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ぐるぐるくん 野中邦子(2005.1.3更新) |
![]() 『妾の半生涯』 福田英子 岩波文庫 ![]() 『歴史と小説』 司馬遼太郎 集英社文庫 |
憂国と貞節 今月の本は岩波文庫の『妾の半生涯』福田英子。解説によると「近代日本女性史研究のための必読の文献」である。 ところで、タイトルは「めかけ」とは読まない。「わらわのはんせいがい」である。 この本は1865年(慶応元年)生まれの福田英子による自伝で、刊行は明治37年(1904年)。ちょうど百年前の本だ。百年ちょっとで日本語も大きく変化した。文章はもちろん文語体で、一人称も今とはだいぶ違う。タイトルの「妾=わらわ」もいまや死語だが、この「妾」という語、本文中では「しょう」とルビがふってある。さらに監獄中に英子が書いた術懐(調書のようなもの)では自分をさすのに「儂」の文字(「のう」とルビあり)が使われている。いわゆるワシズム(小林よしのり)の「わし」である。 内容は、岡山に生まれた秀才の英子が自由民権運動に身を投じ、大阪事件の紅一点として有罪判決を受け、投獄、いちやく有名になった経緯の回想が主体であり、そのほかに女性の自立をめざした活動、社会主義への傾倒、不幸な結婚や男性関係が語られる。 大阪事件は司馬遼太郎の『坂の上の雲』(や漫画『日露戦争物語』)にも描かれているが、1884年の朝鮮における軍事クーデターの失敗を受けて、清国への反感を募らせた旧自由党員が朝鮮の独立を支援して半島で武力抗争を起こそうと画策した事件である。 この計画の実行要員としてただ一人加わった女性が英子で、女だから怪しまれないだろうと爆薬の運搬をゆだねられる。だが、仲間の裏切りや不手際のために長崎で逮捕され、大阪の監獄に送られ、裁判にかけられ、有罪判決を受けたのだった。 おもしろいエピソードがある。 釈放されてから、あるとき耶蘇教伝道師と称する男が訪ねてくる。英子が会うと、その男はびっくりして口もきけないようす。さしだした手紙を見ると、なんと結婚の申し込みである。女の身で大阪事件にくみしたのは、さぞかし「容貌醜矮突額短鼻一目鬼女怪物」(要するにひどいブス)ゆえにデスペレートになってのことだろう。先妻は姦夫と出奔し、孤独の身である。そんな醜女であれば、逃げられる不幸もあるまいと思って求婚しにきた、というのだ。そんな男がけっこう美人の英子を見てビックリ仰天、狼狽して頭に血が昇り、ナイフを出して「結婚を承諾せよ」と脅迫しはじめる始末。まったく、男というものは……。 |
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ところで、司馬遼太郎の『歴史と小説』(集英社文庫)に「維新の人間像」という対談(相手は萩原延寿)があり、その中で司馬は(家持暗殺計画への参加を高杉晋作に断わられ、その場で腹を切った武士について)「ああいうファナティックなものは二流以下の志士の気分であって」といっている。 どうやら大阪事件を起こした「志士」たちも「二流の志士」だったらしい。彼らは英子などシンパが苦労して集めてきた軍資金を遊郭での遊びや酒に使いはたし、あげくのはてにリーダーの磯山は金を持ち逃げして姿をくらましてしまうのだ。 同じくメンバーの一人葉石は、英子と婚約していたにもかかわらず、おおっぴらに遊郭にくりだして恥じることもない。 男たちは、まじめな英子がどんな顔をするかと、打ち合わせと騙して宴席に呼び出したりもする。少ない軍資金を浪費する「たわけの振る舞い」に英子は腹を立て、厳しく糾弾したのち「畳を蹴立てて」帰ってしまう。 しかし、その意味では維新の英雄、高杉晋作も相当な「たわけ」である。藩から留学費用として引き出した三千両を長崎の遊郭で濫費し、その狂態には腰ぎんちゃくの伊藤俊輔(のちの博文)さえも「恐ろしく思った」という。正妻と妾(ここは「めかけ」)を鉢合わせさせたりもしたらしい。 |
![]() けっこう美人の英子 |
![]() 「たわけ」の高杉晋作 ![]() 革命思想は過激だが、性的には貞節な松陰先生 |
維新の浪士たちもほとんどが遊郭通いをしたし、新選組も桂小五郎も遊郭の女となじみだった。遊ばなかったのは、最も過激な革命論を唱えた松陰先生くらいのものだ。 いくら「たわけ」でも、革命に成功すれば「英雄」である。大阪事件に連座した「二流の志士」たちも国事犯として声望をかちえ、刑期を終えて出所したあとは地方政治でそれなりの要職(代議士とか)についたという。 しかし、まじめな英子にとっては、憂国と貞節とはストレートに結びついていた。女性がないがしろにされるのは教育がないせいだと考え、女が経済的に自立できるように女子工芸学校を開いたりするのである。 「女子教育は長足に進歩しているが……いわゆる工芸科も奢侈贅沢に傾き、実際に生計の助けにはならない……中流以下の家庭には賢婦人がなかなか出ない。家庭を管理し、夫を補佐するにも教育は必要だし、不幸にして夫に別れることもないとはいえない。独立の生計をもてば、困窮せずにすむ」(口語訳筆者)――というようなことを書いていて、きわめて説得力にとむ。 とはいえ、本書の解説を読んでその後の生涯を辿ると、どうもこの英子さん、男を見る目がないようでもある。 大阪事件の仲間で、英子の婚約者だった葉石は彼女の目の前で恥ずかしげもなく遊郭に出入りするし、二度目に結婚の約束をした同じく同志の重井は妻子ある身で、離婚すると約束しながら、なかなか実行しない。そのうち英子は妊娠して男児を産むが、その間に重井は英子の親友の女とデキてしまう。 重井と別れ、赤ん坊を養子に出した英子が次に結ばれるのが福田友作である。『妾の半生涯』では相思相愛といい、立派な男のように書かれているが、これもちょっとどうかと思う。友作は資産家の長男で、家を継がなければならない。いやな結婚を強いられて、それから逃げるためにアメリカへ留学し、法学士となるが、家との折り合いが悪く勘当同然となる。家庭が冷たい、親の理解がないと、あれこれ理由はあげてあるが、本人にも弱いところがあったらしい。 「覚えずも魔の道に踏み迷い、借財山の如くになりて」ついに「父上の怒りに触れ」る。しかも洋行帰りのハイカラーを気取って「有志といえる偽豪傑連よりは、酒色をもって誘われ、その高利の借金に対する証人または連借人たることを承諾せしめられ、はては数万の借財を負いて両親に譴責せられ、今は家に帰るを厭いおる時なりき」 酒色で誘われるなよ! 借金の証人になるなよ、法学士でしょうが! そのあげく脳を病んで、36歳で死んでしまう。 憂国の士といえども、人間的に立派とはかぎらないのである。とくに女性の目から見ると志士なんて底が浅いものだということになる。まあ正直いって、(明治の)男は(なにしろ飯も炊けず、掃除洗濯もできず、子供も育てられないんだから)「国を憂えるくらいしか能がない」といえるのかもしれないね。 (のなか くにこ)
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ぐるぐるくん 野中邦子(2005.2.2更新) |
![]() 映画『エマ』 エマ役のグウィネス・パルトロウ |
