【ぐるぐるくん】バックナンバー 2006年  野中邦子(のなか くにこ)   

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ぐるぐるくん

野中邦子(2006.1.3更新)





今と昔、東と西

 暮れに九州へ行ってきた。記録的な寒波にぶつかって、いまにも雪がちらつきそうな曇り空の下、奇妙な風景に出会った。
 泊まったホテルで、「近所にどこか見どころはないですか?」と聞いたら、「このへんには何もなくて」という返事。でも、ガイドブックにこういうテーマパークが、と聞いたら、やっと「まあ、あります」という。あまりお奨めではないらしい。
 江戸時代の宿場・村を再現した遊園地である(左上)。忍者や、茶屋の娘や、インチキ芸人がいる……しかし、お客はいない。

 本陣、陶器の窯、旅籠、茶屋、忍者屋敷などが並んでいる。旅籠には昔の旅人が乗った籠もあった。乗っていいと書いてあったので、乗ってみたが、昔の人はちいさかったのね。私が乗ったら、ぎゅうぎゅうに詰め込まれてしまった。
 明治維新ものの小説はよく読んでいたので、ガトリング砲のゲーム(左中)には少し惹かれた。黒船に向かってぶっ放すのである。ガトリング砲の威力やいかに、と思って、引き金を試しに引いてみたら(当然、弾は入っていない、と思っていた)、空砲のまま「ドカン!」と大きな砲声があがったので、飛びあがるほど驚いた。
 遊園地や名所には定番の、顔出し写真板(正式名称はなんというのだろうか?)。侍やお姫様はいいとして、右側の板は、忍者が投げている手裏剣に顔をはめるようになっている(左下)。忍者ならともかく……手裏剣になってみる? しかし、これにもちょっと惹かれるものがある。さすがに、実際にやってみるのは、はばかられたが。

 江戸テーマパークはさほど収穫がなかったので、有田ポーセリンパークへ移動。ここは前にも来たことがあるが、来るたびに(山のなかだし、毎年押し詰まってから来るので)寒くて、早々に帰るということをくりかえしている。今度も同じく。ただ、前回行かなかった宮殿風の建物には行ってみた。
 ANAの機内誌で、『TOKYO STYLE』や『珍日本紀行』の写真家・都築響一が「日本のなかの外国」という連載をしていて、ここの写真が載っていた。それを見たせいもあって、再訪してみたくなったのだ。
 遠くから眺めても、まるでドイツかオーストリアの宮殿みたい(右上)。曇り空を背景にまるでこの世のものとは思えない。
 建物のなかに入って、右側へ行けば有料の展示館、左側は喫茶室のある無料のお土産ものコーナー。そこで、やはりお茶の魅力に負けて左側の無料のほうへ進んでしまったのだった。
 展示館はまたこの次の機会にしよう。
 そして、裏庭には幾何学庭園!(右下) やっぱりここは日本ではない! 
(のなか くにこ)









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野中邦子(2006.2.3更新)


文章センスも錆びつかせちゃダメ
翻訳・今と昔

 明治の文学、たとえば樋口一葉や尾崎紅葉のような当時の大衆文学にしてベストセラー小説でさえ、いまの私たちにはなかなかとっつきにくい。言葉や文章は時代によって変わるからですね。もちろん、翻訳も時代によって変わります。むしろ、翻訳の文章のほうが時代の影響を大きく受けるかもしれない。  とくに、哲学や思想の紹介となると、正確さを重視するので、昔の学術書の翻訳は正直いって、とっても読みにくい。

