい。といっても、例によって活字の世界での遭遇。でも、みんな実在の人です。 まず、月刊『PLAYBOY』7月号(5月25日発売)でインタビューの翻訳をした俳優・監督・脚本家のビリー・ボブ・ソーントン。『スリング・ブレイド』でアカデミー脚本賞を受賞、このとき主演男優賞にもノミネート。『狂っちゃいないぜ』で共演したアンジェリーナ・ジョリーと20歳の年齢差を越えて電撃結婚。この結婚が、なんと彼にとっては5度目! ついこのあいだ、アンジェリーナとも離婚してしまった。 アーカンソーの田舎で、体育教師の父と霊能者(!)の母に間に生まれ、育ちは貧しく、父親は暴力をふるった。『スリング・ブレイド』では、自分の生い立ちを反映させた田舎町の事件を描いたオリジナル脚本で、監督と主演も兼ねている。この作品では知的障害のある男を演じ、太っていて、表情や話し方も変えて、素顔とはほど遠い。その後の『狂っちゃいないぜ』では、歌がうまくて、知的で、クールで、カリスマのある航空管制官という役を演じているのだが、20キロも減量してまるで別人のようだ。強迫神経症を抱えた変わり者ではあるが、なにしろ才能があって、ユニークで、情熱的……47歳で5度の結婚というのもうなずける……この回数は今後も増えそうですね。いや、ほんとカッコイイ男です。 |
 『イサム・ノグチ』 ドウス昌代著 講談社 |
2人目はアーティストのイサム・ノグチ。ドウス昌代『イサム・ノグチ』を読んで、彼の波乱の生涯にびっくり。とにかく、この人、男女を問わず、すごくモテるのだ。詩人の野口米次郎とアメリカ人女性レオニーのあいだに私生児として生まれ、日米の血を受け継いで、すごいハンサム! 米次郎は若いときに単身アメリカへ渡り、英語で詩を書くエキゾチックな東洋の詩人として名をあげた。英語もろくにできないのに渡米してしまうという無謀さもあるが、一途に突き進むエネルギッシュなところはイサムにも共通する。母のレオニーは芸術を心から愛する女性で、正式な結婚をしなかった米次郎の詩作を助け、イサムを日本につれてきて女手一つで育てた。差別や貧困を乗り越えて、息子を一人前の芸術家に育てようと奔走し、最後は貧しく死ぬ。そんな芸術に賭ける情熱がイサムの血にも流れていた。 イサム・ノグチは女優/歌手の山口淑子(李香蘭)と結婚するが、やがて離婚。その後も、84歳で死去するまで、周囲にはつねに若い女性(しかも国籍を問わず、名家のお嬢様もいれば、ばりばりのキャリアウーマンもいた)が付き添っていた。石の彫刻という肉体労働で鍛えあげた筋肉質の体は、年をとっても立派です。 |
3人目は写真家のロバート・キャパ。ハンガリー生まれのユダヤ人で、ナチの迫害を逃れてワルシャワ、ベルリン、パリ、ニューヨークへと住まいを移し、一生をホテル住まいで過ごした。母の回想によれば「赤ん坊のときから女の子が大好き」だったという。黒髪に浅黒い肌、大きな目、厚いセクシーな唇というエキゾチックな魅力あふれる容姿で、性格も明るくて、人なつこい。大胆さと繊細さのまじった感性が、大勢の女性をひきつけた。定着することを恐れ、家庭を作ろうとしなかった。いつどこで死ぬかわからない戦争写真家という職業もあるだろうが、女性との関係もつねに及び腰だったが、次々と美女を恋人にして一生を送ったキャパはモテ男の資格十分。(キャパの伝記『Blood and Champagne(血とシャンパン)』を訳了。刊行は未定だが、007のピアース・ブロスナンが映画化する予定)。 |  Blood and Champagne |
 The Devil in The White City |
4人目はH・H・ホームズ。この名前はあまり知られていないだろう。1893年、シカゴ万博が開かれたとき、会場近くに万博見物のためのホテルを開き、若い女性ばかりを泊らせ、地下の高熱炉や密閉したガス室で殺したほか、薬殺・絞殺と手段を選ばず、少なくとも9人、多くて200人を殺したといわれるシリアル・キラーである。薬剤師で、偽医者でもあったホームズは、解剖のまねをして死体を切り刻み、そのあげくに遺体を病院に売りつけるという非道さだった。 この男はハンサム(きれいなブルーの目)で、口がうまく、金持ち(裕福な女性を殺して財産を奪った)で、マナーもよかったため、若い女性が次から次へとだまされ、重婚の被害者になった。姉妹がいれば、彼女たちもおびき寄せられ、一緒くたに殺されるのだ。この事件を描いたThe Devil in The White City という本を読んで、「なぜ、そんなにあっさり騙される!」と慨嘆したくなったのだが、前に翻訳した経歴詐称や詐欺を描いた『あの人が誰だか知っていますか』(角川書店)にもあったように、服装や態度がその人間の中身(職業や地位)を示す記号だった時代には、本質を見抜くことがむずかしく、かえって騙されやすいのだ。 |