ガヴァネス小説の見どころ 近代英米小説に出てくる女性の職業として、ガヴァネス(governess)というのがよく出てくる。ランダムハウス英語辞書を引くと、まず最初に「女性の家庭教師。子供のしつけ・教育などを受け持ち、住み込みの場合が多い」という説明がある。 これだけでは、ガヴァネスが社会および家庭内でどういう立場にあったのか、はっきりとはわからない。 日本語で家庭教師というと、受験生のための大学生のアルバイトというイメージがあるが、ガヴァネスはちょっと違う。むしろ、子供の世話係という意味合いが強いようだ。その家庭にとっては、あくまで雇い人であり、「先生」として尊敬されているわけではない。赤ん坊のうちは乳母(ナニー)が世話をするが、4,5歳になると乳母ではなく、ガヴァネスにしつけをまかせる。『メリー・ポピンズ』を見ると、メリーのしつけは教養よりもお行儀が優先という感じなので、ナニーとガヴァネスの中間というべきか。ただし、メイドのような雑用はいっさいしない。西欧では家庭内の使用人のあいだでも役割分担がはっきりしている。 小説に出てくるガヴァネスを見てみよう。 『ジェーン・エア』のジェーン。ヘンリー・ジェームズの『ねじの回転』の主人公、ジェーン・オースティンの『エマ』に出てくるミセス・ウェストンもガヴァネスだった。 孤児院で育った貧しいジェーンは、その辛い環境から脱するため、勉学に励んで女家庭教師になる。自活するにはそれしか選択の余地がないからだ。ガヴァネスとして住み込んだロチェスター家では、いちおうお嬢さんの手前、「先生」と呼ばれるものの、お屋敷に長く勤める女中頭よりもやや下という立場である。上流階級の客たちには、あからさまに下に見られている。 『ねじの回転』の主人公は名前がなく、一人称の「わたし」あるいは「彼女」「若いレディ」として登場し、呼びかけるときはつねに「先生」である。彼女も「貧しい田舎牧師の末娘」で「おどおどと胸をはずませている少女」(年齢はこのとき20歳)だった。 |
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『エマ』のミス・テイラーは、主人公のエマが5歳のときから16年間、住み込みの家庭教師を務めた。エマには母親がいなかったので、彼女は母親がわりでもあり、エマの家庭には欠かせない人だった。しかし、近所に住むミスター・ウェストンと結婚してエマの家を去ったのである。エマの父親は、ミス・テイラーが結婚などせずに、ずっと家(エマの家、つまりミス・テイラーにとっては赤の他人である雇い主の家)にいたほうがずっと幸せだったのに、などと思っている。だが、エマ一家の友人で良識派のミスター・ナイトリーはこんなことを言う。 「ミス・テイラーの年になれば、自分の家庭をもって落ち着き、暮してゆけるだけの収入があるということはとても大事なことですからね」 そうなのだ。 ガヴァネス(女家庭教師)の共通項は「貧しい」ことである。裕福な家庭の娘はけっして女家庭教師にはならない。しかし、階級として見た場合、下層というわけでもない。裕福とはいえない(貧しい)が教養のある中流家庭の娘――それがガヴァネスの供給源なのだ。 下層階級に育った娘では、子供の世話をしたり、文字を教えたり、マナーを教えたりすることができない。かといって、女性が高等教育を受けられる時代ではなかった。つまり、牧師の娘や医者の娘といった、資産家ではないが、それほど生活レベルは落とせない、という娘たちがガヴァネスになるのだった。 しかし、ナイトリーが言うように、ガヴァネスは専門職ではなく、ただの雇い人である。なんの保障もない。雇い主の思惑一つですぐにお払い箱になる。十代や二十歳のガヴァネスが当たり前だから、年をとってまで続けられる仕事ではない。 できれば、結婚相手を見つけて、家庭に収まるのがいちばんなのだ。 |
![]() グレタ・スカッキが演じた ミス・テイラー (ミセス・ウェストン) |
![]() 『ねじの回転』 H・ジェイムズ 蕗沢忠枝訳 新潮文庫 |
ジョージ・ギッシングの『余った女たち』には、そんなガヴァネスの惨めな行く末が描かれている。この姉妹の父親は医師である。当時のイギリスは男女の人口比がアンバランスで、女性の数が何万人も多かった。当然ながら、結婚できない女性が大勢出てくる。なんとか自活する道を見つけなければいけないのだが、父親は、娘たちに「せいぜい女家庭教師になれる程度の教養を身につけさせておけば、いずれ結婚相手が見つかるだろう」と甘く考えて、専門教育を受けさせない。そのまま、父親はぽっくり死んでしまう。 残された姉妹たちは、女家庭教師や店員としてほそぼそと暮してゆくしかない。あいにく美貌に恵まれなかったので、夫もつかまえられない。そうなると、年をとったら悲劇である。狭い貸間を姉妹で分けあって住み、食費まで切り詰めなければならない。姉はぶくぶくに太り、妹は隠れて酒を飲む癖がついてアル中に。 末の妹はガヴァネスにもなれずに女店員になるが、幸いちょっとした美人だったので、かなり年上の男をつかまえて愛のない結婚をする。しかし、幸せとはほど遠い。 父親の思慮が足りないと責めるのはたやすいが、当時のイギリス社会では、女性の仕事で世間に認められているものといえば、女家庭教師か看護婦くらいのものだった。結婚相手となる男の人数が少なくて「余った女」が出るのは計算からして当然なのに、その一方で、女が働ける場は限られている。これでは未婚の女性にとって二重の重荷である。 一方、この不幸な姉妹の友人である別の娘は、女も男なみに働かなければいけないと考え、女性のための職業訓練校を開く。彼女はフェミニストの先駆である。新しい技術であるタイプライターを教え、若い娘たちに自活の道を示す。のちにワーキングウーマンの典型といえばタイピストとなるが、これがその端緒だったわけだ。 ひとことで女性の職業といっても、その時代、その社会ごとに、さまざまなイメージがつきまとい、また時間がたつにつれて、紆余曲折を辿りつつ変化してきたことがわかる。 ガヴァネスという仕事も、女性教育の場がなかったからこそ、存在した職だった。男子と同じように女の子も教育が受けられるようになるにつれ、ガヴァネスという職も消えていった。また、19世紀には女権拡張運動と結びついていたタイピストという仕事が、20世紀になるとシティガールの象徴になり、やがて現代になると総合職に対する一般職として一段下に見られるようになる。 てなことを考えていると、ガヴァネス小説を読む楽しみがまた増えるのである。 ちなみに、『余った女たち』はものすごく面白く、かつまた悲惨な小説なので、いずれじっくり書いてみたいと思います。 (のなか くにこ)
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ぐるぐるくん 野中邦子(2005.3.1更新) |
![]() 『余った女たち』 ギッシング著 倉持三郎・倉持晴美訳 ニューカレントインターナショナル |
余った女たち――1 アリスは19歳、平凡な顔立ちの、内気でおっとりした娘である。六人姉妹の長女で、母はない。父のマドン医師は明日は生命保険に入ると決めた。すぐ下の妹ヴァージニアはきれいだがひよわな娘、あいだに三人がいて、末の妹のモニカは五歳のかわいい子だった。 マドン医師は娘たちにできるかぎりの教育を授けた……と当人は思っていた。家と地域の学校、そのあとは独学で、家庭にはつねに本がある知的な環境。だが、職業につくための専門教育は受けさせなかった。いざとなったら教師にはなれるだろうし、その「いざ」というときのことなど考えたくなかったのだ。なんとなく、神様はたぶん自分たちにひどいことはなさらないだろう、という気持があった。なんの根拠もなく。 マドン家の娘たちの友達にローダ・ナンという娘がいた。15歳だが、年齢より大人びていて、母親が病身なことから、将来は学校教師として自活しなければならないと覚悟していた。女も国会の議席を得るべきだと考える小さな女権拡張論者である。 その夜、マドン医師は馬から落ちるという事故で急死する。 |
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それから16年後の1888年。5人の娘はさほど多くもない遺産を分け、ちびちびと使うことで生き延びてきた。姉妹のうち3人は不幸にも死んでいた。父が死んだあと、アリスは住み込みの子守り兼家庭教師をしていたが、子供たちが学校へ行くようになって職をなくした。ヴァージニアは「あるご婦人のお相手役」をしていたが、その婦人が亡くなったため自活しなければならず、妹モニカの勤めるロンドンの商店のそばの下宿を見つけた。職はない。やがてそこに、同じく職を失った姉のアリスが転がり込んでくる。 36歳のアリスは、坐っていることが多かったために(翻訳者も気をつけよう!)肥満していて、足が短く、顔色が悪い。顔立ちは平凡で、たるんだ二重顎、歩き方もちょこちょこと不恰好だった。33歳のヴァージニアはかつて器量よしだったことをうかがわせるが、貧血のため血色が悪く、このところ急速に老け込んでいる。遺産の管理は後見人(当然、男性である)にまかせてある。末娘のモニカは21歳。ほかに能力がなかったので、店員になるしかなかった。だが、きれいで明るく、魅力的な娘になっている。姉2人はもう結婚できそうな見込みはなかった。しかし、モニカは結婚するにちがいない……それが姉妹の唯一の望みの綱だった。 さて、そんな状況のところに、小さなフェミニストだったローダ・ナンが登場する。ヴァージニアより1、2歳若いだけなのに、オールドミスになりかけといった哀れな様子はない。肌は青白いがしみもなく、丈夫そうな体つきで、きびきびした身のこなし。意志的な顔立ちで、知性やユーモアを感じさせる。色っぽいという言葉にはほど遠いが、時に応じて微妙な女らしさが見える……新しい女の魅力だった。 ローダは教師をしていたが、母のわずかばかりの遺産が入ったとき、教師を辞めるためにあらゆる勉強をした。速記、簿記、商業通信など、1年かけて必死で勉強したのだった。遺産を食い潰してきたアリス姉妹とは、ここが違った。お金は使うためにある、という教訓。姉たちに勧められて、末娘のモニカがローダのもとを訪ねてくる。 |