 たとえば、つい最近、翻訳中の本に引用があったので、図書館で邦訳書を借りてみました。以下のような文章、私は思わず頭を抱えてしまいました。よーく神経を研ぎ澄まさないと、文脈が頭に入らないんですよね(こちらの頭の中身が問題なのかもしれないけど)。
「観察や実験や計算の諸科学の体系が作っている実質的な真理の大集団は、たえず増大することができるのである。その理論がこれらの科学に依存しているいろいろの技術についてみれば、この理論の進歩に従って生ずべき技術の進歩には、なんら限界もありえないということ……」
 英語の複数をあらわす「s」が日本語にはないから、やむをえず「諸」というのを使うんですね。工夫といえば工夫ですが。
 「することができる」というのも、翻訳勉強中にはよく注意されますね。  「実質的な真理の大集団」というのも、わかりにくい。「生じる→生ず」「べき」も古語っぽい。
「すなわち、保健医学の進歩、いっそう健全な食物や住居の使用、訓練によって力を発達させ、度を過ごすことによって力を破壊することがないような生活様式……これらによって、人間は、平均の寿命を長くし、いっそうつねに変わらぬ健康……を確保するにちがいないということを、予防医学の進歩が理性および社会秩序の進歩によって、いっそう効果的になって、長い間には、遺伝性疾患もしくは伝染病を、また風土の食物や労働の性質に起源をもつよくある病気を消滅してしまうにちがいないことを人々は知っているであろう」
 文章、長すぎ。「ことによって……ことがないよう……ことを……ことを」ことが多すぎ。主語はどれで、述語がどれかよくわからない。「人々が知っている」のはいったい何なのでしょう?
「かくて土地は、ますます窮屈になってきても、ますます有益で価値ある多くの産物を産出することができるようになり、それぞれの土地で、多くの(人々の)要求に関係している生産物を選び、同一種類の要求をみたしうる生産物の中でも、少しの労働と少しの実質的消耗だけしか必要とせずしてしかも多くの人々を満足さすものを選ぶことができるようになる」
 関係代名詞でつないである文章をすべて続け、しかも文章の後ろから訳す。それ、それら、これらを英語の代名詞のままに使う。名詞表現をそのまま使う……といったやり方をすると、「いかにも翻訳調」といわれる文章になるのですね。鈴木(主税)流翻訳メソッドでは、それらの点を徹底的に注意されます。というわけで、訳しなおしてみました。やや大雑把な訳になっていますが、文中の引用なので(概念について書いた専門書ではないので)これで十分ではないでしょうか?
「経験科学、実験科学、計量科学といった体系の基礎となる真理の蓄積はたえず増えつづける。有用な技術の進歩もまた科学の進歩に従う。技術とはそもそも科学に依拠しているのだから当然の理である。そして、この進歩にはそれ以外になんら限界がない。」

「医療の進歩、より健全な栄養と住居、体力作りを奨励する暮らし……は必然的に平均寿命を延ばし、いっそうの健康維持を保証してくれる……理性と社会秩序の発達によって予防医学はますます進歩し、そのおかげで遠い将来、風土や食物や職場環境に起因する一般的な病気だけでなく、遺伝性疾患や伝染病さえも、いずれ必ずや消滅するだろう。」

「ごく小さな土地から、より有益で価値のある産物が大量にとれるようになり……それぞれの土地で、最大の需要を満たす作物を選び、そしてこれらの作物のなかから、人間を満足させ、なおかつ労働力と(資源の)消費量のより少ないものを選ぶことが可能になる。」
(のなか くにこ)





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野中邦子(2006.3.3更新)

翻訳にまつわるマーフィーの法則

 一段落ついたとか、一仕事終わった、というときにかぎって、体調が悪くなる。オフで、さあ遊ぶぞというときになって風邪をひいたり、腰痛が起こったり……それって翻訳者のマーフィーの法則じゃないですか? 

