本の顔 その1 本との出会いはいろいろあるけれど、やっぱり本屋の棚を見ながらふと手に取った、という予期せぬ出会いが一番うれしい。その時、タイトルを見るか、作者名を見るか。でも、やっぱり第一印象の要は装丁ということになるだろう。だって、それは「本の顔」だから。 数ある文庫に鮮やかなカラープリントでカバーがかかるようになったのはいつの頃だろう。最初は中身と外の顔がかけはなれているようで、わずかに違和感があったのを覚えている。それがたぶん、多くの装丁家の努力によっていつの間にか解消された。今では、カラーのカバーがない文庫本なんてとても淋しいものだろう。でも、私たちの記憶の中にある「本の顔」は、実はその下の表紙にあるのではないか。 | ![]() |
本の絵を描いてみればわかる。四角い本のアウトラインをとって、その中にまた四角いラインをひいてタイトル部分をつくる。その周りに枠を描く人もいるかも知れない。それで、本だということがわかる。昔からの本の顔だ。 出版社によってパターンは違うけれど、誰の書いた本でも文庫本の表紙は共通パターンでできている。カバーをとってしまえば、皆同じ顔をしている。そして、それはちょっと懐かしい。多分子供の頃から愛読して、カバーなどボロボロになってとれてしまった幾冊かの文庫本の記憶だろうか。 出たばかりの待ちかねた新刊を手にしながら、そっとカバーをめくってみて出会う顔に、私はいつも、ちょっとほっとする。 | ![]() |
本の顔 その2 売り場でいかに目立つか、たくさんの本の顔のなかでいかに引き立つかと装丁家は苦労する。もちろん中身をいかに表現するかが第一課題だけれど、売れなければ(読まれなければ)何事も始まらない。で、最近は大声をあげている本が増えている。 広い平台の上に新刊やら人気本やらがズラッと並び、どれもが大声を出していると――デカデカしいタイトル、派手な色使い、余白のないはみ出しそうなレイアウト等々――にぎやかでうれしい時と鬱陶しい時がある。聞き分けてみれば同じ大声でも、ほれぼれするようなものもあれば、いつ会っても逃げ出したくなるものもある。一過性の話題のビジネス本などの中には、買う気もないのに悲しくなる顔がある そんな中で風格のある文芸本だったりすると、その大声に優雅なバリトンを聴く心地にさせられる。もっとも中身を読んで、ゆっくりと感動してからもう一度その本の顔を眺めると、微妙に違った印象を受ける。こんなに面白くて品格の高い作品なのだから、ここまで大声を出さなくてもいいのに…と思われることもある。多すぎる本の中に埋もれまいとして少し無理をしたかな? 発売時のキャンペーンの一環で選ばれた顔だったのかしら? と余計なことを思い巡らしてしまう。 | ![]() 『血脈』 |
『血脈』はそんな本のひとつ。堂々と美しい。紙は綾の入った特殊紙でボリューム感たっぷり、タイトルの墨文字は箔押しである。そのうえ上、中、下3巻並ぶ。重厚な風格はわかるけれど、作者名が違ったらちょっと……と思う。 でも作者は「佐藤愛子」なのだから、あたりを祓う大声はあたりまえかしら…と私は納得しましたけれど。 |
本の顔 その3 一目見て、気持ちの良いにぎやかなおしゃべりが聞こえてくるような気がした。なんとおしゃれでカラフルな……と思って買い込んだ一冊が「丸谷才一と21人のもうすぐ21世紀ジャーナリズム大合評」。読むと、それぞれ一家言あるくせ者たちがいろいろなテーマにそって論を展開している。楽しくて為になる相当高度な内容に、いつしか、話し上手なオジサマたち(時々オバサマもいる)に交じって興味津々とお喋りを聞いている無知な若者の気分にさせられてしまった。 ところで、読後に改めてカバーを見ると、第一印象と違ってずいぶんとシックだ。カラフルな印象だったのは長いタイトル文字にいろいろ色が付いていたからで、画面の半分を占める人物シルエットは墨一色である。装幀は舟橋全二、いつも色鮮やかで切り絵のようなデザインが印象的な作品をつくるデザイナー…やっぱり、上手いなあ(失礼!) | 『丸谷才一と21人のもうすぐ 21世紀ジャーナリズム 大合評』 装丁 舟橋全二 都市出版 ![]() カバー |
