1999年12月中野にて


忘年会での挨拶(聞き書き) 1999.12

「そもそも、なぜこのようなグループ(牧人舎)を作ろうと思ったか」

 昔、ある出版社で毎月出る洋書の新刊を読む仕事をしていました。何十冊も出る新刊の中にはぜひ翻訳したい本が何冊もありましたが、全部版権をとるわけにもいかず、また自分一人でやりたい本を全部翻訳するわけにもいかない。

 他社から出るのを待って、楽しみに邦訳を読もうとすると、どうも拙い文章だったり、専門用語の羅列で難解になっていり、結局、せっかくのよい本を殺してしまっているということがよくありました。

 あるいは、出版までに何年もかけて、邦訳が出たころにはすっかり古びてしまったりすることも。

 そんな状況がはがゆく、よい本を一般の人にも読みやすく、なるべく早く邦訳を出したいと思ったのが、グループを作った動機でした。

 初心はそういうことで始めたのですが、このところ仕事がどんどん来て、かなり忙しい思いをしました。そのために翻訳の質が落ちては本末転倒。来年は一人一人、もう少しゆとりをもって、充実した仕事をしていきたいものです。




ちかごろ読んだ本のことなど。 2000.2

 小生、別に中国の古代史をテーマにした小説ばかり読んでいるわけではありません。勉強するつもりでけっこうかたい本も読んでいます。今年になってから読んだ本のなかでは、バルザックの伝記(アンリ・トロワイヤ著)がとても面白かった。その昔、まだ高校生で演劇少年だったころ、『天井桟敷の人々』という映画が評判になり、演劇部のある先輩がまるでバルザックの『人間喜劇』のようだと言っていたのを覚えています。しかし、その人、はたして『人間喜劇』を読んでいたのかどうか、いまにして思えば ? ですね。別に『天井桟敷』がバルザックの描いた世界とまったくちがう雰囲気のものだと言っているわけではありません。そのころ(1950年代の初め)には、『人間喜劇』を翻訳で読むのは困難だったはずなのです。

 それから、18世紀末から19世紀初めにかけて、つまりフランス革命期からナポレオン時代に活躍したフランスの政治家、タレーランの伝記を読みかけました。やはり同時代のジョゼフ・フーシェがシュテファン・ツヴァイクのすぐれた伝記のおかげでよく知られているのに反し、タレーランのほうはいまや忘れかけているようです。というわけで、こういう人の大部の伝記の刊行に踏みきった出版社の勇気に敬意をはらいながら張り切って読みはじめたのですが、翻訳があまり読みやすくなくて途中で放棄しました。藤原書店の本だったので信用して買ったのだけれど、まことに残念でした。上下二巻で1000ページ以上の大著なのですが。

 ほかには清岡卓行の『マロニエの花が語った』を読みました。詩人で小説家の清岡さんとは面識があり、詩作品のほか芥川賞受賞作の『アカシアの大連』や長編エッセイ『手の変幻』なども読んでいます。今度の本は(たしか野間文芸賞を受賞していますね)彼にとって「わが心のハイマート」といったおもむきのもので、いつもながら文章のうまさに感心しました。もっとも、その昔、お会いしたときに、某新聞社から短いエッセイを頼まれたが、文章が難解だと言われて三度も書き直しをさせられたとぼやいていましたが。

 少し仕事に関係した話をしましょうか。この一月にやっているのは、Francis Fukuyama のThe Great Disruption という本(早川書房から四月に刊行の予定)ですが、つくづく社会科学の本では訳語の厳密さが必要だと感じました。spontaneous と voluntary を区別しないで訳したり、community の訳語が恣意的だったりしたら、著者のメッセージは正確に伝わりません。また、日本語の表現をとっても、「婚外子の出産率」と「婚外子の出生率」ではまったく意味が違ってきますね。こういう本にかぎらず、翻訳では基礎的な語彙をきちんと理解し、その意味を正確に訳すことの大切さを痛感させられたしだいです。