 そんなわけで、次にとりかかっている本が思いのほか順調に進んで、これなら締め切り前倒しで終わりそうだから、2、3日休養しようかと思ったとたん、風邪でダウンした。風邪を引きこむのは一瞬のうちなのに、治るまでが長くなったことに年齢を感じる。ホームページ更新にも引っかかってしまって、先月に続いて、今月も近況報告でごまかす。

 近所のお医者さんに行って、薬をもらってきた。4日薬をのみつづけてもまだ治らず、また行って「だるいんです」と訴えたら、「薬のせいかも」ということで薬を変えてもらった。

 風邪のときはビタミンを大量に摂るといいといわれているが、お医者さんに聞いてみたら、普通の食生活ならほとんどビタミンは足りているので、プラセーボ効果くらいしかないとのこと。なーんだ。

 お医者さんの予測によると、あと一週間くらいはかかりそう、だという。仕事をしないで休んでいること、といわれたので、ぐーたらしていることにする。(が、それが苦手なんだよね、そろそろ締め切りで焦るし……)
(のなか くにこ)







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野中邦子(2006.4.3更新)











猫のいる町

 先月と同じで、また風邪をひきました。またしても締め切りまぎわです。困ったな。

 ところで、最近のプチ・マイブームは、キャラメルです。これまで、キャラメルなんて、まったく好きじゃなかったんだけど、たまたま冷蔵庫のなかに、お友達がくれた沖縄土産のキティちゃん黒糖キャラメルがあるのを発見。もう4,5年前のものです。

 風邪で喉が痛かったので、喉飴がわりにちょっと舐めてみたら、意外においしくて、ハマってしまいました。420円です。固めの感触がいいのです。すぐに融けないので、口のなかで唾液が十分出るという感じ。

 キャラメルを舐めながら、ぶらぶら歩いていたら、窓辺に猫。これは飼い猫で、ガラスの内側にいます。中野哲学堂の付近。うちの近くの美容院にも猫がいて、その猫も窓辺やガラス戸の内側からよく外を見ている。

 猫といえば、沼袋駅前には、「猫丸」という喫茶店もある。昔風の帽子屋さんの二階。

 おまけ。これは猫じゃなくて、犬系ですね。狛犬。私は狛犬も好きです。沖縄のシーサーも好き。東中野方面に歩いた北野神社の狛犬。ここの神社は桜の木がないので、せっかくのお花見シーズンにも閑散としていました。
(のなか くにこ)





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野中邦子(2006.5.2更新)







プチ・センチメンタル・ジャーニー

 若葉のきれいな季節になりましたね。三鷹市民ギャラリーへ大岡信コレクション展を見にいってきました。私が大学生だったころによく見ていた美術作家の作品がいっぱいあって、ちょっとしたノスタルジーを感じました。瀧口修造、加納光於、菅井汲など。版画家の駒井哲郎先生は多摩美大で教えを受けた師でもあります。私が多摩美に入学してから、版画専攻科に進んだのも、駒井哲郎と長谷川潔の作品が好きだったからです。

 帰りに吉祥寺でおりて、井の頭公園を散策しました。池には巨大白鳥が浮かんでいました。ボートです。井の頭公園でデートをすると別れることになるとか、そんな都市伝説がありましたが、いまとなっては、「別れようがどうしようが、どーでもいいじゃん」という心境です。

 美大受験の生徒は美術専門の予備校に通いますが、この井の頭公園のすぐ先に、現役生向けの画塾があり、私はそこに一時通っていました。本格的な予備校は御茶ノ水にあった御茶ノ水美術学院(通称おちゃび)に通っていたのですが、井の頭公園のアトリエ・フランにも土日を中心に通っていました。

 そのアトリエには英語のクラスもありました。美大を受ける生徒のなかには、絵はすごくうまいけど勉強はまるでだめという子がたまにいて、せっかく力があるのに、学科で落ちてしまうこともあるのです。美大の受験科目は英国社の三科目。

 美大の学科試験なんて普通の大学にくらべたらものすごく簡単なので、いわゆる御三家といわれる進学校(当時は御三家なんて呼ばれてなかったけどね)に通っていた私や友人は学科の勉強はしなくていいから、苦手な石膏デッサンをしろといわれていました。そんなわけで、英語のクラスは何回か通っただけで、来なくていい、といわれました。一緒に通っていた友人によると、私の英文和訳を見て、先生が「うまい!」と感心していたんだそうですが、私の記憶からはすっぱり抜けおちています。