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いまのローダの目標は? と、モニカが訊ねる。 「女性をしっかりさせること」だとローダは答える。 モニカは、ローダが結婚に反対なのだろうと思って、腹が立つ。女たちに独身でいろというつもりだろうか? しかし、そんなモニカの反感をローダは敏感に察知する。 「この幸せなわが国(イギリス)には、男よりも女が50万人も多いこと、知ってるかしら?」 ローダはその数字に驚く。 「……そんなにたくさん余った女がいるの。そういう女は役立たずで、落ちこぼれで、無用の存在だといわれる。でも、私はそういう女の一員だから、そうは思わない。彼女たちを大勢の予備軍だと思うの。そういう予備軍の女たちを訓練して、世の中の仕事ができるよに手伝いをしたいの」 でも、モニカはまだ自分が結婚できない女だとは思いたくない。 しかし現実問題として、ただの女店員であるモニカには、よい結婚相手を紹介してくれる人もいないのだ。同じ店員仲間の男につけまわされるが、結婚相手としてはふさわしくない。この時代、しかるべき男性と付き合うにはそれなりの手順があった。ちゃんとした家柄があり、紹介者を通じて知り合うしかないのだ。しかし、ある日、モニカの美貌に目をとめた中年の男が現れる。行きずりに男女が知り合うなど、しかるべき階級の人間のすることではない。しかし、男のほうはモニカに熱を上げ、モニカのほうはチャンスとばかり、愛情もないのに結婚へと突き進む。 |
![]() 婦人解放運動の活動家たち 自転車は「新しい女」の象徴だった |
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ところで、小説の半ばで、主人公たちの物語とは別に、あるカップルのエピソードが登場する。数学者のミクスルウェイトは40歳で定職についた。ロンドン大学の教授になり、やっと生計を立てるめどがついたのだった。そこで、23歳のときから(17年間!)婚約していた同い年のファニーとついに結婚できることになった。ファニーには母がなく、妹が3人いた。ファニー自身は小学校の教師、妹の1人は家庭教師、1人は家事をして、て、1人は目が不自由だった。その妹たちのうち2人は未婚のまま死んだ。目の不自由な妹は結婚する姉夫妻のもとに引き取られる。ミクスルウェイトはいう。 「結婚しない女の生活はみじめなものだぜ。十分な財産があり、妻を扶養できるならば、男はみな、できるだけそういう運命から女性を救うべきだよ」 女の置かれた立場に同情するミクスルウェイトは、女性に助けの手をさしのべる、昔風のフェミニスト(女性にやさしいという意味での)かもしれない。だが、そういう境遇に置かれた女たちの真の問題、社会構造に疑問をもつまでの深みはない。そもそも、遺産相続の法律からして、女たち自身が「十分な財産」をもてるようにはなっていない。教育の機会もなく、仕事の訓練も受けられず、働く場もなく、余った女(50万人!)を「哀れ」だとか「落ちこぼれ」として見る世間の目。 |
![]() ジョージ・ギッシング 1857-1903 |
それに気づいた友人のエヴァラードはこういう。 「しかしぼくは、女も結婚について、男と同じような考え方をすべきだという新しい考え方のほうにずっと共鳴できるな。女は結婚しなければいけない、さもないと一人前じゃない、という考えで育ててはいけないということだ」 そんな「過激な」考え方をもつエヴァラードはローダに惹かれ、口説こうとする。 だが、ローダには結婚を屈辱だという。 「だって、大多数の男性は道徳心がないんですもの。そういう男性と結婚することは恥辱だし不幸だわ」 当時、女性の不貞は厳しく咎められたが、男性の不貞は見て見ぬふりをされた。それが当たり前と思う人びとにとって、ローダの結婚観、つまり「男女ともに貞節でなければならない」という考え方は革命的なものだった。 さて、小説のほぼ半ば、13章にはローダとエヴァラードが共感する女性解放(というか女性の自立)論の基調演説ともいうべきスピーチがある。語り手はメアリ・エヴァラード、40歳だが、もっとずっと若く見え、女らしい落ち着きをもった女性解放運動家である。メアリはエヴァラードの従姉で、ローダの相棒でもあった。女性の職業訓練校はそもそもメアリが始め、それをローダが手伝っている。長いスピーチだが、その一部を紹介しよう。 |
少し前に、彼女はある失業した男性事務職員から匿名の手紙を受け取っていた。女性が男性の職場を荒らすのはけしからんという非難の手紙である。
「女性が職業をもつと、女らしさを失うだけでなく、一生懸命働いている男性にひどい損害を与えるという説があります。女の進出で給料が下がるし、人手が余っている分野に押し入ってくるから、男性の稼ぎが減るので結婚できなくなり、ひいては女性にも被害が及ぶというのです。すばらしく勇敢な宣戦布告のスピーチではないだろうか。男性への宣戦布告と思ってはいけない。これは、なによりも自分の中にある愚かさと弱さと無知に対する宣戦布告なのである。 ここまでで、小説はほぼ半分。結婚したモニカ、オールドミスのアリスとヴァージニア、フェミニストのローダとメアリー、メアリーの従弟のエヴァラードの行く末は来月に続く。 (のなか くにこ)
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ぐるぐるくん 野中邦子(2005.4.1更新) |
![]() 『ギッシングの世界』 松岡光治編 |
余った女たち――2(先月の続き) エヴァラードはローダに惹かれているのだが、その心の一部には、「口では偉そうなことをいっている知的な女を落としてみたい」というけしからぬ思いがないわけではない(まったく男ってやつは!) ローダと知的な会話をかわすあいだに、エヴァラードはこんなことをいう。 「20代で結婚していたら、ふつうの男と同じように、馬鹿な女を選んでしまって、不幸な結果になっていたと思います。いま結婚するとしたら、しっかりした知的な相手を選びます。法律上の結婚は決してしないでしょう。形式にとらわれない女性でなければなりません」 この「結婚」のひとことが、ローダとエヴァラードの将来にわだかまりとなるとは、このときの2人には思いもしないことだった。 年上のウィドウスンと結婚したモニカは思っていたような暮らしではないのに幻滅した。夫は出かけるのが嫌いで、妻にも家にいて自分の世話をしてほしかった。だが、若いモニカは遊びにいきたくてしかたがない。家にいて、夫の相手をしているだけでは退屈でたまらないのだ。やがて、ウィドウスンはモニカとエヴァラードの仲を疑うようになる。 しかし、じつはモニカの相手は別の男――ピーヴィス――だった。深い関係というわけでもないのに、モニカはピーヴィスのことで初めて夫に嘘をつく。 |