ともあれ、一日が30時間くらいあればもっと本が読めていいですね。




『職業としての翻訳』著者からひとこと 2000.3

 このホームページに短文を連載しはじめたとき、もっと自分の経験を書いてはどうかと示唆してくれたのは、野中さんでした。思ってもいなかったことなので、本当にびっくりしました。びっくりするには理由があります。その昔、編集者仲間だった山男をある出版社に紹介して本を書かせたことがあります。遠慮のない友人だったこともあって、私はそのときあれこれと注文をつけました。なによりも、「私は、どうした」というふうに自分をだしてはいけないと厳しく注意したものです。彼は(もう故人になっています)そのとき、ずいぶん書きにくかったようでした。彼がいま生きていて、この本を読んだら、きっとひどく怒ったでしょうね。

 『職業としての翻訳』と題したのだけれど、この本を書きながらずっと編集という仕事のことが気にかかっていました。ところが、慧眼な読者はちゃんとそのことを読み取っているようです。ある友人の曰く、「お前の経験を書いているところでも、編集者時代のエピソードが最も生き生きと描かれているね。本文の最後のところで『著者としては不本意ですが』とあるが、これはまさに本音がでたというところだな。翻訳の実際にかかわる記述は、だからややもすると取ってつけたような感じがするよ」ということです。どういうことかというと、「職業としての翻訳」が成り立つためには、編集者のサポートが欠かせないのだが、いまやそれは望むべくもない。著者の私にとってはそれが不本意だ、というのが彼の解釈。

 私自身、書いているときはあまりそういう意識がなかったけれど、あらためて指摘されると、そうも読めてしまう。著者としては異論がなくはないが、いったん口にしたことは自分の意図とはかかわりなく、受け取る側がどう解釈しようと、あれはこういうつもりで言ったのだなどと釈明し、訂正を求めることはできません。この本では、多くの人に話を聞いて、私の記述を補強しています。しかし、上記の理由で、それらはいずれも話を聞いた私が解釈した言説にほかなりません。言わば、本書のなかの談話は、ある意味でフィクションだと考えてもらったほうがいいようです。蛇足ですが。

 この本の見本ができたあと、行きつけの書店で『だれが『本」を殺すのか』という本を見つけて買い、さっそく一読しました。自分の本で最後にちょっとだけ触れた、出版の世界の現状を多角的にルポした好著でした。いずれなんらかのかたちで書いてみたいと思っていたテーマを、私にはとても考えられない取材能力を存分に発揮してまとめあげた著者の力量 には脱帽させられました。(こんなことを考えていたとき、塩原さんからメールでまさにいま同じ本を読んでいると知らされ、偶然に驚くと同時に、さすがだと思ったことを付記しておきます。なお、『だれが「本」を殺すのか』はプレジデント社発行、著者の佐野真一は『東電OL殺人事件』などの著書があるライターです。出版界の現状を知るうえでは必読の好著として、一読をおすすめします。




思わぬときにやってくるもの 2003.3

 税金申告の季節ですね。誰かが「税金や借金取りは思わぬときにやってくる」と言っていましたが、校正などもそうですね。実はいま、5年前に渡した原稿の校正がにわかに出てきて大いに困惑しています。3000枚以上もある大著なので容易に片づくものではない。今月は2冊の原稿を仕上げるほか、校了する本が1冊あるのです。事前に連絡してくれれば驚きもしなかったのですが。連絡といえば、本などを送ってくれる場合、事前に連絡なしでいきなり送ってこられるケースがある。

 ご存じの通り私は沖縄と東京を行き来して仕事しています。事前にメールでもくれれば所在を明らかにできるのだけれど、いきなり中野に送ってこられて私が沖縄にいたら、受取人不在で返送されてしまいます。二重生活は私の勝手な事情だから文句を言うつもりはないし、沖縄まで送ってもらう場合、余分な郵送料を負担します。しかし電話や手紙のほかにeメールや携帯という通信手段が利用できる昨今です。だが電話をかけてきて留守電にメッセージを入れればこと足れりと思う人がまだ多いようで、困ってしまう。




反戦運動家チョムスキー 2003.4

 ノーム・チョムスキーの近著、Media Control の校正を終えたばかりだ。チョムスキーといえば変形生成文法の創始者として知られる世界的な言語学者だが、最近は反戦運動家としての活動が目立ち、この本もそうした活動の一環であろう。私の手元にも邦訳された類書が4冊ある。ここで本の内容をくわしく紹介するわけにいかないが、たいへん興味深かったのは、いかにも言語学者らしく、アメリカのメディアにおける情報操作の一例として、「テロ」という言葉が巧妙に使い分けられている事実を指摘している部分だった。