 左下のような鬱蒼と繁った樹木のあいだのほの暗い道を通って、池にかかった橋(右上)を渡ると、アトリエに続く道でした。噴水は昔とまったく変わっていない。

 木陰にはヒッピー風ファッションのいまどきの若い女性がいます。いまはヒッピーというか、インドやアジア風エスニックというのかな? 吉祥寺周辺はまだ、こういうファッションがよく見られます。私もかつてはフラワーチルドレンを気取っていたこともありました(しみじみ)。

 ミュージシャンの一団。沖縄の三線(さんしん)を爪弾いている若者もいます。昔の憧れだった画家たちの作品を眺め、ヒッピー・ファッション(ちがうって)の若者を眺め、ささやかなセンチメンタル・ジャーニー気分でした。さて、連休中は仕事です。
(のなか くにこ)











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野中邦子(2006.6.2更新)



 五月は花がきれいな季節ですね。最初の写真(上左端)は、東郷さんのエッセイに添えた(子供を思う母心をカーネーションであらわしてみました)母の日のカーネーション。

 2枚目は、わが家のバラ。私は去年の夏に中野に引っ越したんですが、引っ越しのときにはぜんぜん気づかなかった玄関先の植え込みに、なんとバラの花が咲きました。縁どりがピンク色の白いバラ。
 びっくり。バラ付きの家だったのね。

 この季節、芍薬の花もきれいです。これも母の日にもらいました。芍薬の花は季節限定だし、華やかでいいですね。
 近所のお寺の庭には牡丹園があって、こちらも盛りを少し過ぎたのを見にいきました。(下の写真3つ)

 「立てば芍薬、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花」という言い回しがありますよね。
 昔から、「芍薬と牡丹はほとんど同じじゃないの?」と思ってました。でも、笑顔がぱっと明るい美人を牡丹にたとえるのは納得がいきます。歩く姿もすっとして優雅なのを百合の花というのもいい。しかし、立ち姿が芍薬で、歩きだすと百合になるのって、なんだかギャップがありませんか? 芍薬と百合ってタイプが違うような気がする。
 ただし、芍薬は咲いてしまうと日持ちしないのが欠点ですね(美人も同じか?)
 きれいなバラにはトゲがあるし、百合の花は匂いがきついし、芍薬は日持ちがしない。
 まさしく "Nobody is perfect!"ですね。
(のなか くにこ)


  





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野中邦子(2006.7.2更新)

   


 みなさん、ワールドカップはいかがですか? 地元が強いってほんとですね。ベスト4に残ったのは、独伊葡仏とヨーロッパ勢ばかり。
 日本代表監督にオシム氏が決定しそうです。どんな采配をふるってくれるのかな。期待がもてます。

 7月初めに新宿ルミネ1のブックファーストへ行ったら、ワールドカップ決勝トーナメントのさなか、サッカー本特集の棚ができていました。私が一部翻訳した『世界の作家32人によるワールドカップ教室』もたくさん平積みになっていて(上左)、その隣にはオシム監督の写真も。(上中)この本は8人の翻訳者が手分けして翻訳してますが、ベスト4の決まった現在(7月2日)、勝ち残った国を担当した訳者も4人にばらけ、私もそのなかに入ってます(ポルトガル)。こうなったら、ポルトガルが優勝するよう応援しなくちゃね。クリスティアーノ・ロナウドの出身地であるマデイラ島はいまごろきっと大騒ぎでしょう。

『週刊朝日』の書評では、エッセイの出来を試合になぞらえて、「日本(について書かれたエッセイ)は凡庸でグループリーグ敗退」と片付けられてました。試合のみならず、エッセイでも……とほほ。

 ブックファーストには、その週の新聞書評にとりあげられた本のコーナーもあって、日経に書評が載った『悪魔と博覧会』もありました。(上右)日経の書評を書いてくれたのは海野弘さん――ぜったいこの本好きそうだよね。一方、朝日新聞の書評は巽孝之さんが書いてくれたのですが、たまたまひかわ玲子さんの出版記念会で巽さんにお会いしたら、「書評、書いたよ!」といわれて喜んだのでした。それよりびっくりしたのは、お会いするなり、巽さんと小谷真理さんが2人して携帯電話カメラ&デジカメで写真を撮ってくれたこと――まるで林家ぺー・パー子状態!