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夏休み、ローダは湖水地方へ旅行し、そこでエヴァラードと落ち合う。エヴァラードはすでにローダに愛の告白をしているが、ローダは迷っている。彼が自分だけを愛しつづけるかどうか、確信がもてなかったのだ。結婚という形式で縛られない関係では、根拠になるのは愛情だけだった。ローダにとって、結婚とは彼女だけを愛するか、それともまったく愛さないか、どちらかの選択しかなかった。 エヴァラードのほうは、結婚してもいいとは思っていたが、その前に、完全に彼女を屈服させたかった。そのため、同棲しようと提案し、それを彼女が受け入れたら自分の勝ちだと見なし、そのあとで結婚するつもりだった。しかし、ローダははっきりとした返事をしない。彼女の表情からエヴァラードは察した。 「あの古ぼけた、くだらない形式がほしいんだね――」 「教会で式を挙げたいんじゃないわ。あんなこと――でも」 「地区の戸籍係から証明書がもらえるよ。それでいいかい」 「そのために私が嫌にならないかしら」 「キスしてくれ」 「そのほうが2人の生活はずっとすっきりするし、幸せになるでしょうね……あなたは本当はどっちでもいい点で譲歩したのよね。あなたに愛されてると確信するにはそれしかなかったのよ」 「きみに愛されている証拠をぼくのほうでも欲しがったら、どうなったかな」 そして、2人とも不満だった。 エヴァラードはローダが思っていたほどすばらしい反逆児ではなかったことに失望した。ローダに負けたと思ってくやしかった。 ローダのほうは、エヴァラードの不満を感じとり、軽蔑しながら譲歩したにちがいないと思っていた。やり方が性急すぎたという後悔。もっとうまくやればエヴァラードを丸め込んで、しかも法律上の結婚も手に入れられたはずなのに。それに、結婚したあとでも、これまでと同じように女性解放の運動に献身できるだろうか。 そんなとき、最悪のタイミングでメアリから手紙がくる。モニカが家出をし、夫は浮気相手がエヴァラードだといって責めているという。それを読んでローダは嫉妬と疑惑にとらえられ、2人の関係はぎくしゃくしはじめる。お互いに意地をはりあった末に、エヴァラードはロンドンへと去った。 | ![]() 『ヘンリー・ライクロフトの四季随想』 ギッシング著 河出書房新社 |
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モニカの家出の事情はこうだった。 夫のウィドウスンは妻を疑ったあげく、ロンドンから連れ出そうと考えた。モニカはピーヴィスとの別れが耐え難い。やがてピーヴィスがフランスへ行くことになり、モニカはピーヴィスのアパートを訪ねて、一緒に連れていってくれと頼む。とたんにピーヴィスの態度が変わって、逃げ腰になる。 「きみと駆け落ちしたってばれたら、ぼくの身分にひどい傷がつくよ。どういうことになるかわからない。ねえ、すごく用心深くしなくちゃいけないよ。2、3週間すれば万事うまくいくかもしれない――」 モニカはそのめそめそした話し方にすっかり幻滅した。 「私、あなたを見そこなってたわ。あなたには愛することがどんなことかわからないのね……私をくだらない女だと思ってるのね。名誉心もなくって、自尊心もなくって――」 ピーヴィスは内心、困ったことになったと思っていた。こんなことになるとは思っていなかったのだ。世間にばれるようなことはやるまいと、そればかり考えていた。ひどくぶざまな恰好になってしまった。自分でもなさけないと思ったが、どうしようもなかった。 ピーヴィスの本性を知ったモニカは姉のもとに身を寄せ、家には戻らないことにした。 モニカとヴァージニアとアリスの三姉妹は、ウィドウスンが借りた田舎の家に住むことになった。モニカの妊娠がわかったからである。このころ、ヴァージニアはひどいアル中になっていた。エヴァラードはローダと会い、関係を修復しようとするが、ローダはこれをきっぱりと拒否した。やがて、エヴァラードは他の女性と結婚する。やがてモニカは女の子を出産するが、お産のために命を落とす。モニカは死の床でピーヴィスとの関係を告白し、ピーヴィスの恋文を証拠に、エヴァラードへの疑いを晴らそうとする。ウィドウスンは思いがけない真相を明かされて自分の愚かさを知ったが、妻への愛情はよみがえらない。妻を許すことはできなかった。それでも、ウィドウスンは残された赤ん坊をアリスとヴァージニアに託し、生活の面倒は見ると約束した。ヴァージニアもウィドウスンの世話でアル中治療の施設に入ることになった。 三か月後、ヴァージニアは治療を終え、アリスは赤ん坊の世話に天職を見出していた。ローダが訪ねてくると、赤ん坊が歩けるようになったらすぐ、学校を始めるべく計画を立てるつもりだと話す。 「ほらね、ここに生徒が一人育ってるわ」 「勇敢な女性に育ててちょうだいね」ローダはやさしくいった。 ****完*** |
| この小説に出てくる登場人物それぞれの問題点については(しつこく)来月に続く!(かもしれない)
(のなか くにこ)
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ぐるぐるくん 野中邦子(2005.5.1更新) |
![]() かつては女権拡張運動、婦人参政権運動、男女同権。ピンクヘルメットの時代にはウーマンリブ。そして、いまはフェミニズム。
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余った女たち――3(先月の続き) 「余った女たち」は、世紀末(十九世紀末)のイギリス社会における女性のあり方をリアルに捉えている。もちろん小説だから誇張はあるものの、よい相手と結婚することが女性にとってほとんど唯一の幸せだったという状況はまちがいなくあった。 しかし、現実には男女の数のバランスが悪く、階級の壁もあって、どうしても結婚相手を見つけられない女性が出てきた。それを無視して、結婚のみが幸福といわれてしまう社会の閉塞感といったら、ものすごいプレッシャーである。 いくら当人が幸せだと主張しても、結婚できない女性は「負け犬」だという世間の目にさらされるのは現代も同じだ。しかし、世紀末の状況がさらに悲惨なのは、経済的にも自立がむずかしいということ。 ・女は結婚するのが当然である。 ・しかし、未婚の男の数は少ない。 ・独身の女が一人で食べてゆけるだけの収入はなかなか得られない。 ……まさに三重苦である。 では、登場人物を一人ずつ見ていこう。まず、五人の娘が「たぶん」結婚できるはずだ、と安易に考えていた父親(マドン医師)は見通しが甘すぎた。「なんとかなるさ」で生きていくのが庶民の大多数だが、いざというときは誰も助けてくれない。 最近、ニートの存在が問題になっている。イギリスで名づけられたこの名称は「NEET」、つまり Not in Employment, Education or Training 「就業、就学、職業訓練のいずれもしていない人」の意味である。 マドン医師が生きていたあいだ、五人の娘たちはまさにこの「ニート」だった。父親が生きていれば、結婚相手を見つけるまではずっとその状態が続いただろう。しかし、父親が死んだために、しかたなく働かざるをえなくなった。 五人の娘に欠けていたのは、EducationとTrainingの部分である。これがないので、Employmentにも不利になる。これは女性だけではなく、男性にもいえることだ。階級のせいできちんとした教育や訓練が受けられないと、満足できる仕事につけず、結局、低い階級からなかなか脱出できないという悪循環に陥る。かつのイギリスのような階級社会では、このサイクルなかなか断ち切れなかった。 長女のアリスは性格が弱すぎた。教育もそこそこあって、わずかながら遺産もあるのだから、自立するために積極的に行動すべきだったのだ。ちょっとした勇気のあるなしで、生き方は大きく変わっただろう。いわゆる「オールドミス」であり、「ガヴァネス症候群」に陥っている。「ガヴァネス」については、こちらを参照のこと。 教育(エデュケーション)の機会に恵まれないのは、この時代の女性すべてにあてはまる。だから、アリスに必要だったのは、就業のためのトレーニングと積極的な職探しだと思われる。 |