 チョムスキーは、まず「テロ」の定義をアメリカの軍部によるものをはじめ、旧日本帝国陸軍のそれまでも調べて検討する。いちいち説明するわけにいかないが、彼はそれらがいずれも定義として妥当であるとしたうえ、現実にはそれが恣意的に歪められていると指摘する。たとえば、アメリカあるいはその同盟国がいわゆる「テロ」の被害にあった場合、メディアは躊躇なくテロとする。だが逆に、アメリカが非正規かつ小規模な軍事行動によって他国に害を及ぼしたとき、「テロ」という言葉は使われない。それは「自衛」であったり「報復」であったりするのだ。だから、アメリカ国民はつねに、自国が卑劣な攻撃によって不当に害をこうむっているとの印象を受ける。イスラエルとパレスチナの紛争に関する報道を見ると、メディアによるそういう報道の実態が非常によくわかる。

 この本は廉価な新書版で刊行される。ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思う。




中野が住みよくなった  2003.6

 中野に大型書店ができた。大型といっても紀伊国屋や丸善、八重洲ブックセンターなどにくらべれば売り場面積の点で大いに見劣りするが、家庭用品や衣類を商う十数店が営業していたフロアを二階分占有しているわけだから、ずいぶん広い。だが、この店の良いところは、専門書の品揃えが充実していること。それに何よりも嬉しいのは、古典文学全集が4種類揃っていたり、数年前の新刊に出会えたりすることである。

 日本の古典文学全集などは、ある出版社のものを買い始めるとつい同じシリーズを全部揃えてしまうが、4種類あると、巻によっては校訂者で選びたくなる。かつての百科事典のように家具として本を買うのならともかく、実際に読むためなら万葉はこれ今昔はあれというふうに選り好みしたくなるではないか。文庫で読めばいいという意見もあろうが、日本の古典など、明窓浄机とはいかぬまでも和机に向かい正座して読みたい、と私は思う。

 数年前に『バッハの鍵盤音楽』という大部の本を買いそびれたことがある。銀座の山野に新刊として1冊あるのを見たのだが、あとで買おうと思ってCDを物色しているうちに誰かが買ってしまい、手に入れそびれた。ネットで注文してもいいが、不要不急の専門書であるだけに、買わぬまま、いつしか数年経過してしまった。それがこの本屋にあったというわけだ。たまたま旧知に出会ったような嬉しさを覚え、喜んで買い求めたものだ。

 別にお勉強の本ばかり読んでいるわけではない。仕事に疲れると家から近いその本屋に足が向き、幕末の志士の写真集や焼きもののムックなどを買って、1階の片隅にある喫茶店で眺める楽しみもある。出不精になった私としては、必要な参考書を求めに新宿まで出向かなくてすむのはとても有難い。その反面、本の出費が急増したのは痛し痒しだが。

 こんなことで住みよくなったなどと言って喜んでいるのもどうかと思うが、実際にそうなのだからしかたがない。願わくば、この本屋がベストセラーばかり平積みしているありふれた書店になってしまわないことだ。そうなったら私は引越しを考えたくなるだろう。




讃岐うどん


高松郊外の山田屋うどん店の玄関


恐るべき讃岐うどん 2003.7

 この春、四国を旅行した。道後の湯につかり、琴平詣りをし、これまであまり縁がなかった高松を見物して、鳴戸の渦潮を眺め、淡路島まで足を延ばそうという計画だった。その旅行で何が良かったかというと、讃岐うどんの美味しさだった。いまさら、と言われるかもしれないが、うどんに生醤油をかけ、生卵をまぶしただけで立派な一品になるこの讃岐うどんの味の実力には驚嘆した。東京にも讃岐うどんを味わえる店があるのを知らなくはないし、実際に食してもいるが、今回の四国行きでは毎日、昼に讃岐うどんを食べて、どの店でも期待を裏切られなかったのは、ラーメンや蕎麦では考えられぬ初体験だった。

 もともと「長いもの」は何でも好きだが、これほど味にむらのない食品はほかに考えられないくらいだ。そういえば高松で泊まったホテルのフロントのreceptionistは、チェックインした私にわざわざ声をかけてきた。「うどんは食べましたか。私も東京から赴任してきたんですが、もう東京のうどんなど食べられなくなりましたよ」と言ったものだ。