 うちの近所のあおい書店では、サイエンスフェアをやっていて、早川書房の科学書がずらっと並んでいます。塩原さんの訳した『マザー・ネイチャー』や東郷さんの『ミイラはなぜ魅力的か』、私の『世界を変えた地図』が一緒になっていて、牧人舎フェアのようでもあります。(下左)

 おまけ――文春文庫の平台には『やっぱり美味しいものが好き』の隣に、辛酸なめ子さんの『ほとばしる副作用』が!(下右)
 辛酸なめ子さん(本名の池松江美名義で小説も出しています)は、じつは私の中学・高校の後輩です。いまや、すっかり売れっ子の人気者ですね。ちなみに、2006年4月の当欄で書いた沖縄のキティちゃん黒糖キャラメルをくれたのは池松さんだったりします。

 今月はばたばた忙しかったので(ワールドカップの見すぎか?)、オチのない書店めぐりの報告のみにて失礼します。(あと、ほんとうは書店のなかは撮影禁止です。よいこは真似をしないようにね)
(のなか くにこ)


 





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野中邦子(2006.8.5更新)

 吉原治良展を観てきました。

 いろいろ心配ごとや仕事のストレスが溜まってユーウツな気分になっていたので、たまには気分転換したいな、と。
 たまたま終了間近だったので、あまり期待しないでぶらっと出かけたのですが……これが、とてもよかった。

 吉原治良といえば、この写真にあるような円をテーマにした抽象画が有名です。でも、初期の作品はほとんど知らなかったので、改めて初期のモダンな画面を見て目を開かれました。

 画家はたいてい若い頃に自画像を描きます。というのも、芸大では学生に自画像を描くことを必修にしているんですね。それ以外にも、モデルを雇うお金のない貧乏画家は、自分をモデルにして人体を描くのが常です。もちろん、そればかりではなく、レンブラントやゴッホのように、自己省察という意味もあるのですが。

 で、吉原治良も自画像を描いています。顔を初めて知りました。知的なハンサムです。この初期の自画像からして、すでにモダンなのです。構図が洗練されていて、キャンバスの白を残したかすれたような淡い色調が、美しい! 生まれつき、コンポジションの造形センスがあるんでしょうね。ピカソしかり、デュシャンしかり。自然に手を動かしても、おのずとバランスのとれた構図、目に快い色彩が生まれてきてしまう。

 その後、魚や朝顔などをたくさん描くようになります。静物画や風景画も人気があったようです。どれも清潔感があって、色と線が都会的で、とてもモダンです。さぞかし人気があったんだろうなと思わせます。装丁やグラフィックデザインも洒落ています。

 ところが、これで満足しないのが一流の芸術家です。吉原治良も情緒あふれる静物画を捨てて、抽象絵画に突き進みます。この頃の習作は見ていて苦しいくらいに試行錯誤のあとが見られます。

 ところが、時代はおりしも太平洋戦争。幾何学形態を描いた抽象画に対して「何が描いてあるのかわからない自己満足」と批判されます。
 純粋抽象画ではなく、山や木や稲妻の形を連想させる妥協的な絵で軍部の批判をくぐりぬけなければならない。
 いま、朝のテレビドラマ『純情きらり』に出てくるトウゴさんを思いだします。話は飛びますが、この『純情きらり』に出てくる笛子さんとトウゴさんの長女、カズちゃんはかわいーですね。私が大ファンです。で、このカズちゃんが、原作(原案?)である『山猿記』の著者の津島佑子さんなんですってね。つまり、お父さんのトウゴさんは、太宰治というわけです。