ところで、この4人のモテ男の共通点は? 1 才能があり、その才能を注ぎこむ情熱の対象をもっている。 アーティストの3人はたしかに才能と情熱があった。4人目のホームズには人を騙す才能があり、殺しへの情熱があった(怖いけどね)。4人とも、もてるだけじゃなくて、仕事の面でも有能だ(殺人に有能でも困るが……)。 2 幼いころは家庭に恵まれず、大人になっても家庭生活をもてない たぶん、欠落したものを求めるがために、女性への働きかけが普通の人より熱心に、またこまやかになるのだろう。そこで、女のほうもほだされる。放浪する人には母性本能を刺激され、つい手をさしのべたくなるという女性も多いはずだ。4人に共通するのは、弱さを隠さないところですね。いわゆるマッチョな「男らしさ」とは無縁で、アーティスティックで繊細、いうなれば少々「女性的」なところがある。これは、モテる男の要諦じゃないかなぁと思う。 3 危険な香り、そしてハンサム 職業上つねに死と隣り合わせだったキャパ、タトゥー趣味のロックンローラーでもあるビリー・ボブ、日本とアメリカという2つの故郷のどちらにも受け入れられず、スパイ疑惑もかけられそうになったイサム・ノグチ。みんな危険の香りがする。もちろん、シリアルキラーのホームズは危険そのものである。そして、ハンサムについてはいうまでもない。4人とも、すごく魅力的! やはり、もてる男になるのはそれなりに条件が厳しいようだ。ただし、もてる男が必ずしも幸せな一生を送るわけではない(これ、大事)。才能もほどほどで、育った家庭も平凡で、危険な香りもなく、美形でもなければ、それなりの伴侶を見つけて――モテようなんて野望は捨てて――地道に暮らしていくほうが幸せなんじゃないかな。もてる男の冒険は、本や映画で楽しむだけにしておいたほうがいい(かもね)。
『嵐が丘』――肉体という檻 2003.6
| 西欧の女性作家の翻訳物をずっと読んできて、やはり世界の名作『嵐が丘』は外せない。むかーし読んでるけど、すっかり忘れているので再読してみた。話の筋はみんな知っているだろうから省略するとして、内容とは関係ないことをいくつか。 まず、例によって翻訳について。私が読んだのは新潮文庫だが、あとでamazon.comで調べてみたら、さすが世界の名作、各社が翻訳を出している。岩波、集英社、角川、中央公論、みすず書房、旺文社、北星堂、京都修学社、金星堂など、その他に漫画化もされていて、びっくり。なにゆえに? なんといっても、しょっぱなから「お化け」が出てくるところが凄い。あのお化け、怖いよね。でも、もっと怖いのが生きている人間――ヒースクリフだ。このキャラクターは、現代ではちょっと許されないでしょう。だって、女を容赦なく殴るし、他人の財産をギャンブルで騙しとり、好きでもない女をだまして結婚して子供を産ませ、おまけにストーカーだし、墓暴きはするし、そのうえ誘拐・軟禁ときたら、れっきとした犯罪者ではないか……と現代人なら思うはずだ。 |
角川文庫の紹介文でも、「ヨークシャの古城を舞台に、暗いかげりにとざされた偏執狂の主人公と、その愛人との悲惨な恋を描く」というもの。「偏執狂」と片付けられちゃってるよ、ヒースクリフ。それに、「嵐が丘」と呼ばれるアーンショー家の屋敷、「城」とはいえないんじゃないかな。どうなんだろう。 そのヒースクリフの誘拐・軟禁だが、これはキャシー(キャサリンの娘のほう)を自分の息子リントンと無理やり結婚させようと企んだヒースクリフが、キャシーを嵐が丘の一室に閉じ込めて、強引に結婚を承知させるという場面。 ところで最近の家って、内側から鍵をかけることはあっても、外側からかけることはめったにない。私など、一人住まいで気楽なものだが、やはり怖いのは侵入者であって、内側からの戸締りしかふだん頭にない。しかし、新潟の誘拐監禁事件でもわかるように、人を閉じ込めることってわりと簡単にできてしまう。人間の肉体なんて非力なものだと思わざるをえない。弱いよね。 だが、考えてみると、この小説でいちばん「囚われて」いるのはヒースクリフなのだった。