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次女のヴァージニアは体が弱かったために、ちゃんとした職につくことができなかった。アリスと同様、覇気がないために、流されていくしかない。アリスもヴァージニアも、もともとの性格が弱いというより、やはり社会の常識に疑いをもたず、ただ唯々諾々と、いわゆる「女らしい」生き方を選んでしまったのが不幸の原因だろう。性格の弱さからキッチン・ドリンカーとなり、やがてアル中に。 末っ子のモニカは幸いにも夫をつかまえることができた。とはいえ、結婚できさえすればいいというものではない。ある意味で、こういう便宜的な結婚は現代でも珍しくない。それもこれも、女性が経済的にも精神的にも、一人で生きていけない弱い立場にあるからだ。夫をつかまえられるかどうかで優劣をはかっちゃいけないのである。 いまでいえば、バツイチで、未婚の母である。 では、自立しようという確固たる意識をもったローダはどうだろう? 意識の高そうな彼女にしても、実際に恋愛をしてみると、自由な関係では不安だと思ってしまう。その背景には、社会における男女の地位の格差がある。正式な婚姻関係を結ばない男女関係では、どうしても女のほうが不利になってしまうのだ。男女のあいだの対等な関係というのは、社会における性差が完全になくなって初めて論議できるものだろう。結婚話をもちだすことで男に失望されるのではないかという不安を抱いたり(その不安は現実のものとなる)、もっとうまくもちかければよかったと後悔するところなどは、ごくふつうの女性と変わらない。ちょっとしたタイミングのずれで結婚しそこねた典型的な「負け犬」だといっていい。 メアリはこの小説では唯一、欠点のない存在として描かれ、それだけにリアルではない。フェミニストの理想像ともいう姿で、経済的にも精神的にも自立し、しかもほかの女性たちにも援助を与えようと奔走している。つまり、彼女たちに必要な職業訓練と就業の機会を作ろうとしていたのがメアリなのだ。 たった一つの苦い思い出は、若いころに失恋したことだが、それも人生経験として糧となっている。ただ、理想像だけに、あまり共感もできず、フェミニズム思想を語らせるだけの役割しかないのである。メアリもまた、いわゆるキャリアウーマン・タイプの「負け犬」である。 男のほうはどうだろう。 フェミニズム思想に共感するエヴァラードだが、現実のフェミニストを相手にすると、男に特有(?)の攻撃性があらわれるのか、屈服させたいという気持がむくむくと沸いてくる。相手が手ごわければ手ごわいほど、負かしたときの喜びが大きいのだ。社会における性差別の根本を無視して平等な関係だけを言い募る男ってろくなもんじゃないよね。 こういうのは「なんちゃってフェミニスト」というのである。 モニカの夫となるウィドウスンは、ごく常識的な男である。フェミニズムなど、まるで理解しないだろうし、理解する気もないだろう。ふつう(この時代だったら)妻のほうが我慢して夫婦関係を続けるところである。理解しがたい妻の行動に翻弄された哀れな男ということもできる。いまでも、妻を自分の手元においておきたがる男っているよね。そういう男にどう対処したらいいのか、私にはよくわかりません。 いまでいえば、ウィドウスンは妻にいつもそばにいてほしい「濡れ落ち葉」であり、「かまって」くんであり、こっそりあとをつけまわすところは「ストーカー」でもある。しかし、一方でミツグくんでもあり、それに頼って生きる女たちがいることも確かなのだが。 ミクスルウェイトとファニーのカップルは17年間もの婚約期間をへて、ようやく結婚にこぎつける。高学歴の就職浪人――いまでも見られる状況だ。この小説では幸せなカップルとして描かれているのだが、そのミクスルウェイトでさえ、「結婚しない女の生活はみじめなものだぜ。十分な財産があり、妻を扶養できるならば、男はみな、できるだけそういう運命から女性を救うべきだよ」というのである。男性上位まるだしの発言で、たぶん現代なら、若い女性に「ばかにしないでよ」と総すかんをくうところだろう。 結局、この小説の登場人物は欠点だらけであり、また、欠点のない人物はといえばリアルじゃないということになる。 ニート、キッチンドリンカー、負け犬、オールドミス、バツイチ、未婚の母、濡れ落ち葉にストーカーなど、現代社会に通じるものばかり。百年前から人間の生態は変わっておらず、ただ、それに名前がついただけなのだ。名前がつけられることで、その行動や存在は類型化され、一つの集合となる。あいまいなものに定義が与えられ、みずからの存在を客観的に眺められるようになる。それで問題が解決できるわけではないが、自分の抱える障害を理解し、解決に向けて努力するきっかけにはなるだろう。 いまでも、未婚女性や子供を生まない女たちは「負け犬」だの「オニババ」だのと、さんざんないわれようだ。にもかかわらず、現代の「余った女たち」はどうやら、強く、元気よく、幸せに生きようとしている。それもこれも、かつて過激な活動をくりひろげ、世間の目にさらされて挫折しながらがんばってきた先人たちのおかげだということを忘れてはいけない。現代に生きる女としては、彼女たちにいくら感謝してもしきれないのである。 (のなか くにこ)
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ぐるぐるくん 野中邦子(2005.6.9更新) |
![]() ぺラ・パラスの正面玄関 ![]() 客室のテーブルに置かれたルームサービスのメニュー、鍵と市場で買ってきたチェリー。 |
アガサ・クリスティといえばミステリの定番で、私も中学生のときに何冊か読んだ。が、当時はエラリー・クイーンのほうがお気に入りで、クリスティはそれほどハマらなかった(クイーンのほうはかなりハマった)。 最近、早川書房がそのクリスティの復刊フェアをしている。活字を大きくし、装丁も新しくなって、平積みになっている書店も多い。 そんなとき、友達にイスタンブールへ行こうと誘われた。イスタンブール関係の本をぱらぱら見ているうちに、クリスティの『オリエント急行殺人事件』を思い出した。オリエント急行は、ロンドンからパリ経由でイスタンブール、そしてバグダッドまで行く豪華な寝台特急である。この車内で殺人事件が起き、名探偵ポワロが解決する。クリスティはこの『オリエント急行殺人事件』をイスタンブールのペラ・パラスというホテルで執筆した。 そういえば、ちゃんと読んでいなかったな、と思って買ってみた。そのあと、つづけて『メソポタミアの殺人』も読んだ。たちまちハマってしまった。○○の人物が、じつは昔、××だった、なんていう正体が暴かれたりするところは、ちょっとご都合主義と思えなくもないが、一気に最後まで読ませる筆力はさすがミステリの女王である。 さらに、小説に登場する女性の描き方から、クリスティが職業婦人に好感をもち、有閑マダムが嫌いらしいところが見てとれるのが面白い。 たとえば、『メソポタミアの殺人』では、看護婦が語り手になっている。裕福な個人の家庭に雇われる私設の看護婦なのだが、彼女はメソポタミアの遺跡発掘調査にたずさわる高名な考古学者に雇われて、美しい奥様の面倒を見ることになる。この奥様は、なぜか神経をたかぶらせ、脅えているのである。 この看護婦は、美人ではないが心も体も健康で、良識があり、鋭い観察力の持主である。とはいえ、よけいな口出しはせず、自分の立場をわきまえて、仕事をてきぱきとこなす。奥様のほうはすばらしい金髪の美女で、思わせぶりな態度や言葉で男たちを惑わせ、悩ませ、周囲の女たちには嫉妬されている。正体不明の脅迫者に怯え、ついには殺されてしまう。 女らしさを武器にして、意図的にか無意識的にか、男を翻弄し、女たちからは嫌われる――こういう女性がクリスティはあまり好きではないらしい。なんとなく意地悪そうな、突き放した冷たい書き方で描かれているのだ。 それも無理はない。クリスティ自身、筆一本で稼ぐワーキング・ウーマンだったのだから、生活の基盤を男に頼っている女性に共感できなかったのだろう。 しかし、この手の「魔性の女」を殺人事件の被害者にするというのは、もしかして、クリスティに個人的な恨みというか、仕返しみたいな気持もあったのではないかと思えてくる。 クリスティには謎の失踪事件もあるし、恋愛にまつわる「事件」がほのめかされている。この失踪事件の謎を解くために、マスコミは有名な霊媒師まで引っ張りだしたそうだ。この霊媒師は、クリスティが好んで滞在したイスタンブールの高級ホテル、ペラ・パラスの401号に謎を解くヒントがあるといった。そこでマスコミが捜索してみたところ、予言どおりにペラ・パラスの客室から一本の鍵が見つかったという。しかし、これが何の、あるいはどこの鍵だか、いまもわかっていない。 というわけで、私はいまそのペラ・パラスに泊まっている。 いつもは翻訳した本の舞台を旅することが多いのだが、今回はちょっと異例で、アガサ・クリスティの愛した土地を訪ね、定宿だったホテルに泊まっているというわけである。 (のなか くにこ)