この本の顔でうれしかったのはそれだけではない。カバーを外すと、本自体の表紙が現れる。これがいい。タイトルも何も書いていない。うっすらとクリーム色がかった紙のスペースに両側から人物シルエットがのぞいている。別段おしゃべりをしている風にも見えないけれど、文字が一つもないことで、かえってなにやら奥行きを感じさせる。中身に詰まっているはずの確かな言葉の数々が、一層慕わしいものに思えてくる……というのは考え過ぎかしら? 近頃は、この表紙にタイトル文字をわざと書かない方法が多い。何らかの理由でカバーを取り去ってしまうような読者が減って、表紙がむき出しになることはほとんどなくなったという事情があるだろう。それに、背表紙にしっかりタイトルが入っていさえすれば、本棚に並んでいても困ることはない。だったら、このスパースをもう一つの視点で表現する場と捕らえたくなるのは、デザイナーとして当然かもしれない。私が装幀の仕事を始めたばかりの時にまず教わったのは、表紙はカバーのデザインをそのまま生かすというものだった。お手持ちの本のいくつかのカバーをそっとはずして見てください。たとえば、カバーは全面カラー写真にタイトル、表紙は写真がなくて、カバーと同じ位置に同じ書体でタイトル、なんていう本がきっと見つかると思うのだけれど。中にはこちらの期待を裏切るように、カバーとはまた違ったデザインのタイトルが入っているもののある。何にせよ、控えめにカバーの影に隠れている、というのが表紙デザインの基本的立場なのだけれど、それだけではないもう一つの本の顔を見つけると、なんだかトクをしたような気分になるもの。新しい本を手に入れたら、一度はカバーを外して見るのがオススメ。 | ![]() 表紙 |
本の顔 その4 一目見て、ああデザイナーが楽しんでつくったなぁ、と感じる本の顔がある。そういう本はとても幸福そうに見える。 本の顔をデザインするときに、デザイナーはできるだけ制約のないところから始めたい。四六判だったりA5判だったり、それぞれのスペースを、一枚の絵のように一つの世界でまとめたい。どんな内容の本でも最初は自由な発想のできるところにまず立って、そこから「白い本にしよう」「赤い本はどうか」とか「できるだけにぎやかに楽しく」「思いきり知的に気取ろう」とか湧いてくる想念をかき分けながら、一方で、実はどういう本の顔を求められているかを探る。たいていは、内容の性格上おのずと制約がある。(たとえば難しい歴史書に子供の描いたクレヨン画は似合わない、逆に赤ちゃんの育て方なんていう本に、重々しい墨文字は使わない、というのは、ごく自然に誰にでもわかる共通感覚としてあるでしょう)。常識を裏切るデザインというのもあるが、それも片方に制約があってこそインパクトが生まれる。また、制約があってこそ、混沌としたデザイナーの想念の中からきちんと理知に支えられた的確なアイディアが取り出される、ということでもある。 | ![]() 『ガウディ』 ヘイス・ファン・ヘンスベルヘン 野中邦子訳 装丁・鶴 丈二 |
それでも……自由につくりたい、というのがデザイナーの本音。モノによってはそういう幸福な条件が揃っている場合がある。今回選んだ2冊は、多分そういう条件に恵まれた幸福な本なのではないか。 『ガウディ』はどこにタイトルがあるのか、ひと目では認識できない。それでも、スペース全体で『ガウディ』であることを歌っている。この本はまず『ガウディ』でありさえすればよい、という一つの条件しかなかったに違いない。ガウディの世界を思いきり全面に出して、色鮮やかなモザイクに組み合わせたタイトルロゴをつくる喜び、小さく日本語タイトルを飾る工夫、帯も含めて色の遊びはガウディ・タッチに、縦方向、横方向も自由、ガウディであるかぎりバランスは破綻しない。片や『村上ラヂオ』の条件は、ノスタルジー。それだけ。派手に目立つとか、高級そうにみせるとか余計な心配はしなくてもいい。誰でも心に持っている、温かい、ちょっと切ない、懐かしい、少し苦い、忘れられない世界をつくればいい。それはデザイナーが簡単につくったということではない、むしろ逆にとても難しい作業だったに違いないのだけれど、それは羨むに値する苦労だったはず。 というわけで、この2冊はとても幸福に見えて、それを買い求めた私も読む前から幸福を感じることになったのです。 | ![]() 『村上ラヂオ』 村上春樹 絵・大橋歩 装丁・葛西薫 |