出自がわからないジプシーの子で、身分が低く、階級の壁を絶対に越えられないこと。キャサリンへの愛がけっして成就しないこと。そういう場所に置かれて、そこからどうしても脱却できないのだ。それにもかかわらず、キャサリンへの愛をあきらめきれない。本人にしてみれば、出自も階級も自分のせいじゃないんだから、悔しさのあまり地団駄ふむしかない。そんな理不尽さへの怒りから、すべての復讐劇が始まるわけだが。 さらにいえば、囚われているのはヒースクリフだけでなく、この世に生きる人間みんな何かに囚われているんだよね。世間体だったり、家族だったり、常識とか、先入観とかに縛られている。それに、そんな外部のものだけじゃなくて、肉体というのは、もうどうしようもない檻でもあるわけだ。魂と肉体が別のものだと仮定して、肉体に不満があったら、たとえば、いまあるこの肉体は私の本来のものではないと思ってしまったら?(性同一性障害の人たちはそうなのだと思う) 自分はもっと痩せているべきだとか、もっと背が高くあるべきだとか、私はもっと美しく生まれるはずだったとか。その不満が高じて、整形手術で全身を作りかえてしまう人もいる。そういう人って、きっと檻から解放されたいんだろうな。また、たとえ不満ではなくても、なにかをするときに、つねに肉体に縛られているような気がすることもある。肉体があるせいで、空腹や渇きに悩まされ、女だったら生理があるし、疲れたり、腰痛だったり、病気になったりする。魂が空高く飛んでいきたいのに、肉体が重荷となって地面に縛りつけられている――そう感じる人もいるはずだ。人が最期に解放されるのは、肉体から離れたとき、つまり死ぬときなのだろうか。 だけど、ヒースクリフの肉体は、強靭で、スマートで、長身で、顔もきれいで、魅力的なんだよね。そこが皮肉なところ。まるで、檻に入れられてもがいている美しい野生の獣のようだ。それを遠巻きに眺めて「ひどいよね、でもきれいだね」といっているのが私かな。『嵐が丘』……そういう小説だった。 |
ジェーン・エアにハマる 2003.7
先月は『嵐が丘』について書いたので、ここはやはり姉(シャーロット・ブロンテ)が書いた『ジェーン・エア』もとりあげなければなるまい。とかいって、じつは私は高校生のころ、『ジェーン・エア』にハマったことがある。『嵐が丘』より『ジェーン・エア』派だったのだ。 ところで、ちょっと話はずれるが、『嵐が丘』の新訳が出た。これまでの訳はちょっと古いなと思っていたので、これはグッド・ニュース。最近、新訳がブームである。フランクルの『夜と霧』やサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の新訳は話題になった。翻訳が話題になるというのは、翻訳者としては嬉しい半面、気持を引き締めてかからないといけないですね。このところの新訳ブームは、「文章が古びる」という事実が広く認識されるようになった現れだろうか。 『嵐が丘』の新訳は鴻巣友季子さんの翻訳。これが出ると知っていたら、旧訳ではなく新しい訳で読んだのにな。でも、新訳もちゃんと買いましたよ! 力の入った「訳者あとがき」(というか解説)がついている。(ちなみに鴻巣さんと私は誕生日が一緒だ)。そういえば、ヘンリー・ジェームズの『ねじの回転』も新訳が出たんだっけ。 | |
| で、『ジェーン・エア』だが、これは大久保康雄さんの訳。クラシックではあるが、ぜんぜん古びていなくて名訳だと思う。大久保氏(1905年生)、中野好夫氏(1903年生)、中村能三氏(1903年生)など、そのあたりから日本の翻訳はぐんとモダンになって、読みやすく、しかも格調高い文学性が出てきた……って、えらそうに。 『ジェーン・エア』でどこが好きかというと、孤児で、いじめられて、孤独に耐える娘という逆境が(私にとっては)魅力なわけだが、それに加えて、ジェーンの性格が「キツイ」ところがいい。ずっと年長の、しかも衣食住を頼らざるをえない叔母さん相手に「大ッキライ」といいはなつ。もちろん、そういわれてもしかたがないオバサンではあるが。 学校でのイジメもすごい。なにしろ、いじめるのが校長とか教師とか、ぜったい逆らえない相手だからね。そんな境遇でも、学問を身につけて、それを独り立ちするための手段にし、新聞広告を出して、就職先を見つけ……と、ジェーンはすごくインディペンデントな娘なのだ。 独立精神が強すぎるがために、就職先のお屋敷を無一文で出ていって、荒野で野宿しちゃったりするところは行き過ぎだろうが。 |