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ぐるぐるくん 野中邦子(2005.7.1更新) |
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トルコで「洗練」について考える
5月末から6月初めにかけてイスタンブールとパリという歴史の古い二つの大都市を旅行してきた。それで思ったのは「洗練とはなにか」ということ。 現在のトルコは近代化の遅れをとりもどし、EU参加に向けて経済力アップの努力をしているところである。イスタンブールで感じたのは、トルコ国民が自分の国や自分の生まれた土地を愛していて、すごく誇り高い(らしい)ということだ。いたるところで国旗がひるがえり、民主化の父ケマル・アタチュルクの肖像や写真がやたらと目についた。 イスラム圏なのに戒律がそれほど厳しくなくて、お酒も飲めるし、ベールなしでモスクに入れるし、ジーンズ姿で闊歩している若い女性もいる。イランやイラクにくらべて宗教と政治の分離がうまく進んでいるように見えた(ツーリストの目ではあるが)。 |
| 人びとはすごくエネルギッシュで好奇心が強く、生き生きしている。旅行者に話しかけたいのに英語ができないのがじれったい、という感じがひしひしと伝わってきた。英語が話せる人は親しげに話しかけてくる(そういう人は客引きだったりして)。 しかし料理やファッション・センスとなると、なんとなく野暮ったい感じは否めない。食材はとても新鮮でおいしいのだが、調理法は昔ながらのケバブ(焼いたもの)やギュベッチ(煮込み)、ドルマス(詰め物)などで、何百年も変わっていないのではないかと思わされる。こんなにおいしいもののどこを変える必要があるのか、というこれも「トルコ大好き」の表れなのだろうか……たぶんそうだろう。 |
![]() レンズ豆のスープとキャセロール(土鍋)の煮込み |
![]() ![]() ブルーモスクの内部(左)とノートルダム寺院のステンドグラス |
とはいえ、トルコがもともと野暮ったいなんてとんでもない話である。トプカピ宮殿を見てつくづく思った。宝物館に展示されている貴金属や工芸品はすべてオスマン・トルコ帝国への貢物である。当時、世界一の大帝国だったからこそ、各国からこんなにいろいろなプレゼントが贈られてきたわけだ。そのころはトルコといえば最先端の国だったにちがいない。逆にいえば、よそから贈られてくるから自国で工夫・開発する必要がなかったのかもしれないね。 イスラムの建築や装飾も洗練されている。ただ、ものを具体的に描写することを禁じたイスラムの戒律によって具象画やリアルな彫刻が作れなかったというマイナスはある。装飾がすべてアラベスク文様ではちょっとね。 |
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ところでイスタンブールの次に行ったパリはどうだろう。パリといえば洗練の代名詞のような町である。建築に関して、キリスト教とイスラムではだいぶ違うとはいえ、内部の装飾はステンドグラスやロウソクの明かりなどイスラムに共通する点もある。 大きな特徴といえば、パリは歴史的に為政者が何度も変わり、政治や経済の面で激しい変転の歴史を辿ってきたことだろう。しかも労働者が権力の座をくつがえすという大きな革命を経験している。 それを思うと、ルーブル美術館の中庭にできたピラミッドが象徴的に見えてくる。ルーブルといえば国家の財産であり、観光の目玉である。その真ん中に地下街を作ってガラスのピラミッドを建てるなんて、変化を好まない人には腹立たしいことだろう。しかし実際ルーブルに入るのに行列するのでも地下なら天気にかかわらず平気だし、ショッピング街も待ち時間をつぶすのに便利といえば便利だ。結局のところ、ユーザーのことをおもんぱかった改革なのだから納得せざるをえない。 |
![]() ![]() |
![]() フランス料理 |
その昔、エッフェル塔ができたときも景観を損ねるという異議の声があがったという。ところが、できてみると塔のフォルムの美しさがそんな声を消してしまった。いまやエッフェル塔はパリになくてはならないモニュメントである。 フランス料理にしても、しばらく前にヌーベルキュイジーヌの洗礼を受けて大きく変わったのは周知のことだが、最近もオーガニックが大はやりだし、エスニックやアジアンフードもとりいれられている。おしゃれ度では「さすが」と思わされるのがパリである(ただ余談ながら、グルメ大国たる日本から出かけていったツーリストとしては、きれいにまとまったパリの料理よりも、トルコのどちらかといえば荒っぽい素朴な料理に強い印象を受けたことも事実である)。 |
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パリはたぶん変化を怖がらない街なのだろう。洗練とは旧態依然に頼っていて得られるものではない。つねに新しいものをとりいれ、しかし流行をただ追いかけるのではなく、新しいものを取捨選択しつつ、自分のものとして消化していく。それが大事だ。変化を怖がらずにいるためには、自分のセンスや判断力に自信をもっていなければならない。それを育むには長い時間と豊富な経験が必要だろう。そこには歴史の重みがある。それに加えて、「私は怖がらないぞ」という心意気と思い切って変化を受け入れる勇気がなければいけない。 トルコのエネルギッシュな勢いはきっと変化をとりいれ、自分のものにしていくだろう。今年の初めにデノミを敢行したのもその一つだし、EU参加が実現したら、ますます外に向かって開かれるはずだ。そのときトルコがどんな洗練を身につけていくのか興味津々である。 ところで話はそれるが、トルコでは外国語をしゃべるのはまだ男性のほうが多く、また跡継ぎは男子という考え方が重きをなしているようだ。ボスポラス・クルーズで会った家族連れは、若い父母と二人の姉妹だったが、お母さんは「女の子だけなの」と心なしか申し訳なさそうに何度もいっていた。二人の女の子はおしゃれで、賢くて、ちゃんと簡単な英語で話もできるのにね。 |
![]() グランドバザールの貴金属店 |
![]() ハーレムの窓 |
いまだに女性の財産は金のアクセサリーというところも不思議で、結婚のときにプレゼントされた貴金属をずっと身につける慣習だそうだ。でも、若い人を見ると西洋風にノースリーブでへそ出しなんてファッションもよく見かけたので、じゃらじゃら金のアクセサリーをつけるのもいまや遅れてる、ってことになるのだろうが。今後は女性の教育の機会や地位の向上もどんどん進むにちがいない……って、よそごとではないのだ、日本も。 トプカピ宮殿のハーレムを見学したとき「贅を凝らした檻」という言葉にドキッとさせられた。ハーレムの中はきらびやかな装飾で豪華けんらんなのだが、窓には格子がはまっていて自由に出入りできないのだ。いくら恵まれた生活でも、これはいやだよね。ハーレムが過去のものとして観光の目玉になっている現在、「贅を凝らした檻」に女性や子供を閉じ込めておくのはもはやナンセンスであり、完全な時代遅れ、洗練された態度とはほど遠い(これはトルコだけでなく日本を含めた世界中のどの国にもいえる)。 ところで帰ってきてから知ったのだが、今年イスタンブールに近代美術館がオープンしたんだって! どんなのかな。ぜひ行ってみたい。 (のなか くにこ)
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ぐるぐるくん
野中邦子(2005.8.1更新) |
![]() 貧困をなくそう |
未来はどうなる?