 沖縄に戻ってきて、沖縄そばと比較してみた。沖縄そばのうまい店では「そば」と出し汁の味に何とも言えないハーモニーがあって、讃岐うどんに匹敵する美味しさが味わえるが、一口でうんざりさせられる店も多いのが実情だ。同じことは日本蕎麦にもスパゲッティにも、またラーメンにも言える。その点、讃岐うどんは麺類として世界一の食品ではないかと、いま私は考えている。沖縄の新聞記事によると、那覇の国際通りに、近く讃岐うどんのチェーン店がオープンするという。たくさん食べられないが食いしん坊の私は、大いに楽しみにしている。(四国旅行中、高速道路の「道の駅」の売店に『恐るべき讃岐うどん』という本が並んでいた。沖縄の本屋でそれが新潮文庫に入っていることを知り、驚きを新たにしたことを付言しておこう。讃岐うどんはいまや全国区になったのかもしれない。それもこれも、村上春樹のおかげだという説もあるらしいが。)




Yonda パンダ


新潮文庫 2003.8

 前に『恐るべき讃岐うどん』というローカルな実用書が新潮文庫に収められ、讃岐うどんが全国区になったというようなことを書いた。それで、新潮文庫の話題をひとつ。

  わけあって、しばらく仕事から遠ざかる日々がつづいた。私は、音楽を聴くほかには読書するしか無為の時間をうっちゃる方法を知らない。だが、しばらくは面倒な本を読むのが億劫なので、このさい前に読んで感心した作家の小説などを文庫で読み直すことにした。たとえば山本周五郎や藤沢周平の作品を、入手しうるかぎり文庫で読もうと思ったのだ。そう考えていた矢先に、親しい友人が新潮文庫のカバーに印刷されている三角のマークを何枚かまとめ、台紙に貼って送ると、ちょっとした景品がもらえることを教えてくれた。

 ご存知の人も多いと思うが、新潮文庫ではパンダにひっかけてYonda? CLUB という販促の企画を考え、何年も前から実施している。もらえる景品はパンダの鉛筆や文豪の顔をあしらった時計、マグカップとソーサー、パンダ印のトートバッグ、パンダの縫いぐるみなど安価な商品ばかり。だが、いくら金をだしても入手できない品物をもらえるというのがミソだ。高価な景品だと、集めるマークの数が何百枚にもなって、最初から集める気にもならないだろう。最大でも100枚というのがいいところではないか。これがけっこう人気を呼んで、この秋にも3回目の Yonda? CLUB の企画がスタートし、景品のラインナップも一新されるらしい。これは本の購買をそそるアイデアとしては出色だと思う。というわけで、私はこのごろ文庫本を買うとき、まず新潮文庫を物色するようになった。

 とにかく一念発起し(大袈裟だな)、新潮文庫に収められている山本周五郎と藤沢周平の作品を片っ端から購入した。目的は、読むだけでなく、景品を手に入れること。2人いる孫のためにパンダの縫いぐるみを2つ(それぞれマーク100枚、つまり文庫本200冊分を集めて)ゲットしようというわけだ。ほかにも自分用にトートバッグ(これはマーク30枚)をせしめるつもりだった。それで自分の書棚の新潮文庫をあさってカバーの隅に印刷されている三角マークを切り取ったが、けっこうあるものですね。100枚あまりが集められた。しかし、不足分は山本周五郎と藤沢周平の本だけではまかないきれないため、薄い(定価の安い)新潮文庫を90冊ほど買い足す結果となった。それらの文庫本はほぼ読了したが、あとに景品が送られてくるのを待つ楽しみが残るのは嬉しいことですね。




トートバッグ 2003.9

 先月、新潮文庫の Yonda? CLUB のことを書いて、ちょっとした景品を手に入れようとしていると書いた。それで何とか三角マークを集め台紙に貼って送ったところ、景品のトートバッグが送られてきたのである。景品の発送は台紙を送ってから4ヵ月後と書かれていたが、わずか2ヵ月後に希望の品が送られてきたわけだ。正直なところ、とても嬉しかった(孫のために手に入れようと思ったパンダの縫いぐるみのほうはまだ未着だけれど)。

 そのトートバッグは厚手の黒い生地で、パンダの小さい顔をワンポイントであしらってあり、なかなか洒落たつくりだ。もともと鞄などの袋物が好きで、ちょっと目についたものを見境なしに買うものだから、数だけはたくさんある。皮革製の鞄は手提げとショールダーをとりまぜて50個くらい所有しているし、リュックなども山登りに凝っていたころに使っていた登山用のものと最近流行のデイパックを合わせると20くらいもあろうか。