『ジェーン・エア』は映画化の機会も多くて、私の見ただけでも3種類ある。ジョーン・フォンテーン版(ロチェスターはオーソン・ウェルズ)、シャルロット・ゲンズブール版(ウィリアム・ハート)、BBC製作のゼラ・クラーク版(というか、これはティモシー・ダルトン版といいたいほど、ロチェスターがかっこいい)。 フォンテーンはジェーンにしては控えめで、真面目すぎ。もっと、内面にかっと燃えるところがあるといいんだけどな。子役時代のジェーンの親友ヘレン役でエリザベス・テイラーが出ている。オーソン・ウェルズのロチェスターは意外にはまり役だった。 ゲンズブールも、フランス人ではどうかな、と思っていたんだけど、予想外になかなか健闘している。美人ではないが奇妙な魅力があるところがいい。しかし、ウィリアム・ハートは完全なミスキャスト。黒髪・黒い目でないのがまずダメだけど、ソフトすぎるんだよね。ロチェスターはとっつきにくく、怖くて、迫力がなければいけない。それでいて、内面に弱さをもっている。ファニーなところもあるんだよね。ロチェスターとジェーンって。 BBC版は、とにかくティモシー・ダルトンの魅力につきる。暗いようで、明るい面もあって、ユーモアや傍若無人なところ、肉体的強さ、精神の奔放さがとてもステキ。惚れてしまいます。 |
|
4時間近い長さがあるので、丁寧に描きこんである。ジェーンもいちばん活気があって、気の強さと茶目っ気が出ている。子供時代のヘレンの死の場面がカットされていて、イジメの陰惨さがないところも計算のうえか。 とにかく長い小説なので、映画化するときに、どのエピソードを入れ、どれをカットするか、その工夫を比べてみるのも面白いのだ。フォンテーン版では、絵を描くところは全然出てこないしね。 高校生のときの私は美大めざしてデッサン修業をしていたので、絵を描くヒロインのジェーンに共感を覚えたのかもしれない。ゼフィレッリ版では、絵を描くシーンが多くて、ウィリアム・ブレイクばりの作品が見られる。これも、神秘的なラストにつなげる伏線としては優れている。 最後に、この変な「声」が聞こえてくる(別の男にプロポーズされたジェーンの耳に、ロチェスターの声が聞こえてくる)のが興ざめだという友達もいたんだけど、そういう超自然で不可解なところも、私は好きだった。
ナオミたちの憂鬱 2003.8
| 日本の文学史上、特筆すべき「悪女」「妖婦」といえば、谷崎潤一郎『痴人の愛』のナオミだろう。エロとか、サドマゾとか、そんなイメージの強い小説だが、じつはセックスシーンは意外にないということ、知ってました? 内容はご存知のとおり、実直な28歳の技師が、カフェエでみそめた少女を引き取って育て、洗練された立派な近代女性として教育してやるつもりが、その肉体の魅力に溺れてめろめろになってしまい、やがてわがまま放題の奔放なナオミに振り回されるという物語。 このナオミの年齢だが、物語の始まりでは数え年の15歳である。時代は大正六年(1917年)の設定だが、数えで15歳というと、いまの14歳、中学生である。そこで連想したのが、渋谷にたむろするガングロ(すでに古い?)茶髪の女子中学生たちである。ナオミの容貌、態度などが、彼女たちに通じるのだ。たとえば、カフェエで働くナオミのこんな描写。 |
「……陰鬱な、無口な児のように思えました。顔色なども少し青みを帯びていて、たとえばこう、無色透明な板ガラスを何枚も重ねたような、深く沈んだ色合いをしていて、健康そうではありませんでした」 こんな描写、渋谷の女の子たちにも通じないだろうか? さらに語り手の譲治(ジョージ)がナオミを引き取ったあと、2人で着せ替えごっこのようにして遊ぶ場面。 「……そんな高い物でなくってもいい。めりんすや銘仙で沢山だから、意匠を奇抜にすることだね」 というわけで、服や着物はすべて安っぽく派手なものばかり。まさに109の世界ではないか。そんな衣装をとっかえひっかえナオミに着せて、ポーズをとらせ、写真を撮る。要するに、コスプレ――しかも汚い。 「数は多いがみんな安物であるし、どうせそばから着殺してしまうのだから……そしてめったに洗濯をしたことがなく、おまけに彼女はそれを素肌に纏うのが癖でしたから、どれも大概は垢じみていました」 |