 閑話休題。
 吉原治良は抽象画に突き進むわけですが、ある日突然(だかどうだか知らないけど)、あの円があらわれます。「具体」というグループを作っていて、そのシンボルのGを図案化したものが、やがて円になるわけですが、驚くのは、あんなに苦渋に満ちていた試行錯誤があるとき、ふっと突き抜けたように清澄に、穏やかに、ある次元を越えたかのように、変貌することです。

 こうして、あの有名な円ができあがる。いわば、苦闘から悟りに至るかのようなプロセスを辿ることで、観ている私まである種のカタルシスを覚えました。芸術に接する楽しさって、こういうところにもありますね。すかっとしてストレス解消になりました。こんなとき、私は絵っていいなーと心から思うのです。
(のなか くにこ)









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野中邦子(2006.9.2更新)

 夏休みの読書で(小中学生じゃないんだから!)、『林芙美子の昭和』を読みました。

 当コラムのテーマの一つに「これが私の生きる道――女の一生を読む」というのがありますが(最近そっちの路線はサボってますが)、その趣旨からいえば、ぜひとも林芙美子の小説はとりあげなければいけないところです。ところが、林芙美子の小説って、意外と入手しにくいんですね。講談社文芸文庫とか。

 『放浪記』と『風琴と魚の町』『浮雲』は読んでいるし、映画でも『浮雲』はかなり強烈な印象が残っています。高峰秀子と森雅之……二枚目、森雅之のダメ男ぶりがいいんですよね。ほかの作品も読まなきゃナーと思っているうちに、文学と映画の両方に強い評論家・作家、川本三郎氏の林芙美子論が出たので、こちらを先に読みました。

 林芙美子の文学を辿ると同時に、戦中・戦後の東京町歩き、町の変化を辿るという一面もある本。散歩が趣味の私には、とても面白い。林芙美子が中野周辺に住んでいたり、その近辺を小説に描いたりしているのは意外でした。記念館が西武新宿線の中井にあることも初めて知りました。うちのそばなので、こんど行ってみよう。

 ところで、夏の緑陰読書ですが、エンターテインメント系の小説では、奥田英朗のOLものを2冊ほど読みました。働く若い女性が主人公です。そういえば、林芙美子の小説も働く若い女性を主人公にしたものが多いのですが、この両者の趣きがなんと違うことか! 

 まず第一に、奥田の小説には、貧乏と戦争がいっさい出てきません。林のほうには、必ずといっていいほど、貧乏と戦争が描かれています。戦後60年、それだけ日本の社会が豊かに、そして平和になったということなんでしょう。職業のほうも、林のほうは女給や女中や行商人ですが、奥田のほうはホワイトカラーのしかも総合職。いわゆる、キャリアウーマンです。男の部下をもつ管理職の女性上司も出てくる。林芙美子的な「戦争と貧乏」を身近に知らない世代がどんどん増えてきて、小説も変わらざるをえない。戦後の名残や貧乏を知っている最後の人びとは、かろうじて団塊の世代でしょうか。

 奥田の小説には、貧乏と戦争は出てきませんが、そのかわり、登場人物にとって何が大きな問題かというと、人間関係(おもに恋愛と社内人事)と差別(女性差別と社会的な弱者への差別)です。なるほど。

 貧困と戦争がなくなった社会では、人間同士の関係性が強まるんですね。幸せといえば幸せですが、林芙美子が描いたような溢れ出るエネルギーは希薄。空腹に悩まされなくなると、小さなことに一喜一憂するようになる。そうすると、精神科医の出番です。

 奥田の小説で私がとくに気に入っているのが、「伊良部一郎シリーズ」。『イン・ザ・プール』『空中ブランコ』、そして、最新刊の『町長選挙』など。

 悩みを抱えた人びと(現実にモデルがいそうな人もいる)が次々と登場し、精神科医の伊良部と接して、はちゃめちゃな「治療」のすえに、自分の生き方を見直し、再生するという物語。伊良部のキャラクターがユニークで最高です。患者のほうも、どうしても痩せていなくちゃ我慢できない女優(黒木瞳?)や同じパターンの恋愛小説しか書けなくなっている女流作家(林真理子?)が登場して、とてもおかしい。ひとごとではなく、翻訳者も強迫神経症や鬱病とは縁がありそうですが。