 だが、トートバッグのことを書こうと思ったのは、別に持物自慢をするためではない。かつて同じ仕事場を共有していた詩人の長谷川竜生がトートバッグを愛用していたのを思い出したからである。トートバッグというのは英語で、Tote Bag と書くが、語源は不明らしい。やや大振りの買物用手提げ袋で、おおむね布製らしく、上部は開いている。

 長谷川竜生と仕事場を共有していたのは、いまから二十数年前で、私はまだ40代。長谷川竜生は私より十歳年長だから、当時50代だったと思う。彼は、私が革のショールダーバッグを肩に掛けているのを見るたびに「いかにも重そうだな」と言ったものだ。そのたびに、私は妙なことを言うと思った。40代の私はまだ体力があって、10キロくらいのものは長時間担っていてもさほどこたえなかったからだ。ところが竜生氏は、すでに重荷がこたえるらしく、布製のトートバッグに必要な参考書だけを詰めて持ち運ぶのがつねだった。彼がいつも使っていた緑色の布のバッグは、いまでもまざまざと私の記憶に刻まれている。




詩人 2003.10

 詩人、長谷川竜生のトートバッグのことを書いたが、彼と仕事場を共用していたときのエピソードを紹介しようか。われわれが共用していた仕事場というのは、中野(現在の牧人舎の事務所とは別の場所)にあって、竜生氏と私にとって共通の知己の、ある編集者が住んでいたところを引き継いで借りることにしたものである。間取りは8畳くらいのダイニングをはさんで両側に6畳の和室があるというもので、二人が使うにはまさに好都合だった。

 そこを仕事場にして、詩人と翻訳者がそれぞれのタスクをこなすことになったわけだ。そういうかたちで仕事をするようになってから数ヵ月が経過したころ、ある夜、竜生氏の夫人が仕事場を訪ねてきた。夜の9時過ぎだったと思う。私はとびきりの早起きで、いわゆる朝型であり、当時は夜の9時ごろになると床に入って、すぐに眠ってしうのがつねだった。竜生氏のほうは典型的な夜型で朝寝坊だが、夜は何時になっても一向に平気というタイプである。そういうことも、われわれが仕事場を共用してうまくいった要因の一つだったと思う。

 ところで、長谷川夫人の訪問である。私はすでに床の中だったが、まだ眠ってはいなかった。訪ねてきたきた人の声が女性のものだったから、思わず耳をそばだてたのを覚えている。しかも彼女はこう言ったのである。「鈴木さんにご挨拶しなければ」。これは起きて寝巻を着替えなければと思ったものだ。夫人のその言葉にたいして、竜生氏はこう答えた。「もう寝てるよ」。すると夫人の声音ががらりと変わり、鋭い口調のこんなセリフが聞こえてきた。「あなた、向こうの部屋にいるのは、鈴木さんではなくて、女でしょう」> これにはたまげると同時に、笑いがこみあげてきたが、笑うわけにいかない。必死になって笑いをこらえた。おかげで、夫人の詰問への彼の返答を聞き漏らしてしまった。

 長谷川竜生はひどい躁鬱症で、鬱状態になると自分の部屋に鍵をかけて閉じこもってしまう(和室の襖に自分で鍵を取りつけたのだ)。鬱から回復した彼に、閉じこもっていたとき何をしていたのか、聞いたことがある。「とても仕事なんかできる状態ではないからな。で、何をしていたかというと、たとえば頭の中で大相撲の興行をするんだ。中入りから打ち出しまで、全部の取り組みを想像してみる。番狂わせもあって、けっこう面白いよ。でも、終わったあとは疲れて、ぐったりしちまうがね」。相撲が野球になることもあるそうだ(そういえば長谷川竜生は、戦後に日本で復活したプロ野球チームの某関西球団で、二軍選手をしていたこともあったらしい。)

 長谷川夫人も躁鬱気味だと聞いたことがある。夫人がふさぎこんでいると、彼はよくこう言ったそうだ。「俺の鬱と違って、あんたの欝は金にならない。だから、いい加減に気を取り直せよ」。詩人の鬱病が金になるというのは面白いが、それが本当だとしたら、彼は自分の精神状態を意識的に操作していた、とも考えられる。