ルーズソックスをめったに洗わない不潔な女子中学生というのが話題になっていたが、まさにそのまま。しかし、ただの貧相な女子中学生でないところは、ナオミの裸身の豊かさである。以前ダイエットの広告で「術前・術後」の写真を見て、大きな違和感をもったことがある。術前の写真では両脚のあいだに隙間がないのに、術後の写真では太腿のあいだに隙間ができており、それを「痩せてダイエットに成功」と称しているのだ! 私の感覚によれば、隙間がある脚はいわゆるO脚で――マツダ聖子の脚がそれだが――グラマーとは言いがたいのだ。 もちろん、聖子(および、個々人)のスタイルに文句をつけているわけではなく、理想的なグラマラスな体型というからには、太腿のあいだはぴったりと密着していなければならないという思い込みが私にあっただけのこと。それが「術後」の脚の隙間を見て、愕然としたわけである。そんな思い込みを構築することになった根拠のようなもの――それをナオミの描写に発見! 「……両腿をぴったり合わせると、脚と脚の間には寸分の隙もなく、腰から下が足首を頂点にした一つの細長い三角形を描くのでした」――そうそう、こうでなくちゃ。 |
|
「……なで肩で、頸が長いものは、着物を脱ぐと痩せているのが普通ですけれど、彼女はそれと反対で、思いの外に厚みのある、たっぷりとした立派な肩と、いかにも呼吸の強そうな胸を持っていました。ボタンを嵌めてやる折に、彼女が深く息を吸ったり、腕を動かして背中の肉にもくもくと波を打たせたりすると、それでなくてもハチ切れそうな海水服は、丘のように盛り上がった肩のところに一杯に伸びて、ぴんと弾けてしまいそうになるのです」 いいですね! ぴちぴち! 風船みたいに、はじけそうな肉体。ほかにも、風呂に入れてやると、皮膚の上を水滴がころころと弾けて流れるという描写がある。全身に脂肪がのった、じつに魅力的な若い女の肢体が浮かんでくる。 そのナオミの体型だが、身長152センチで体重が53キロである。15歳のときは45キロだったが、3年ちょっとでそこまで成長した(ついでにいえば、ジョージは身長157センチ、60キロ)。いまの感覚からすれば、ナオミは少々太めかもしれないが、それでいいのだ! 最近の日本人の女の子、ちょっと痩せすぎ! ところで、ジョージに引き取られたあと、ナオミが教養を身につけるためレッスンに通いはじめるのが「英語と音楽」である。大正時代から、モダン・ガールになるには英語と音楽が必須だったようだ。こんなところも現代社会に通じるものがある。いまの若者たちも生きていくのに「英語と音楽」が必須だと思っているんじゃないかな? 欲望に忠実で、その日暮らしで、性的にだらしなく、人を利用しようとするときだけは知恵が回る――そんなナオミが現代に生きていたら、たちまち性犯罪に巻き込まれてしまっただろう。小説の中でも、周囲の群がる若い男たちからは蔑視され、ひどい扱いを受けているのだ。しかし、ナオミが殺されもせず、警察沙汰にもならないのは、ジョージ・パパ(といっても、まだ36歳)が守って(溺れて?)いるからである。 この小説の冒頭、谷崎はこう書いている。「私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いてみようと思います」。そして、「今まではあまり類例のなかった」そんな関係も「追い追い諸方に生じるだろうと思われますから」と。 確かにいまの日本の都会には年若い「ナオミたち」が闊歩しているように思える。だが、この世はジョージのように甘い男ばかりではない(それに、ジョージだって、いつなんどき、豹変して危険な男になるかもしれないのだ)――渋谷の赤(垢?)頭巾ちゃんたち、どうか気をつけて! |
ダイヤモンドは女のいちばんの親友 2003.9
 『金色夜叉』 尾崎紅葉、新潮文庫 | 上のタイトルはご存知、コメディ映画『億万長者と結婚する方法』でマリリン・モンローが歌って踊るキュートなナンバーである。これをマドンナがパロったのが『マテリアル・ガール』。どっちもヒットした。つまり、女にとって大事なものは「お金と愛」。このどっちかを選べといわれたら……これは文学における永遠のテーマだ。 というわけで、先月の『痴人の愛』のナオミと並んで日本文学史上、群を抜いて有名な悪女――あるいは浅はかな女――の代表、「お宮」について考えてみたい。 ところで「おみや」「みやさん」というと、いかにも明治というか、古い感じがするが、ナオミの本名が奈緒美だったのと同じように、お宮も「MIYA」とローマ字表記すると現代風になるね。「みやや」とかいって、アイドルの名前になりそうだ。貫一は彼女のことを「みいさん」と呼んでいる。ミーチャンハーチャンの意味をこめているわけではないだろうけど……。その貫一のほうは、ルビが「かんいつ」――「かんいっつあん」というのは、これは古いね。 |