蓬田やすひろ・装画 ![]() 藤沢周平 「龍を見た男」 新潮文庫 |
本の顔 その5 表紙に全面イラストが描かれていて、その絵がとても気に入ってしまう、ということがある。 その本の内容がとても好きになった場合は、絵が何であろうと「好き」に違いはないのだけれど、気に入った絵だと相乗効果で小さな文庫本であろうととても大事な愛蔵本になる。ときどきその本の絵を眺めて、読んだときの陶酔感をまざまざと思い出してうっとりする。そのとき、もう絵と内容は分かちがたい。 | 西のぼる・装画 ![]() 宮城谷昌光 「太公望」 文春文庫 |
![]() 平岩弓枝 「清姫おりょう」 御宿かわせみ二十二 文春文庫 | 特にシリーズ本だと、毎回同じ作家と画家の組み合わせにすっかり慣れてしまって、次はどんな話だろうという楽しみと、どんな絵が見られるかしらという楽しみで期待度は倍になる。 ところで、大ざっぱに言って時代小説の絵は限られているらしい。 蓬田やすひろさんという装画家がいて、その清澄な色遣いとモダンな構成が印象的でいつも心魅かれている。そう思うのは私だけではもちろんなくて、あちらの本こちらの本とすごい人気である。そこで困った問題が起きてくる。 | ![]() 宮城谷昌光 「長城のかげ」 |
![]() 白石一郎 「江戸の海」 文春文庫 | 左に並べた4冊の本は、どれも蓬田さんの絵。(ね、いいでしょう)そして作家は4人。 次に並べたのは、もうひとりの人気装画家、見事な色面でいつもうっとりさせてくれる西のぼるさんの絵。数を合わせて4冊並べたけれど、こちらは作家2人。(まだまだこれから増えそうな気配……) | ![]() 文春文庫 白石一郎 「おんな舟」 |
![]() 澤田ふじ子 「奈落の水」 公事宿事件書留帳四 幻冬舎文庫 | つまり、絵と作家の組み合わせが一つではなくなってしまっているのですね。別にみんな好きだからいいんだけれど、ときどき混乱してしまう。藤沢周平の気分でいたら平岩弓枝だった、とか、宮城谷昌光の姿勢でかかったら白石一郎だった…とか。読む前の読者の立場って結構微妙なものなんです、本の顔がいかに重要かっていうことなのだけれど。 好きな絵が増えるのはうれしい。でも、これでいいのかしら。 | ![]() 十時半睡事件帖 白石一郎 「玄界灘」 文春文庫 |
本の顔 その6 「手塚治虫、あるいは『鉄腕アトム』について語ることは、この国がいかに『戦後』を受容してきたかについて語ることに等しい。」で始まるこの本は、本屋の店頭で私を魅了した。大きなアトムの目に一瞬射ぬかれてしまった。 その棚は漫画コーナーにあって、さまざまな漫画そのものの線と色に囲まれていながら「アトム」であることをはっきりと、いっそオリジナルの絵よりも明確に訴えていた。思わず手に取ってしまった時にはもう購入する気持ちになっていて……著者の名前さえ知らないのに。 考えてみると、理由は二つある。一つはアトムの魅力。長年の漫画ファンにしてみればアトムにじっと見つめられてその前を素通りはできない。いや、漫画ファンでなくとも「鉄腕アトム」と時代を共有してきた世代なら気にならないわけがない。 もう一つはデザインの魅力。アトムがこんなに変身して、なおかつやっぱりアトムである表現には脱帽してしまう。(ブックデザイン寄藤文平) でも、それだけじゃない。なにかまだひっかかるものがある。そう思いながら帰って本棚に収めようとしたとき、ふと思い出した。これととてもよく似た顔の本を知っている…この色、この線。本棚のどこかにその本があるはずだ。 |