夏休みのポップコーン・ムービー、マイケル・ベイ監督の『アイランド』を見てきた。ストーリー(どうも、どこかで見たようなイメージやアイデアが多いなー。たとえば『トータル・リコール』や『マイノリティ・リポート』、『バッドボーイズ2バッド』のカーチェイスなど)や映画の出来、出演者たち――ユアン・マクレガー(そっくりさんの2役とスコットランド訛りは愉快! ユアンには天性のとぼけたユーモアがあるね)やスカーレット・ヨハンソン(美少女がすっかり大人! ちょっと太った?)やスティーブ・ブシェーミ(いつ見ても味があるなぁ)についてはさておき(おくのか!)この作品の舞台は「近未来」である。具体的にいえば2019年。もうすぐだね。 私が子供の頃、未来論というのがはやった。国産SFの人気――小松左京とか、星新一とか、筒井康隆など――が高まって、お正月の新聞には分厚い別冊で「未来はこうなる」というような特集をやっていた。真鍋博画伯の鳥瞰図はいまでも印象に残っている。そんな雰囲気のなかで、みんなが漠然と思い描いていた未来(21世紀)といえば、銀色のタイツをはいた人びとがチューブのような通路を滑るように移動し(『2001年宇宙の旅』ね)、空に車が浮かんでいて、食事はボタンを押すとキカイのなかから出来上がったものが出てくるとか、栄養カプセルですませるとか、そんな感じだった。21世紀になっても人は銀色のタイツをはいてないし、車もいまのところ地面の上を走っているけど、電子レンジでチンとか、コンビニ食とか、昨今のサプリメント・ブームなどは、思い描いていた未来に近いかもしれない。映画『アイランド』で描かれる未来は、不完全ながら人間のクローンが誕生して、それが商売になり、車は宙を飛んでいた(やっぱり!) ところで、話はかわるが、MDGs=ミレニアム開発目標というのをご存知だろうか。世界の貧困をなくし、低開発国を援助するために活動している国連ミレニアム・プロジェクトが今年の一月コフィ・アナン国連事務総長に向けて提出した具体的な目標である。たとえば、目標の最初にあるのが「極度の貧困と飢餓の撲滅」。 続いて「初等教育の完全普及」「ジェンダーの平等の推進と女性の地位向上」「乳幼児死亡率の削減」「妊産婦の健康の改善」「HIV/AIDS、マラリアなどの疾病の蔓延防止」などの項目があげられている。 このプロジェクトでは、2015年までに世界の極度の貧困を半減させることを目標にしている。ちなみに、極度の貧困とは生き延びることに体力と精神力のすべてを費やさなければいけないような状態をいい、一日1ドル未満で暮らしている人口をさす。いま世界のおよそ20%がそんな状況にある。旱魃にみまわれたセネガルでは、飲める水と食べ物を手に入れることで一日が終わってしまうのだ。 このプロジェクトのリーダーであるエコノミストのジェフリー・サックスによれば、2015年までに極度の貧困を半減させることは可能だし、2025年までに根絶することもできるという。そしてサックスは、金持の超大国に対して、なぜ援助をためらうのかと強く叱責する。人類はこれまで勇気ある決断をくだしてきた――奴隷制の廃止、帝国主義の撤退などがその一例だ。これらの先例にならって、われわれもチャレンジしようではないか、貧困の根絶という偉大な仕事をなしとげた世代になろうではないか、とサックスはいうのである。 未来はいつのまにか「来る」ものではない。どんな未来にするか、今生きている私たちが選択しなくちゃね、と思う。それをいえば、憲法で戦争放棄をうたったのも勇気ある決断の一つではないだろうか。そんな憲法九条を廃止した世代と呼ばれるようになるのはいやだなあ。なりたくないなぁ。 というわけで、2025年までに世界の貧困を絶滅しよう! 小泉さんも郵政民営化なんていってる場合じゃないでしょう。 (のなか くにこ)
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ぐるぐるくん
野中邦子(2005.9.1更新) |
![]() クロスズメダイとルリスズメ ![]() ゴマ粒のようなカクレクマノミ ![]() 水槽のカクレクマノミ |
「可愛いだけじゃだめかしら?」
……というフランス映画があった。年齢をきいたらビックリするほど、ほんとに可愛いイザベル・アジャーニ主演で、話の中身はすっかり忘れてしまったが、この「可愛いだけじゃだめかしら?」というフレーズは印象的でいつまでも忘れられない。 人間をはじめとして、動物(とくに哺乳類)の赤ん坊は自力では生きていけない弱い存在だから、まず「可愛い」ことが生き残りの一つの戦略なんだという。大人は可愛い赤ちゃんを見て、思わず攻撃の手を緩めるらしい。ほんとかな。 だとしたら「可愛いだけ」でも十分役に立つわけだ。そんなことを考えたのは、この夏休みにシュノーケルをしたとき、自分のえこひいきぶりにわれながら苦笑してしまったからだ。 最近、魚が泳いでいるだけじゃそれほど感動しなくなって、地味な魚や不細工な魚には目もくれない。黒い魚(クロスズメダイ?)はやっぱり地味だし、青い魚(ルリスズメ、コバルトスズメ)はやたらとうじゃうじゃいるので珍しさがない。佃煮にしたいくらいいる、とよく冗談をいうのだ。 珍しくないばかりか、あまり近寄りたくない魚もいる。たとえば、これ(右)。ムラサメモンガラ。カワハギの仲間である。色はけっこうきれいだから、最初のうちは喜んで見ていたけど、いかんせん顔がやたらと長い馬ヅラで不細工。そのうえ、こんなおちょぼ口のくせに人(の足とか)を齧るという話を聞いたもんで、こいつが近寄ってくると「しっ、しっ!」と追い払う始末だ。なんだか可哀相だけどね。でも、齧られるのはいやだし。 ついでに、役に立たない豆知識――この魚のハワイでの呼び名はフムフムヌクヌクアプアー。カワハギの仲間はみんな、最初が「フムフム」なのだ。名前だけは可愛い。 と思っていたら、さらに大きなこいつ(左)が寄ってきた。水中で見ると、ものは二割がた膨張して見えるのだが、これはかなり大きくて30センチくらいはありそうだった。しかも口をあけると中に歯が見える。齧られたらヤダーと逃げることにした。水中でじたばたしている私のほうがまるでジュゴンだとか魚には思われているかもしれない。では、何ならうれしいか……というと、定番だが、やはりニモ、カクレクマノミでしょう。今回も浅瀬で子供たちが「ニモがいたー!」と叫んでいるので、どれどれと近寄ってみた。それまで何度か潜って(というか、水面に浮かんで)も見つからなかったので、今年はクマノミが不作かなーと思っていたのだが、いました! でも、すごく小さい。二割り増しの水中でさえ、ゴマ粒のようにちっちゃい。水深50センチほどの浅瀬に無理な姿勢で腹ばいになって写真を撮ろうとしたのだが、ちょっと無理だった。それこそ浅瀬で水浴び中のジュゴン……(しつこい)。 そんなわけで、左の写真は水槽に飼われていたクマノミ。可愛いせいで乱獲されてしまうのだから「可愛い」のは防衛策であると同時に身の危険を招く要素にもなる。 まあ、それはともかく、「可愛いだけじゃだめかしら?」なんてセリフを一度でいいからいってみたいものである(……と、ビール太りでジュゴン化はなはだしい私は思うのだった――しつこい)。 (のなか くにこ)