……と、どうでもいいことをぐだぐだ書いているが、考えてみれば、この小説のドラマは、このアイドルになりそうな名前の「MIYA」と世話物に出てきそうな「かんいっつぁん」のあいだの感覚のギャップにあるといえるかもしれない。 ストーリーはおなじみだが、意外に知らない人も多いだろう(私も初めて読んだ)。物語は正月のカルタ会から始まる(カルタといっても「犬も歩けば」なんてのじゃないよ。二手に分かれて競いあう百人一首大会である)。銀行頭取の息子で洋行帰りのモダンボーイ、富山(とみやま)が現れると、燦然と輝くダイヤモンドの指輪が一座の注目の的となる。男がダイヤモンドの指輪って……(でも、いまでもダイヤをちりばめた腕時計をしているヤツがいるよね)と眉をしかめるのは半分やっかみか。 その場には、とびきり美貌だがさほど裕福ではない娘、お宮がいて、富山は彼女をみそめる。ところで、貫一のほうは15歳のときに親をなくし、お宮の両親に引き取られて、彼女と家族同然に育ち、ゆくゆくは結婚することに決まっている。
しかし、富山に求婚されたお宮は貫一を捨て、富山のもとへ嫁ぐのである。そのことを彼女の父親から知らされた貫一は、彼女の本心を知ろうと熱海まで追ってくる。そこで有名な熱海の海岸のシーンになるわけである。 その先の物語はというと、振られた貫一はやけになって学問を捨て、悪名高い高利貸しの手下になり、女高利貸しの満枝(みつえ)に惚れられて激しく迫られるが、お宮への恨みはつのるばかりで新しい恋どころではない。お宮のほうは、富山との結婚を後悔し、悶々とした日を送る。お宮と満枝が貫一の前で取っ組み合いになり、2人とも血まみれになって死ぬという修羅場があるかと思うと、これが……ネタばれにつき伏字……だったり。 この結末は果たしていかに、と気をもたせるが、なんと紅葉先生、完結しないで死んでしまうんですね。それはないでしょう。どう決着をつけるつもりかとハラハラしていたのに! 誰か完結編『金色夜叉』を書かないのだろうか(ひょっとして、ある?) この小説を読んで現代人がいちばん違和感を覚えるのが、恋愛の平等についての概念だろう。お宮と貫一の恋は、どこから見ても、貫一の一方的な片思いなのである。現代では、たとえ婚約中でも愛情が冷めれば破棄するのが当たり前と思われているはずだ。そもそも貫一のどこに魅力があるのか、読者にはよくわからない。もちろん、お宮にもわからない。満枝という女高利貸しが貫一に惚れるのも、よくわからない。どうも、貫一の魅力が書けていないらしい。容姿についての形容は「アルフレッド大王に似ている」という奇妙なセリフがあるだけなのだ。女に振られてヤケになる貫一を純情とみるか、ふがいないとみるか……むずかしいところではある。 |  アルフレッド大王の肖像 (ネット検索で見つけたこの図、使用はフリーとのこと。太っ腹!) |
ダイヤモンドをひけらかす富山にしても、妻のお宮を精一杯かわいがろうとする憎めない男ではある。どうしても心を開かない妻にがっかりして浮気をしちゃったりする話も脇筋にあるとはいえ、これはお宮のほうが悪いよね。 そもそも、有名な熱海の海岸のシーン、貫一は女を足蹴にするんだよ! いくら振られたからって、泣いて謝っているお宮をね……お宮のほうも、もっとはっきり「愛情が冷めました」のひとことくらいいってやればいいのに。暴力男! 愚かなのはどっちだ!……と、つい興奮してしまいました。 貫一の願望は、あくまでお宮と暖かい家庭を作ることなのである。ところが、お宮のほうはもっと大きな野心をもっていた。自分が美貌であり、世間もそれを認め、男たちに注目されるということを自覚してしまったのだ。それを知ってしまったお宮は、ぱっとしない実家で、家つき婿である学者(になる予定)の貫一に仕えるだけという平凡な一生を送りたくなかった。 これが現代だったら、たとえば三浦りさ子、梅宮アンナ、岡田美里など、仕事の上で代表作はこれといってないが、有名人の係累があることと、美貌とおしゃれ、それにマスコミに顔を出していることによって、タレントとみなされている女性たちがいる。