 ときどき若い詩人たちが彼を訪ねてくることもあった。たいていは深夜で、誰もが一杯機嫌のため、ときならぬ梁山泊になることもある。そうなると、いくら習慣でも寝てなどいられず、深夜の酒宴の仲間入りをする羽目になる。あるとき、Aという新進詩人がYという女流詩人と一緒にあらわれた。みなさん相当に酩酊しており、誰とも知れぬ若者が一人、同行していた。A氏によると新宿の飲み屋で知りあい、Yさんが誘ったのでついてきたのだという。竜生氏はそんなことにはお構いなしで、自分の酒を持ち出すやら、夜食のおかずの残りを温めるやらの大奮闘。そんなこんなで1時間ほど騒いでいたが、ふとYさんが、見知らぬ若者にこう聞いたものである。

 「ところで、あんた、だぁれ?」




沖縄(ウチナー)に独特の日本語表現 2003.11

その1 「しましょうね」

 内地人(ナイチャー)にとって、沖縄の言葉は外国語に等しい。メンソーレやハイサイといった挨拶の言葉や、ヒージャー(山羊)とかアバサー(ハリせんぼん)などは沖縄料理の有名なメニューにでてくるので、何とはなしに覚えてしまうし、ゴーヤーやチャンプルーという言葉はもはや全国区と言ってもよく、わざわざ説明するまでもないだろう。

 しかし、土地の人同士が話している言葉は、私にとってはアメリカ英語の南部訛りを聞き取るよりもはるかに難しく、はなから覚える気にもなれない。沖縄に住んだからといって、覚束ない方言を口にしたところでご愛嬌にもならず、軽蔑されるのがオチだろう。

 しかし沖縄に住んで、慣れるのにしばらく時間がかかったのは、本土と同じ日本語のようでありながら、沖縄の人の慣用的な言いまわしの意味が、ナイチャーのそれとはいささか異なったニュアンスをもっている場合だ。それをいくつか紹介してみたいと思う。知っていたら来沖したとき、あるいは面食らわっずにすむかもしれない。

 まず、買物をしたときなどに、店の人から「包みましょうね」と言われることがある。この場合の「……しましょうね」というのは問いかけではなく、「包みます」という、先方の意思表示である。最初のうちは慣れないために「お願いします」などと答えたものだ。そう答えても別に不都合ではないが、答える必要はない。答えるなら「有難う」のほうが適切だ。しかし「……しましょうね」という言葉の優しい響きはとてもいい感じですね。

 とはいえ、こんな場合もあるから要注意だ。夜、土地の若い人に混じってビーチでバーベキューを楽しんだとする(沖縄では、これをビーチパーリーと称する)。そんなとき、沖縄の魅力的なネーネー(娘さん)が「帰りましょうね」と言ったとする。自分が誘われたと思って「お供します」なんて言ったら間違いなく横っ面を張られること請け合いだ。ネーネーは「もう帰ります」と言ったのである。送り狼と思われるから、こんなときにあわてて答えるのは禁物である。

その2 「だからよー、なんでかねー」

 それから、「だからよー」という言葉は、ウチナーンチュが実によく使う言葉だ。意味は、いちおう「そうだね」という相槌の言葉ということになっている。「勉強しないと落第するよ」と言われた子供が「だからよー」と答えたとする。とはいっても、これは相手の助言をまともに受け取っての素直な返答だと思ったら大間違い。勉強する気持ちなどさらさらなくても、相手の意見を尊重すると同時に、耳の痛い助言を交わす意図もあるのだ。

 でも「だからよー」はそんな杓子定規な意味づけを拒否した言葉でもある。相手の言葉の否定でもあれば肯定でもあるといったニュアンスがある。こうなるとTPOおよび相手の性格なども考えて判断するしかない。このセリフは実に頻繁に発せられる。要するに、これはいろいろな意味や要素や効用をもった言葉で、私などが解説するのは不可能に近い。