![]() 大塚英志 『アトムの命題』 徳間書店 ブックデザイン 寄藤文平 |
それから3日後、みつけましたね。尊敬する装幀家、平野甲賀氏の本でした。「文字の力」は珍しく二色の本で、あの平野氏特有のデザイン文字が各ページに並んでいるだけ、という素敵な装幀集。この本の顔が色といい、線といい同じ香りがしているのです、紙質もマットで触感まで似ていて。 中身はまったく違う世界の話なので、ちょっとすぐには思い出さなかったのだけれど、記憶の引き出しの奥の方にあったものが本屋の店頭で作用したのでしょうね。1994年発行の本だから、およそ9年の時間差を飛び越えて今のデザインに勝手に繋がる道筋ができたのでしょう。 視覚の記憶が面白いのは、言葉の論理的道筋とは違ってなかなか意識的に追っていくのが難しいから。でも今回のような経験は誰にでも一つ二つありそうな気がする。それは言葉では捕らえきれないものを、視覚で理解したり解釈したりする可能性を信じさせる。 この二つの本の中身のことも、一見全然違うけれど、一方はアトムを通して語る戦後精神史なら、一方は一級のデザイナーの戦後作品史と見ることもできるわけで、大きな歴史の時間の中で同じ香りを醸し出していることは不思議でもなんでもないのかもしれない…というのは、こじつけかしら? 最後に、平野甲賀のインタビューから 「……ぼくには『世の中はすべて漫画である』という認識があって、もうなにもかも漫画にしちまえってさ。」 |
![]() 平野甲賀 『文字の力』 昌文社 |
本の顔 その7 寡黙な本というのがある。さっぱりしたデザイン、白みが多くてシンプルなレイアウト、小さなタイトル文字、さっとそばを歩くだけではなんの本か認識できない。でも、だからこそ気になって立ち止まる、ということもある。私はそんな本に出会うのが嫌いではない。 たぶん、一気呵成のベストセラーを狙っているわけではない。でも、もしかしたら大化けするかも…という密かな夢がその本の顔をうっすらと覆っているような気がする。そんな夢がなければ、こんなに思い切った寡黙を演出するとは思われない。わかる人にはわかるはずだ、という仕掛けの匂いもする。 『最後の晩餐の作り方』を見つけたとき、まず驚いたのが、帯の文字の方がタイトルより大きいこと。 一瞬意識して目をしっかり留めないと、なんという本かわからない。でも、わかってみたら急に興味が湧いてきた。モノトーンの写真はお皿とナイフ・フォーク。作者は知らない人だけれど、帯のキャッチコピーには誘われるものがある。 内容は料理関係という以外さっぱり見当がつかないのに、だからこそイソイソと手に取ってみる。これがミステリーでも不思議はない、単に食べ歩きかもしれない、あるいは料理に事寄せた小説かもしれない。それにしては、本の顔のこのシンプルな気取り方がいい。タイトルは一般的な明朝書体だけれど、字間の微妙な空きが生きて「晩餐」の文字が華やかだ。このデザイナー(この場合は新潮社デザイン室)は何を考えたのだろう。たぶんヨーロッパ発だぞ、とまず言いたかったのだろう。だから大声を出したくなかった。正面切って見せるのは写真(Takashi Otaka)だけにして(しかもシックに色を抑えて)文字はきちんとした発音でしっかりと、だが小声で伝えよう。それだけで奥が深いぞ、と思わせる。 そして全体は端正に……む、ただ者ではないぞ。と、私は勝手に想像して読み始めた。 |
![]() ![]() 『最後の晩餐の作り方』 ジョン・ランチェスター 小梨直訳 装丁 新潮社デザイン室 写真 Takashi Otaka |