たぶん、お宮はこういう存在になればよかったのだろう。美貌も一つの才能だとすれば、それを生かしたいと願うことのどこが悪いのだろう。 お宮が貫一のことなど忘れて、富山夫人として社交界でのしあがっていったら……『真珠夫人』の世界になってしまう。そこまでふっきれず、野心を抱きながらも、古い倫理観に縛られて動きがとれないお宮に共感する女性たちが当時の読者の中には大勢いたにちがいない。そう、貫一お宮の物語を熱中して読んだ女性たちは、みんな心の中に「お宮」を住まわせていたのである。 いま、世の中のすべての女性の大半が「マテリアル・ガール」になっているが、それも男の「百万長者」にダイヤをちょうだいとせがむのではなく、マドンナのように自分で稼ぐようになっている。お宮が現代に生きていたら、きっと「MIYA」と名乗ってアイドルになっていたことだろう。そのとき貫一は、富山は、そして尾崎紅葉先生はどうしただろう。
|
ときには親のない子のように 2003.10
 『多情多恨』 尾崎紅葉、新潮文庫 | 先月、『金色夜叉』の貫一の魅力がどうもわからないと書いたが、その後、同じく紅葉先生(『婦系図』の「真砂町の先生」のモデルだもんで、つい先生と呼んでしまう)の『多情多恨』を読んで目が開かれた。ここに貫一のプロトタイプがあった! 『多情多恨』は単純な話で、鷲見(すみ)柳太郎という主人公(若い大学教授)が病死した妻を思っていつまでもうじうじと泣き暮らし、見かねた親友の葉山が家に引き取って面倒をみてやるうちに、鷲見は葉山の妻にほのかな恋心を抱くという筋書き。 大きな事件はほとんどないに等しく、しつこく描かれるのは鷲見という男の性格である。ひどく内気で、よく知らない人間にはなかなか打ち解けられないが、いったん心を許すとずぶずぶと親しくなる。友達といえるのは葉山一人、親しめるのは妻だけで、そんな生活に心から満足していたのだが、その妻に死なれて寂しくてしかたがない。 あいつは嫌い、こいつは気ぶっせいといって、人付き合いを避けているので、孤独が好きなのかと思うと、これがじつはものすごい甘ったれなのである。だから、唯一心を開ける相手だった妻をいつまでも恋しがる。 |
小さな世界に安住して、きれいでやさしい妻さえいれば幸せ――そこが貫一に共通するところ。葉山の妻などは内心、そういう鷲見を「男らしくない」「もっとしゃんとしなければ」と批判的に見ている。 鷲見のほうも、親友の葉山は大好きなのだが、その妻のほうはなんとなく嫌いで、最初のうちは忌避している。ところが、葉山家に居候するようになり、しかたなく顔を突き合わせているうちに、だんだん慣れてくる。慣れるにつれて、甘えたくなってくる。こうして友人の妻に横恋慕する、という筋書きになる。(ちなみに、こういう人見知りの性格、私も自分がそうなので、すごくよくわかる。人間嫌いというより、人に慣れるのに時間がかかるのである。) だが、思うに、鷲見のこれは恋愛じゃないね。たんに感情の捌け口になる異性の相手ができたというだけ。鷲見にとっては、死んだ妻も、親友の妻も、遠慮なく甘えられる相手でしかないんだよね。ただ、この甘ったれの鷲見は、なんとなく愛嬌があって憎めない。だだっ子みたいにすねたり、甘えたり、気まぐれでわがままだが、世間の男が忘れてしまった純なところがある。たぶん、貫一にもそんな魅力があったんでしょうね。 |
ところで、話は飛ぶが、日本で人気のある(翻訳)少女小説3編を選ぼうと思って、候補をいくつかあげたことがある。
『赤毛のアン』 『足ながおじさん』 『秘密の花園』 『小公女』 『少女パレアナ』 『若草物語』 『二人のロッテ』 なんと最初の5つまで、主人公が孤児である。『若草物語』は両親そろっているとはいえ、父親が戦争に出かけていて、家には不在である。『ロッテ』は両親が離婚して片親しかいない。 そして、ハリーも孤児だった! 今月のゲストコーナーでとりあげた『ハリー・ポッター』のハリーね。 親がいないという設定がドラマのファーストステップなのである。読者(子供たち)にしてみても、親がいないという状況はなんだか心惹かれるものがあるにちがいない。私も子供のころ「みなしごだったら」と想像して、なんだかわくわくしたことがある。 それが『多情多恨』と、どう繋がるのか。この鷲見という男、要するに親を亡くして途方に暮れている子供……孤児なのである。ただし、その悲しみを乗り越えて冒険に出かける、という少女小説みたいな展開にはならないけどね。 そして、『金色夜叉』の貫一。彼もまた孤児だった(中学生のときに天涯孤独の身になり、お宮の両親のもとに引き取られる)。波乱万丈の『金色夜叉』は、親をなくした子供がさまざまな試練を乗り越えて成長していく大冒険活劇ドラマと読むこともできる……かもしれない(ちょっと無理かな?) |  いまは亡きイエナ書店にあったハリー・ポッターのポスター |