 「だからよー」と並んできわめてよく耳にするのが「なんでかねー」という言葉だ。ヤマトンチューの「なぜだろうか」と同じ表現だと思ったら違います。何かの約束に遅れたりしたとき、うっかり「どうして遅れたの」なんて聞くと、相手はきっと「なんでかねー」と言ったりするが、これは「はぐらかし」とか「言い訳」とも違うので、当方は困惑させられる。複数の人間が議論しているとき、誰かが「なんでかねー」と合いの手を入れることもあるが、そこで議論はストップしてしまうこともあれば、議論がさらに沸騰し、新たな展開を示すこともある。とにかく、これも「だからよー」と同じく解説不能の言葉だ。

 「こわいさー」という表現もよく聞かれるが、これは前の二つとは違って、「怖い」、「硬い」「辛い」、「疲れる」、「面倒」などの意味で使われると言える。ついでながら、「〜さー」という語尾はウチナーンチュが語尾によく使う慣用的な言い回しである。

 もう一つ、最初に沖縄で頻繁に耳にしてちょっと奇異に感じたのは、「わけ」という言葉が濫用されることだ。沖縄に住むようになってまだ日が浅いころ、5,6歳の坊やが母親に向かって「どういうわけで、そうなっちゃうわけ」と言って、何かのことで抗議しているのを耳にし、ちょっと驚いたことがある。その後、気ををつけていると、大人も「わけ」を頻発していることがわかった。子供はそれに倣っているだけだったのだ。

 以上、沖縄でよく耳にする「標準語的な沖縄流イディオムを紹介したが、ここで忘れてならないのは、沖縄の人の口調とイントネーションが、これらの表現とは切り離せないということだ。ウチナーンチュのやや甲高い声音と独特の抑揚でこれらの言葉が発せられるのを耳にすると、沖縄に来たな、と改めて実感するのである。




幼児に教えられる 2003.12

 私には二人の孫がいる。たまたま遊びにきたときにつきあって遊ぶが、思わず考えこまされることがよくある。次男の子供は三歳半になる男児だが、言葉がかなり自由になって、よくおしゃべりをする。今年から保育園に通うようになったことも、言語能力の発達に役立っているようだ。

 今年の秋、たまたま両親に連れられて、三男の家族(やはり三歳になる男児がいる)ともども中野にやってきた。二人の孫を見ていると、親と似ているところがが非常に目につく。といっても容貌や身体的な特徴だけでなく、性格的な面でもそうなのだ。

 次男の子供は父親ととてもよく似ている。父親が小さいときには、やはりおしゃべりで、学校であったこと、釣に行ったときのことなど、帰宅してから詳細に報告するのがつねだった。孫(亮という)と話していて、本当にそっくりだと思うことがよくある。

 三男のほうは、幼時から口が重く、必要なこと以外はあまり口をきかない子供だった。だが、ときに思いもかけぬほど鋭い反応を示すことがあった。私は彼を、心のなかで「一言居士」と呼んでいた。彼の子供(空弥という)も父親に似たのか、どうも口が重いようだ。(これは、つい亮と比較してしまうせいもあるだろう。何しろ三歳くらいの幼児にとって、半年という年齢差は、言語能力に大きな違いをもたらすはずだ。)

 ところで、孫たちと遊んでいて、ついうっかりとバランスという英語を使ってしまった。すると亮が即座に「バランスって、なに?」と聞き返してきた。しまったと思ったが、遅かった。耳慣れない言葉に敏感な反応を示すのは、父親が小さいときにもそうだったのだ。

 さて、バランスを幼児にどう説明したらいいか、ひどく困惑させられた。「均衡」とか「平衡」や「安定」という意味があるが、これでは幼児への説明に使えない。質問が果てしなく続いてしまうからだ。そういえば「差額」とか「預金残高」という意味もあったはずだなどと、ピントはずれなことを考えてしまう。亮は、私の返答をじっと待っている。私はしばらく考えていたが、ふと、これは仕事で訳しにくい言葉にぶつかったときの自分の思考過程と似ているなと思ったことである。

 仕事では、そんなときにまずは辞書の訳語を思い浮かべる。次にその言葉から触発される具体的なイメージを頭のなかに描いてみる。それによって、辞書の「死んだ」訳語に生命を吹き込むわけだが、そういう手続きを踏まずに辞書の訳語だけを頼りにして、そのセンテンスに最もしっくりしそうな訳語を文中に嵌めこむのはヘマな翻訳者の常套手段だ。

 それで、このときはどうしたか。仕方がないのでシーソー(ぎったんばっこ)の例えを使ってお茶を濁したわけだが、思わぬ冷や汗をかいたことである。