 そういえば、林つながりで、ふとした思いつきですが、林真理子はいわば平成の林芙美子ですかね? 林芙美子も存命中は週刊誌などに登場して、いかにも流行作家という感じでした。原稿を大量に書いて、ベストセラーもあって、映画化や芝居化された作品も多い、と共通点がありますね。とはいえ、違うのは、芙美子は町を歩いた人だけど(パリの街も下駄で闊歩したそうです)、真理子のほうは歩かない人、というところかな。ハイヤーかタクシー、あるいはヤングエグゼクティヴのお迎えの外車にしか乗らないというイメージです。まあ、私はどちらかといえば歩く人なので、手に入れにくい本を探しても、林芙美子を読んでみようと思っているところです。
(のなか くにこ)









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野中邦子(2006.10.3更新)

 たまたまケーブルテレビを見ていたら、大流行したときに見そびれた『冬のソナタ』をやっていたので、ちらちらと見ました。ちょうど、ミニョンさんが自分はチュンサンではないかと疑いはじめたところでした。

 ミニョンさんのファッションがじつに独特です。よく『冬のソナタ』は、ロマンチックさといい、ご都合主義のところといい、理想化された恋人といい、少女漫画そのものだとよくいわれます。ミニョンさんのファッションも、現実にはありえないような、パステルカラーのきれいな色で、「なるほどなー」と思いました。こういう衣装を着こなすペ・ヨンジュンさんはやっぱり只者ではない。

 あと、ミニョンさんもユジンも、立ち姿がとてもいいです。すらっとしていて、細い。ペ・ヨンジュンさんはその後、鍛えてむきむきになってしまいましたが。

 その後、しばらく東京を離れて、帰ってきた日に、さて続きはと思ってテレビをつけると、最終回でした! 最後にばたばたっと時間をワープして解決するのって、『猟奇的な彼女』もそうでしたね。

 ところで、このドラマを見て思いました。「おばさんというのは少女趣味なのだ!」と。

 ミニョンさんのいいところは、ユジンを愛するがゆえの嘘をつかないところではないでしょうか。愛しているのに、口先だけで「愛してない」とは絶対にいわない。身を引いてユジンをサンヒョクに譲ろうとするけれど、でも、彼がまだユジンを愛してるのは誰の目にも明白です。だからユジンも自暴自棄になったりしないですむのですね。誤解から、引き返せない道に嵌りこんでドロドロという話は、それはそれで面白いけど、なにしろロマンチック路線ですから。

 この、「嘘をつかない」というのは、当たり前のようですが、とても大きな美徳なんだなーと思いました。このごろ、保険会社の未払いとか、年金受給の嘘とか、裏金問題とか、会社ぐるみ、組織ぐるみの嘘が平気でまかりとおっているのを見るにつけ、ごく小さな、世間的にはほんとにどうでもいいような、自分の気持ちだけでも嘘をつかないミニョンさん、やっぱりかっこいいと思ったのでした。

 それにつけても、おばさん(私のことです)ってのは少女趣味だなぁ――というのは、じつは最近、ブライスにはまっているのです。ブライスというのは一部で熱狂的な人気がある着せ替え人形です。いい年して、お人形遊びって……。

 でも、いいのです。おばさんだって、かつては少女だったんだから。「いつまでも少年のような男」(笑)というのとおんなじだい。
(のなか くにこ)









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野中邦子(2006.11.3更新)


翻訳に使った原書ペーパーバック


新しいジャケット
 トップページで紹介したソフィー・コッポラの映画『マリー・アントワネット』が話題です。来年、正月第二弾ロードショーの予定。

 この原作、アントニア・フレイザー著『マリー・アントワネット――旅路』Marie Antoinette The Journey by Antonia Fraser の翻訳をしています。ペーパーバックで500ページ以上もある大著。しかも、映画公開に合わせて特急スケジュールです。