友達はいますか? 2003.11
 The Map that Changed the World by Simon Winchester | およそ3か月かけて、The Map that changed the World を訳了した。イギリス地質学の父と呼ばれるウィリアム・スミスの伝記である。まだ貴族が社会の中枢にあり、科学の世界でさえ肩書きがものをいった十八世紀のイングランドで、ごく普通の庶民だったスミスは独学で測量を学び、やがて地下の累層(重なり)の法則性を発見し、ほとんど独力で世界初の大規模な地質図を作った。 自分の足と目を駆使してイギリスの地質を確かめ、観察と記録という科学の基礎的な手段によって新しい思想をうちたてたのだ。しかし、そんな汗まみれ、泥まみれの労働が、貴族階級の目には卑しいものと見えたらしい。地質学会の重鎮だった貴族の一人にさんざん嫌がらせをされ、あげくのはてには破産に追い込まれて、忘れられた生涯を送るかに見えた。 だが、地質学会は最後に自らの過ちを認めた。権威ある団体がいさぎよく謝罪するというのは、ある意味で、えらい。スミスの名誉は復権され、晩年は栄誉に包まれた。伝記の翻訳をしながら一人の人間の生涯を追っていくと、いつのまにか感情移入して、本当にこの人には幸せになってほしいと願っているのに気づく。その意味で、晩年幸せになったスミスの伝記は後味がよかった。 |
話は変わるが、先日、東大阪にある司馬遼太郎記念館へ行ってきた。住居の庭の一隅に安藤忠雄設計のライブラリーが建てられ、蔵書の一部や原稿や色紙が展示してある。司馬遼太郎の仕事の偉大さは、改めていうまでもないだろうが、この記念館で印象に残った一文があった。教科書に載った『二十一世紀に生きる君たちへ』というエッセイの一節である。 「……歴史の中にもたくさんの友人がいるのである。膨大な時間の堆積の中に、この世には求めがたいほどにすばらしい人たちがいまも生きていて、わたしの日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれている」 私にとって、伝記を翻訳する楽しみは、まさにこの言葉にある。これまで翻訳してきた伝記の主人公は、みんな友達に思える。それに、いわゆる偉人伝は翻訳していない。あまり偉すぎて、欠点がなく、成功ばかりしてきた人(ま、そんな人はいないけどね)はちょっと苦手なのだ。失敗し、挫折し、それでも情熱に駆られ、一途に突き進み、また不遇に涙し、悔しがり、世間の無理解に負けそうになりながら、でもユニークな生き方が変えられない――そういう人が好きだ。 そして、この一文でとくに目をひかれたのは「なぐさめたりしてくれている」という部分だった。すばらしい才能に恵まれ、傑作をいくつも送りだし、これほど日本人に愛された作家は稀有だと思える――あの司馬遼太郎でさえも、歴史上の友達に「なぐさめ」られなければいけない日常を送っていたのだなと思って、胸を打たれたのである。 |  庭に面した司馬遼太郎の書斎 |
ところで、ウィリアム・スミスという人は岩石や地層や、そこから発掘される化石が本当に大好きだった。世間から忘れられても、あちこち(自費で)歩きまわって、地層の観察や化石の発掘を続けた人なのだ。そこで、上の文章の「歴史」という言葉を「地層」に変えると、スミスの心境になる。「地層の中」の化石が彼の友人だった。膨大な時間――そして岩石――の堆積の中に埋まっている「化石」が、彼をなぐさめ、はげましてくれた。地質学という(当時)最新の学問は、スミスが化石の語る言葉に耳を傾けるところから誕生したのである。 ちなみに、化石を友とする研究者は現在にもいて、たとえば『三葉虫の謎』を書いたリチャード・フォーティはみずから「三葉虫中心主義者」と名乗り、「化石は友達」どころか「14歳の時に三葉虫と恋に落ちた」といっている。やっぱり、こういうヘンな人間がおもしろいよね。
『世界を食いつくせ!』出版記念 「ロンドンおいしいもの尽くし」 2003.12
|