本の顔 その8 "和田誠"というグラフィックデザイナーがいる。「週刊文春」の表紙でおなじみのイラストレーターでもあるし、映画も作れば文も書く多才な活躍で有名な人だけれど、 あの、煙草のハイライトのパッケージをデザインしたデザイナーだということは案外知られていない。そして実は和田誠装幀の本も山とある。(変形版の気持ちの良い装幀集も出ています) 例えば、最近刊行されて話題の丸谷才一「輝く日の宮」。一見伝統的な模様に見える けれど、実は手描きの絵。絵の具のタッチが残るあたりに昔と今とを繋ぐ風情がある。本の内容は源氏物語をめぐる文学論だったりするから、まっとうに対峙すれば古色蒼然としても不思議はない。そこに古色が古色に見えない今の手が描き上げた装飾柄を敷いて、なぜか「かわいい」とでもいいたくなるような明るい顔に仕上がっている。そして中身を読み終えると、文学で文学を語るエンターテイメントとでもいうべき世界に、"本の顔"が実はぴったりと合っていることに驚かされる。 "丸谷才一"の本は、いつのころからか和田誠が装幀することが多く、今ではすっかり人気の定着した数々の名エッセイ集などには、昔から和田誠にしか描けない線でそれぞれ実に楽しい"本の顔"が並んでいる。でも、丸谷才一には洒脱なエッセイだけでなく心に深く染み込むような小説、思いきりのよい文学論など多数の著作があって、その多くをやっぱり和田誠がデザインしている。並べて見れば、一見同じデザイナーのデザインとは思えないほど多彩な世界がある。 本の顔が本の中身としっかり繋がっていなければ、よい装幀デザインとはいえない――というあたりまえのことを、このデザイナーはさりげなく実行している。それは案外難しいことなのだ。 一目で装幀家の名前がわかる個性的なデザインが素晴らしいか、というとちょっと疑問がある。中身はまったく関係のない本が、同じ匂いを発しているとしたら…いいことかどうか? デザイナーの個性と中身の作者の個性がぶつかりあって、より一層魅力を発する世界が生まれるのが理想的だと頭ではわかっている。でも、デザイナーという視覚世界に生きる種族は、つい同じ表現手法で語りたくなる癖があるのも事実だ。その点、いかに頭を柔らかくして本の中身と対峙できるかがポイントになる。たとえば、武道の達人が無我の境地で試合に臨むようなもの…かな(?) 和田誠という人は、きっと達人の域に達していて、いつでも無心になれるのだろうな。 「輝く日の宮」には中身も関連しているし、本の顔も関連している親戚筋の一冊がある。「新々百人一首」、中身はタイトル通り古今の和歌を論じたもの。装幀の表現手法は同じで、むしろここから「輝く日の宮」が生まれたという方が正確かもしれない。この本が売り出されたときは驚いた。カバー裏表紙に商品として入れなくてはならないバーコードがなかった。バーコードは読み取らせるために白地に入れなくてはならず、カバーがどんなデザインでも四角く白く抜かなくてはならない。これが多くのデザイナーの不評をかってきていたときに、正面切って反対の姿勢を実行した和田誠には心底感動しましたね。(バーコードはシールでちゃんと補っていて、はがせばカバーデザインを壊さないようになっていました) ところで、「輝く日の宮」を買った方は必ずカバーの折り返しを開いてみてくださいね。右と左に(表側と裏側に)男と女がいる。折り返しているときには見えない。なんとも心憎い構図に胸がときめく……この本は文学の話だけれど、実は男と女の話なのだから。 | ![]() 『新々百人一首』 ![]() 『輝く日の宮』 ![]() 『好きな背広』 ![]() 『猫だって夢を見る』 |
下の4巻は日本版「ハリー・ポッター」シリーズ |
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本の顔 その9 『本は紙とインキでつくられた「オブジェ」』といったデザイナーがいる。 そういえば、あのベストセラー『ハリー・ポッター』が山と積まれていた一時期、1巻から新刊まで色とりどりに並んでいて、「まるでお菓子の箱みたい」と思ったことを思い出す。だから、というわけでもないけれど、本があきらかに〈贈り物〉として売られているのが気になった。きれいなお菓子の箱にリボンをかければ、素敵な贈り物になる、なるほど。