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ぐるぐるくん
野中邦子(2005.10.3更新) |
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急に引越をすることになって、不要品処分とお別れ会をかねて、おうちでコンサート。 1 会場はこんな感じ。ものがなくなると、すっきりする。……が、カメラのこちら側はダンボール箱や掃除道具でごったがえしているのである。 2 ギターが到着。アンプラグドなのかと思っていたら、延長コード持参で、しかもコンピューターで録音するとか……こうなると、わけわかりません。若い人たちにおまかせ(といういいかたは年寄りくさいか?)。 3 出演メンバーがそろそろ集まってきて、セッティング。プレイヤーの詳細については、ここでは省略。興味のあるかたはネット上で検索してみてください。キーワードは「ユーミンの心をもったおじさん」あるいは「かえる目」で。 4 4人のプレイヤーがそろってリハーサル開始。すでにお客さんもぱらぱら到着して、公開リハーサルの様相を呈する。曲の順番を決めたり、ざっとさらったり、歌詞を――その場で――作ったりと、リハーサルに立ち会った人たちには得がたい体験である。「さよなら高輪台」なんてご当地ソングも作ってくれた。 5 いよいよ演奏開始。すぐそばで聴く生の音はすごくいい。アイポッドの登場などで再生機器が精巧かつ手軽になり、ネット配信で音楽が簡単に手に入る時代。それだけに手間のかかるライブってますます贅沢になるんじゃないでしょうか。こういう小ぢんまりしたライブも楽しい。名曲の数々(知る人ぞ知る、だそうです)が演奏され、途中、飛び入りの虫博士を交えて、さらに盛り上がる。 6 客席はこんな感じ。床にも坐って、立ち見もあり。狭い会場が満員盛況だった。出演者各位および来てくれたみなさん、どうもありがとう。 7 引越で出た中古レコードの山。出演者にはギャラ代わりに欲しいものを持っていってもらいました(ていのよい不要品処分である)。 *ついでに業務連絡 というわけで、住所および電話番号が変わりました。まだ移転通知を出してません。お急ぎの連絡は携帯電話かメールで、どうぞよろしく! (のなか くにこ)
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ぐるぐるくん
野中邦子(2005.11.1更新) |
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| 新しい町に引っ越してきて一か月、ようやくあちこち歩きまわる余裕が出てきた。ロフト(天井裏)にはまだダンボール箱に入れたまま開けてない荷物もあるけどね。私鉄沿線なので、踏み切りがいっぱいある。カンカンと鳴る警報機がもの珍しかったりするのだ。 ひんやりと冷たくなった秋の空気のなかで、遠くから踏み切りの音が聞こえてきたりするのが、ちょっといい感じである。JRの線路は「入っちゃダメ」という態度があからさまで、ガードが固すぎだが、私鉄沿線はすぐそこに線路が走っていて、人間味があるような気がする。でもふらふらと入りこんだら危険だから、あまり酔っ払わないようにしよう。 ウォーキングの途中で休むのにもちょうどいい平和の森公園。前の家にいたころ、よく散歩に出かけていた林試の森公園にちょっと似ている。やはり、真ん中に広場があって、子供や犬が遊んでいる。幼稚園児くらいの子が地面に腹ばいになっていたり、凧揚げしている親子連れがいたり。 公園を出たところに流れている妙正寺川。友人の内藤憲吾さんの著書『通勤ウォーキングでいこう』に「川沿いを歩くのがいい」と書いてあったが、私もまったく同感である。当面は、この川が流れでている(らしい)杉並の妙正寺まで歩くのが目標。いまのところ、西武新宿線の野方駅と新井薬師駅までは踏破した(というほどの距離ではない)。 (のなか くにこ)
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ぐるぐるくん
野中邦子(2005.12.2更新) |
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意匠を楽しむ
空間にゆとりがあり、寺院や塔ものびのびと大らかなところが奈良の美点だと思う。東大寺の大仏殿など、あの大きさと周囲のがらんとした(伽藍にかけた駄洒落ではない)スペースの妙がなんともいえず心地よい。 しかし、大きいものだけでなく、古い都の面白さは細部にもある。細かい意匠にこだわり、しかも出来が非常に繊細であるという点で、日本人は世界でもトップクラスだろう。 大きさで群を抜く東大寺大仏殿だが、屋根の上の鴟尾(しび)(写真1)が黄金色に輝いてとてもきれい。金のシャチホコとは違って(私は金のシャチホコも好きなのだが)、形もシンプルですっきりしている。黒い大屋根と対照的でとても美しい。 一方、路上観察学の定番であるマンホールの蓋には奈良名物(?)の満開の桜と鹿が描かれている(写真2)。花札のデザインを彷彿とさせるキッチュな図柄がすぐ足元にあるというのも楽しい。 泊まった宿は国際なら学セミナー。ヒノキ風呂付きの日本庭園を望む特別室でも一泊4千円というリーズナブルな値段で、ここはお勧め。その庭の踏み石(写真3)もデザイン的に優れている。紅葉がはらりと舞えば、侘び寂びの風情。同じような石の細工で、こちらは斑鳩に近い慈光院の手水鉢(写真4)。四角い石に円形の穴を穿っただけだが、たっぷりと張られた水の効果もあって、とてもいい。同じく慈光院の襖(写真5)。京都の桂離宮にも大胆なブルーのチェック柄の襖などがあって感心したのだが、茶人の装飾センスって意外にモダン。この襖の水玉模様も現代のインテリアにそのまま使えそう。 吉野は葛が名物で、できたばかりの葛菓子を試食させてもらった。口の中でほろっと溶けてとても繊細な味わい。形も桜や木の葉をかたどってかわいらしい。木型に葛の粉を入れて、木槌でトントンと叩いて落ち着かせてから、そっとひっくり返して型から外してできあがり。葛菓子の店では、このトントンという音があちこちから響いてくる。 型(写真6)も応用美術の傑作だと思うし、できあがったお菓子(写真7)もすてき。 伝統を現代に引き継いで、なら町でおやつに食べた抹茶パフェ(写真8)の意匠も和風の色彩をとりいれていた。素材も和風の抹茶や柿や白玉が、洋風のアイスクリームやコーンフレークスやゼリーや生クリームと一緒になって、一見ミスマッチのようだけど、これがおいしいのです。 最後に、デザインや意匠とはぜんぜん関係ないが、すごくインパクトのあったシーン。奈良住民にはごく当たり前の光景らしいけどね。奈良の鹿は神様の使いとして大事にされてるので、そこらじゅうで大きな顔をしている。「鹿が入るので戸を閉めてください」という注意書きもよく見かけるのだが、ここまで来ると「ちょっとどうなの?」と言いたい。夜遅く、なら町で生ゴミをあさる野良鹿。(写真9) (のなか くにこ)
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