| ゲストコーナー(2001.3) |
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| ・ゲストのかたに読みきりコラムを書いていただくコーナーを作りました。 第1回のゲストは毎日新聞出版局の志摩和生(しまかずお)さん。 ベストセラーになったカレル・ヴァン・ウォルフレン『人間を幸福にしない日本というシステム』や鈴木主税さんの『職業としての翻訳』の担当編集者です。 映画と音楽にはユニークな趣味をもっている志摩さんですが、今回は本職である編集の仕事について書いてくれました。人の文章を的確に読んで直しを入れるのって本当にむずかしいんですよね。(NK記)。 |
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The Strongest Drive 志摩和生 |
原稿を一読し、この文章はよくないと思う。自分の「センス」がそう告げるわけです。 しかし、どこがどうよくないか、はっきり分からない。ためしに、自分の感覚に従って直しはじめてみる。そうすると深みにはまって、気がついたら、ほとんど全部の文章に赤が入り、完全に編集者の原稿になってしまった――こういうことは、とくに編集者がやる気満々の場合、けっこうよく起こります。問題は、その編集者によって書き直された原稿が、本当に前よりもよくなっているかということ、そして、仮に編集者の感覚ではそうだとしても、著者――翻訳者の場合もあるでしょう――がそれを納得するかどうかですね。 ここで、著者が納得するかどうか(著者を納得させられるかどうか)は、結局、両者の力関係で決まります。編集者に本当に力のある場合、または著者に本当に力のない場合は、そうした編集者の文章が、著者の名前でそのまま本になることも稀ではありません。しかし、それが本来の編集と言えるかどうか、意見の分かれるところでしょう。 米国の有名な編集者サックス・カミンズの伝記を読むと、カミンズは原稿を全面 的に書き直すことこそ編集だと考えていたようです(ドロシイ・カミンズ著、加藤恭子訳『編集者とは何か』)。彼はそれを「清掃と修理」と呼んでいました。その「清掃と修理」を、たとえばフォークナーのような作家に施したわけですから、彼は本当に力のある編集者だったと言うしかありません。しかし、カミンズ自身、それは編集というより、ゴーストライティングに近いことを認めていたようです。 カミンズほどの力のない編集者がこれをしようとするとどうなるか。著者と大喧嘩になります。私にも経験があります。ときには私が勝ち、私の「表現」が本になりました。ときには私が負けました。その相手が翻訳者だったこともあります。 校閲レベルのこういう「喧嘩」は、大いにやるべきだと言う人がいます。私も、基本的にはそう思います。それは、編集というものの核心部分であるとさえ言えます。しかし現実には、レフリーのいないこの喧嘩は、とくに両者の実力が拮抗している場合、泥仕合になるほうが多いのです。そして、これはそれぞれの人間性にもよるでしょうが、少なくとも私の場合、大喧嘩のあとに同じ相手と仕事ができたことはありません。別 に憎しみのような個人的感情がまじる「喧嘩」ではありません。しかし、言葉の感覚の違いに関しては、平和に解決するのはとても難しいということです。 私は、経験から、「センス」の違いで喧嘩をするのはやめることにしました。著者があまりに非力で、どう書き直したってこれ以上は悪くならない、という場合は別 です。しかし通常は、著者を論理で完全に説得できる見込みがなければ、「気に食わない」個所を指摘しません。私には気に食わなくても、その「センス」もまた著者の創造物の一部だと考えるしかないと悟ったからです。 いや、それ以上に、自分のセンスなるものが当てにならないことを悟ったと言うべきでしょう。実際、その通 りです。 |
![]() The Elements of Editing by Arthur Plotnik |
編集者が、自分の文章観や言葉のセンスを著者に「押し付ける」ため起こるトラブルは、世界中、どこの編集現場でもお馴染みのものなのでしょう。それが証拠に、アーサー・プロトニークの「編集入門」(Arthur
Plotnik, The Elements of Editing)には、次のような愉快な「標語」が掲げられています。 The strongest drive is not love or hate. It is one person's need to change author's copy. そしてご丁寧に、この標語には赤字修正の跡があり、第2文のchangeが何者かによってmodify に変えられ、次にrevise に変えられ、その後 alter, rewrite, amend などを経て、結局もとのchange に戻っている様が示されています。編集者が著者の原稿をいじりたがるのは、たいがい、自分の力を誇示したいがために過ぎないのだ、とプロトニークは看破しているわけです。 |
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私の経験を振り返っても、そういうことは言えそうです。原稿やゲラにたくさん赤字を入れれば、たしかに「仕事をした」という満足感が得られます。しかし、仮にそれで少しよくなっているとしても、多くの場合、費やされた時間とコストを埋め合わせるほどの改善ではなかったことを認めざるを得ません。 もっとも、プロトニークも言うように、編集者の「書き直し」衝動が、一見「表現」を対象にしているように見えて、実は著者の思想内容への反感に起因する場合は、やっかいです。つまり「内容」が気に食わない場合です。それについて言いたいことが私にもありますが、しかしこれは、また別の話ということになるでしょう。 念のために言っておけば、この「衝動的」書き直しは、たとえば『職業としての翻訳』のなかで鈴木主税さんが実例を示している書き直しとは、まったく別次元のことです。鈴木さんの場合、なぜそう書き直すのか、万人を納得させる理屈がちゃんとある。ここでお話ししたのは、理屈もなく感覚的判断だけで書き直しをしたがる編集者の癖についてであります。言い方を変えれば、鈴木さんほどの力がなくても、編集者であるというだけでその力があると錯覚する編集者が多い、という警告ですね。(そして、鈴木さん自身、「趣味」で文章を直す編集者の被害にあったことを書かれています。) |