もっとも『ハリー・ポッター』の新刊を待ちかねて読む子供たち(大人たち)にしてみれば、どんな売り方をされようとかまわないだろうけれど。 小さいとき誕生日に新しい本をプレゼントされて、心浮き立ったものだけれど……今、『ハリー・ポッター』をプレゼントされて大喜びしている子供がいる。その子供は何度も何度も本を読み返して、そのたびに表紙の絵を見るだろう。1巻目とか3巻目とかの違いは絵の色でパッと認識できるようになる。物語の記憶と、視覚の記憶は分かちがたく結びついて子供が成長して大人になっても心に残っているに違いない。それは宝物だ。 それほど強く長く人に影響を与える本の顔は、魅力的であって欲しい。一時の刺激ではなくて、深く染み入るものを伝えて欲しい。同じ『ハリー・ポッター』でも、日本語版は特にそのことを意識しているように見える。いかにも翻訳本らしく横組みのレイアウトもオーソドックスで安定感がある。ベストセラーといえど、長い時間を生きてゆく覚悟がある。読むのは子供だけではないけれど、やはり忙しいビジネスマンが読み捨てにするベストセラーとは自ずと違う。 原語のイギリス版にしてもアメリカ版にしても、その辺はていねいに作ってあるように見える。書体がおどろおどろしいデザインなのはアメリカのドラマティック趣味かしら。同じ『魔法』という言葉に対するイメージが、きっと国柄で少しずつ違うのだろうな。日本は完全にメルヘンの世界だし、イギリスは本国ということもあるけれど、魔法は伝統的に身近でリアルなことなのではないか。アメリカのハリー・ポッターは闘うべき異界への挑戦者という顔をしている。 映画もあれば、朗読のCDもあるし、関連グッズがいろいろ。でも、大基にしっかりとした素敵な『オブジェ』があればこそ。 |
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イギリス版 子供向け イギリス版 大人向け 右の2つはアメリカ版 |
本の顔 その10 本の顔をいろいろ語ろうと思い立ったとき、いつか必ず漫画の本の顔のことも書きたいと考えていた。なぜって、ここ数年で漫画の本は驚くほど種類が増えて充実してきているから。そして漫画の宿命(?)として、表紙にはどうしても中身の漫画をあしらわずにはいられないのだけれど、その成功例と失敗例の数々……。 実を言えば長い間、漫画本は表紙に中身の絵があればそれでいいという、安易な単行本があふれていた。その上、人気漫画なら必ず売れるという二重の安易がまかり通っていたような気がする。漫画雑誌ができるだけ派手に、にぎやかに、これでもかというほどガチャガチャな顔をしているのは理由のあることだとは思うけれど、連載漫画 ところが最近は美装版などというものまで出てくるほど、漫画の本棚における位置の見直しが広まったようだ。一見明治の文芸本と見まごうような箱入りだってあるのですよ。(例えば谷口ジローとか)価格はもちろん高い。でも安価な単行本タイプも必ず売られているから、立派な本はまあ保存版といったおもむき……おおっぴらに本棚に入れておけるわけです。そして、この頃急に種類が増えている文庫本タイプは、なるべく一見漫画本と見破られないようなカバーをかけて、例えば電車の中で文庫(漫画)片手に立っている所を見られても大丈夫、という深謀遠慮をめぐらせたのでは、と思われるものも多い。 とうとう表紙に中身の漫画を使わない、という新方式で売り出しているところもある。(例えば手塚治虫の「ブラックジャック」の文庫本は、おどろおどろしたスーパーリアリズムめいたイラスト(決して漫画ではありません)シリーズ)それがいいかどうかはまた別問題として、漫画本の顔の表現がまた広がったことは確か。漫画全体としては大人が持ち歩いてもいい本の顔、という装幀が多くなりました。漫画になじみのない方も、ちょっと試したりできるようになったかな。もちろん漫画家たちの絵がレベルアップしたことも大いに影響しているけれど。 写真に選んだのは、絵のレベルアップとかなんとかとはいっさい関係なし、装幀デザインが洒落ていて中身の4コマ漫画がいっそう小癪に見えてくる成功例。朝日新聞の漫画は今一つおもしろくないけれど、いしいひさいちにはちょっと気取った装幀のうれしくなる漫画本がいくつもありますよ。 「いしいひさいち」漫画シリーズ 編集 チャンネルゼロ 装幀 日下潤一 発行 双葉社 |