 このあいだ試写を見てきました。ファッションに興味がある人(とくにガーリーやお姫さまファッション)とグルメ・ファンは要チェックです。

 「Sex in the City」で主人公のキャリーが大好きといって話題になったマノロ・ブラニクが靴のデザイン、雑誌やテレビでも人気のパティシエ、ラデュレがスウィーツを作っています。もちろん、有名なマカロンも出てきました。とってもきれいです。一見の価値あり。撮影場所も特別にヴェルサイユ宮殿内の本物の部屋を使っているそうです。

 18世紀の宮廷ファッションやヴェルサイユの生活が再現されていて、文化史的にも楽しめる映画でした。嫁いできたときのマリー・アントワネットはまだ14歳。夫は15歳で、ティーンエイジャーなのにセレブで、注目の的。しかも、はやく世継ぎを産めと責められてしまう。ちょっとかわいそうですね。

 でも、伝記映画ではないので、時代背景や具体的な事件はあまり詳細には描かれていません。そんな不足を補うには、フレイザーの原作を読むのが一番。

 ところで、画像を載せようとamazonを検索したら、原書ペーパーバックのデザインも映画に合わせて変わっていました。映画の『マリー・アントワネット』はピンクがーマカラーのようです。演じるのはキルステン・ダンスト。あまり似ていませんが、かわいかったです。

 ということで、近況報告をする余裕がなく、今月は『マリー・アントワネット』の宣伝で終わります。
(のなか くにこ)









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野中邦子(2006.12.3更新)


『赤毛のアン』新潮文庫
色褪せた表紙


手製のカバー。
よれよれです。
 ときどき気分がひどく落ちこむと、少女小説に逃避することがあります。  もう何度読んだかわからないモンゴメリの『赤毛のアン』。第一作を読むと、あとを引いて十冊目の『アンの娘リラ』まで読まずにいられないので時間がかかります。でも、逃避なので、時間を潰せるほうがいいのです。ついこのあいだも全巻読破してしまいました。

 ところで、私が持っている村岡花子訳の新潮文庫は昭和29年発行、昭和36年の23刷りです。もうページはまっ茶色になっています。ちゃんと検印用紙も貼ってあるし、文庫本なのにスピン(しおりの紐)がついています。

 村岡花子版の翻訳がもう古くなっていることは周知の事実で、新訳もいくつか出ています。なじみがあるし、手元にあるのでずっと村岡版を読んできましたが、今回は途中で講談社文庫の新訳にスイッチしてみました。『アンの夢の家』からです。とくに比較はしませんでしたが、これまでずーっと村岡版で気になっていた人名表記の間違いが修正されていて、ようやくほっとしました。

 いちばん気になっていたのは、ステフェン・アーヴィングという名前。これはもちろん、スティーブンが正しい。村岡版でもステフェンに混じって、一か所、愛称のスティーブが出てきたりします。翻訳は時代によって変わるものなんですね。これから読むかたには新訳をお奨めします。まあ、村岡版も「……しなさる」なんて敬語の使い方はクラシックで、いい雰囲気ですけどね。

 ところで、この古い新潮文庫の末尾にある「最新刊」のリスト。
三島由紀夫『金閣寺』
伊藤整『氾濫』
丹羽文雄『蛇と鳩』
源氏鶏太『鏡』
本多秋吾『「白樺」派の文学』
石母田正『歴史と民族の発見抄』
モンゴメリ/村岡花子訳『丘の上のジェーン』
クリスティ/中村能三訳『ABC殺人事件』
柴田錬三郎『眠狂四郎無頼控』
 1961年の最新刊――ほとんどの著者が故人ですね。45年前だからしかたがないか……ほとんど、というのは、本多秋吾氏だけ確認できなかったからです。1908年生まれだそうなので、ご健在かもしれませんよね。
 なんにせよ、このラインナップで最新刊とは時代を感じます。ちなみに、このときの『金閣寺』は定価90円。2006年の新潮文庫『金閣寺』は580円です。 
(のなか くにこ)