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本の顔 その11 (2004.1更新) 先日、事務所の近所の小さな本屋さんへ立ち寄りました。通り道ではないし、仕事の資料になるような本が少なく雑誌中心の品揃えなので日頃は忘れていたのですが、そこで見つけました……ハヤカワ・ミステリ・シリーズ。 なんとずらずらっと10数冊並んでいました。どこの本屋にもあるぞ、といわれそうですが、少なくとも私は最近こんなにまとめてしっかり置いている店を知りませんでした。 文庫より一つ背の高いポケット判。表紙はたいていモダンなアブストラクト。タイトル文字はどの本も決まって昔ながらのゴシック書体。ぴったりと透明なビニールカバーに覆われていて、さすがに今の書体で書かれたオビもビニールの中。 どれも最新版なのにどうしても懐かしい気がしてしまいました。その色遣いも、出来立てなのにはや古典ミステリに見えるのは、頑として変わらぬ装幀のせいでしょうね。早川書房って、好きだなあ。 | ![]() 『Yの悲劇』 ![]() 『悔恨の日』 |
カバーデザイン・小倉敏夫 ![]() コナン・ドイル 「四人の署名」 創元推理文庫 |
本の顔 その12 (2004.2更新) この頃、「本らしい本」というものを考えている。つまりベーシックデザインとでも言ったらいいか。私たちの頭の中にある「本」という抽象名詞にぴったり寄り添っているビジュアルイメージはどんなものか? などというと難しくなるけれど、簡単にいうと昔っぽい印象を与えてくれる本の顔には一種独特の魅力がある、ということを身をもって体験したということなのだけれど。 推理小説に絞って例をあげると、創元推理文庫のクラシックシリーズ。19世紀のエッチング風な絵をきっちり額縁に入れて、昔の写真が黄ばんだような色を配したカバーが並んでいる。コナン・ドイルから始まって、フリーマン(ソーンダイク博士)やセイヤーズ(ピーター卿)……よく知っている探偵もいれば、初めて聞く探偵もいて、それでも躊躇することなく購入してしまう…同じような体験者がきっといると思うけれど、いかが? | カバーデザイン・矢島高光
![]() ジューン・トムスン 「シャーロック・ホームズ の秘密シリーズ」 創元推理文庫 |
![]() ドロシー・L・セイヤーズ 「ピーター卿の事件簿」 創元推理文庫 |
その理由を考えてみると、文章を読むのに困るような大昔ではなく、それでも一昔前の―すでに歴史の審判を一度は通り過ぎた時代の枠組みが見えるほどには昔の、安心して挑戦できる本、ということになるかな。その「安心」とは何か? というと、多分その内容を存分に楽しむためのベース=平常心なのだと思う。時間は私たちのギアをナチュラルに戻してくれるらしい。 最近の本は、エンターテイメントでも現代を取り入れることに無理を重ねて、楽しむというよりは少々しんどいことが多い。近頃これぞ、エンターテイメントと堪能したのは、コナン・ドイルのパスティーシュ、ジューン・トムスンのシャーロック・ホームズの秘密シリーズでした。本家のホームズの世界を一歩もはみ出さずにドイルになり切って遊ぶ……だからカバーはやっぱり昔の絵を使って。 |
カバーデザイン西浦玉美 ![]() コナン・ドイル 改訂版ホームズ 新潮文庫 |
![]() オースチン・フリーマン 「ソーンダイク博士の事件簿」 創元推理文庫 |
それと、新潮社が出した改訂版のシャーロック・ホームズの装幀が気に入っているのでご紹介。ある種の昔風デザインかもしれないが、わかりやすい上品な機知が感じられる。 | |